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知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


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14/14

第14話 知っている明日

数日後、大学構内を並んで歩いていたとき、葵が携帯電話を差し出した。


「面接、金曜日」


蓮は出版社から届いた案内を見る。


受付時間。


場所。


面接開始――午後三時半。


「ここ?」


「うん」


葵は少し嬉しそうに笑った。


「野村さんもいるみたい」


「そっか」


蓮も笑い、そのまま何気なく日付を確認したところで表情が止まった。


金曜日。


もう一度見る。


間違いではない。


確かに、その日だった。


「……金曜?」


葵がこちらを見る。


「うん」


「この日?」


「そうだけど。何?」


蓮は答えなかった。


記憶の奥で何かが引っかかっている。


金曜日。


午後。


病院。


断片が、ゆっくり形を取り始めた。


ずっと先、二人で暮らしていた頃。葵がベッドの端に座り、古い写真を整理していた。何枚かめくったあと、少し折れた一枚を取り出す。


病院の待合室。


『これ、何?』


蓮が何気なく聞くと、葵は写真を見て一瞬だけ表情を変えた。


『大学のとき』


『病院?』


『うん』


少し間があって、


『お母さんが倒れた日』


蓮は顔を上げた。


『そんなことあった?』


葵はしばらくこちらを見ていた。怒ってはいなかった。ただ、少し疲れたように笑った。


『覚えてない?』


蓮は答えられない。


葵は写真へ目を戻した。


『あの日、一人で病院行ったんだよ』


そこで記憶は途切れた。


「蓮?」


目の前の声で戻る。


手には葵の携帯電話。


目の前には、まだ何も知らない葵。


「何でもない」


反射的に出た。


言ってから、自分で止まる。


まただ。


都合が悪くなると、すぐにこの言葉で閉じる。


葵は何も言わず、待っていた。


蓮は一度息を吸う。


「……その日、ほかに予定ある?」


「午前は授業。午後は面接」


少し考えて、


「それだけ」


蓮は自分でも不自然だと思いながら聞いた。


「家は?」


葵の眉が寄る。


「家?」


「お母さんとか」


「お母さん?」


「うん」


「何で?」


答えられない。


知っていることが少なすぎた。


その日、葵の母親が倒れる。


葵は病院へ行く。


そして、前の葵は一人だった。


それだけ。


何時だったのか。


どこで倒れたのか。


原因は何だったのか。


何一つ思い出せない。


「蓮?」


もう一度呼ばれ、蓮は携帯電話を返した。


「ごめん」


今回は「何でもない」とは言わなかった。


けれど、それ以上も言えなかった。


その夜、蓮は机に座り、金曜日の予定を何度も見ていた。


午後三時半。


出版社。


その横に、記憶の中の別の文字が重なる。


病院。


母親が倒れる。


葵が一人で行く。


何度思い返しても、それ以上は戻ってこない。


蓮は携帯電話を取り、葵との画面を開いた。


『お母さん、最近体調悪くない?』


そこまで入力して止まり、削除する。


今度は、


『金曜日、面接行かないほうがいいかも』


と書き、また消した。


理由を聞かれたら、何と答える。


それに、本当にそれが正しいのか。


母親が倒れるのが面接中なら、行かなかったところで何も変わらない。夕方なら、なおさらだ。


葵がようやく自分で掴みかけた機会を、理由も言えずに手放させるだけになる。


蓮は携帯電話を伏せ、備忘録を開いた。


そこには、自分で書いた言葉が並んでいる。


知らされてないことを、隠されてることにしない。

葵が変わったら、また知ればいい。


これまでは、それでよかった。


好きなものが変わる。


仕事が変わる。


知らない人が増える。


それは全部、葵自身が選ぶ人生だ。


けれど今回は違う。


選択の先に、実際に傷つく出来事があるかもしれない。


知っているのに黙ることが、本当に正しいのか。


初めて、自分で書いてきた答えだけでは足りないと思った。


翌日の昼、食堂で直人と向かい合っていた蓮は、しばらく黙ったあと突然聞いた。


「もしさ、友達が明日、事故るって分かってたらどうする?」


直人の箸が止まる。


「何その縁起悪い質問」


「例えば」


直人はほとんど考えなかった。


「止める」


「でも、止めたせいでそいつが何か失うかもしれない」


直人が眉を寄せる。


「事故るよりいいだろ」


「事故じゃなくて」


「じゃあ何なんだよ」


蓮は黙った。


言えるはずがない。


直人は数秒こちらを見たあと、また食べ始めた。


「高橋」


「ん?」


「助けたいのか」


一口食べる。


「自分が正しかったって証明したいのかで、違うんじゃない」


蓮が顔を上げた。


直人はもうこちらを見ていない。


「知らんけど」


いつものように、最後だけ適当に終わらせる。


けれど蓮は、その言葉を忘れられなかった。


助けたい。


それとも。


自分の知っている未来が正しいことを、確かめたいだけなのか。


金曜日の午前、授業を終えた葵が校舎から出てきた。


普段より少しだけきちんとした服。


そのまま出版社へ向かうのだろう。


教学棟の前には、蓮がいた。


葵が気づく。


「どうしたの?」


「今日」


蓮は少し迷ってから言った。


「面接終わったら、連絡して」


「うん」


「絶対?」


葵の表情が変わった。


「……何でそんなに心配してるの?」


蓮は答えられない。


葵はしばらく彼を見たあと、静かに言った。


「また怖い顔してる」


蓮は何も言えなくなる。


その通りだった。


今日も。


ただ今回は、自分だけが理由の一部を知っている。


蓮はとうとう聞いた。


「お母さん」


葵が完全に止まる。


「……お母さん?」


「元気?」


「元気だけど」


「最近、何か言ってない?」


「何を?」


「体調悪いとか」


葵の眉が少しずつ寄っていく。


「別に」


そして当然のように聞いた。


「何で?」


蓮はまた答えられない。


数秒のあと、


「何となく」


としか言えなかった。


これでは安心させるどころか、余計に不安にさせただけだ。


「蓮」


「うん」


「私に今日、何か起きると思ってる?」


胸が大きく鳴った。


葵は続ける。


「前もそうだった」


蓮は動かない。


「雨の日」


最初のアルバイト面接。


傘を貸した翌日。


蓮は聞いた。


『転ばなかった?』


葵は、まだ覚えていた。


「『転ばなかった?』って聞いたよね」


「……うん」


「今日も、何か知ってるみたい」


「知らない」


答えが早すぎた。


言った瞬間、自分でも分かった。


葵にも、きっと伝わった。


短い沈黙。


蓮は視線を落とし、言い直す。


「……心配なんだ」


「何が?」


今度は蓮も考えた。


「分からない」


嘘ではなかった。


何時なのか。


どうやって起きるのか。


どれくらい深刻なのか。


自分は何をすればいいのか。


本当に何も分からない。


ただ、一つだけなら言える。


「今日」


蓮は葵を見る。


「葵に何かあったら嫌だと思ってる」


葵は長いあいだ彼を見た。


それ以上、問い詰めなかった。


「……そっか」


時計を見る。


「行かなきゃ」


「うん」


葵は数歩歩いてから振り返った。


「面接」


少し笑う。


「行ってくる」


その瞬間、蓮の中に、


行くな。


という言葉が浮かんだ。


けれど、口にはしなかった。


「うん。行ってらっしゃい」


葵が少し笑う。


「行ってきます」


そのまま歩いていった。


蓮は追わなかった。


出版社の近くまで来た葵は、少し早かったためカフェへ入った。


テーブルには面接資料と飲み物。


何度か自己紹介を確認する。


けれど、思ったほど集中できない。


蓮の顔が何度も浮かんだ。


お母さん、元気?


どうして、あんなことを聞いたのだろう。


そのとき携帯電話が光った。


母親。


葵の心臓が一瞬強く鳴る。


メッセージを開く。


『今日、夕飯いらない』


数秒止まり、すぐ返信した。


『どこか行くの?』


少しして、


『友達とご飯』


葵は知らないうちに、大きく息を吐いていた。


安心している。


そのことに自分で気づく。


「……何してるんだろ」


蓮の言葉に完全に影響されている。


母親から普通の連絡が来ただけなのに、一瞬、悪い知らせかと思った。


葵は少し眉を寄せ、携帯電話を裏返した。


もう見ない。


一度、深呼吸。


資料を開く。


今日は、自分の面接だ。


午後三時半。


面接室には、野村と二人の担当者がいた。


最初はかなり緊張していた。手を膝の上に置いていないと、指先が落ち着かない。


「なぜ応募したんですか」


準備していた質問だった。


書店での経験。


そこで何を感じたか。


どんな本が好きか。


文章を書くとき、何を大切にしているか。


葵は一つずつ答えた。


初めは、事前に考えた文章を思い出しながら。


けれど途中から、それでは足りなくなった。


自分の推薦カードを読んだ客が、本を手に取ってくれた日のこと。


思っていた以上に嬉しかったこと。


出版の仕事に絶対進むと決めているわけではないこと。


だからこそ、今はもっと知りたいと思っていること。


少しずつ、自分自身の言葉で話すようになった。


野村が何度か小さく頷いた。


最後に、一人の面接官が聞く。


「何か質問はありますか?」


用意してきたものはいくつかあった。


けれど今、別のことが気になった。


「実習生が実際の企画へ関わる場合、意見を出すところまで参加できますか?」


面接官が説明を始める。


葵は真剣に聞いた。


蓮に考えてもらった質問ではない。


野村から教えられたものでもない。


自分が本当に知りたいと思ったことだった。


面接が終わり、出版社の建物を出た瞬間、葵は大きく息を吐いた。


「終わった……」


一人で少し笑う。


手応えがあるかは分からない。もっといい答え方もあった気がする。


それでも最後まで、自分で話した。


少しだけ誇らしかった。


携帯電話を取り出し、蓮に連絡しようとした。


そのとき、着信が入った。


知らない番号。


一瞬迷ってから出る。


「はい」


相手が何かを言った。


葵の顔から笑みが消えた。


「……え?」


周囲の音が遠くなる。


「母が?」


手にしていた資料が震えた。


「今、どこですか?」


相手の説明を聞く。


「はい。分かりました」


通話が切れた。


葵は数秒動けなかった。


そして、走り出した。


同じ頃、大学図書館で蓮は本を開いていた。


けれど、ほとんど読んでいない。


三時四十分。


まだ面接中かもしれない。


三時五十分。


連絡はない。


四時。


何も来ない。


ただ面接が長引いているだけ。


そう思おうとする。


それでも頭に浮かぶのは、病院の待合室に一人で座る葵だった。


『あの日、一人で病院行ったんだよ』


四時を少し過ぎた頃、携帯電話が震えた。


蓮はほとんど反射的に取る。


葵。


一文だけだった。


『お母さんが倒れた』


蓮は立ち上がった。


椅子が大きく後ろへずれ、床に鋭い音を立てた。


周囲の視線は、もう気にならない。


すぐに電話する。


一度目の呼び出しで、葵が出た。


「蓮」


声が震えている。


「今どこ?」


葵が病院名を言う。


蓮は鞄を掴んだ。


「行く」


すぐに言った。


「でも――」


「行く」


もう一度、強く言う。


そして足が止まった。


今、また自分が決めた。


葵が来てほしいかどうかも聞かずに。


蓮は一度目を閉じる。


「……じゃなくて」


電話の向こうで、葵は黙っている。


蓮は聞き直した。


「行ってもいい?」


短い沈黙。


やがて、


「……うん」


葵の声が少し崩れた。


「来てほしい」


その一言を聞いた瞬間、蓮は走り出した。


病院の廊下。


葵は長椅子に座っていた。


面接の服のまま。


膝には出版社の資料が入ったファイル。強く握りすぎたせいか、角が少し曲がっている。


蓮は廊下の向こうから走ってきた。


葵を見つけて速度を落とす。


目の前まで来る。


まだ息が整っていない。


「葵」


顔が上がる。


蓮を見た瞬間、何とか保っていた表情がほんの少し崩れた。


蓮はすぐには抱きしめなかった。


触っていいのか分からない。


ただ、葵の前にしゃがんで目線を合わせる。


「どう?」


葵は首を振った。


「まだ検査してる」


「そっか」


「うん」


蓮は隣へ座った。


それからは、何も言わなかった。


大丈夫。


きっと何もない。


心配しなくていい。


そんな言葉も使えない。


確かなことは何一つない。


だから、ただ隣にいた。


しばらくして、葵がぽつりと言う。


「面接」


蓮が横を見る。


「うん」


「行った」


「うん」


「最後まで」


蓮は頷いた。


「うん」


葵の目が、少しずつ赤くなる。


「電話来たの。終わったあとだった」


蓮は何も言えなかった。


記憶の中では、この日、葵は一人で病院へ行った。


でも今回は。


面接は終わった。


葵は、自分で選んだものを失わなかった。


そして今、自分もここにいる。


同じ日。


同じ出来事。


それなのに、確かに違っていた。


そのことを考えた瞬間、


「蓮」


と呼ばれた。


「ん?」


葵はこちらを見ている。


怒ってはいなかった。


むしろ、怖がっていた。


「知ってた?」


蓮の身体が止まる。


「何を」


言いながら、何を聞かれているのかは分かっていた。


「今日、お母さんに何かあるって」


蓮は何も答えられなかった。


その沈黙が、ほとんど答えになっていた。


ちょうどそのとき、廊下の奥から医師が出てきた。


葵が立ち上がり、蓮も続く。


検査結果は深刻なものではなかった。


過労と軽い貧血。


念のため今夜は入院して経過を見るが、命に関わる状態ではない。


「……よかった」


葵の足から力が抜け、身体が少し傾く。


蓮が反射的に腕を支えた。


葵は振り払わなかった。


しばらくして母親の意識もはっきりし、葵は病室へ入った。


蓮は外に残る。


一緒に入るとは言わなかった。


今は家族の時間だ。


廊下の長椅子へ座る。


ずっとあとに見た、一枚の写真を思い出す。


病院。


若い葵。


一人。


あのときの自分は何も知らなかった。


今日は、ここにいる。


これは、変えてよかったのだろうか。


たぶん。


でも。


もし朝、自分が強く「面接へ行くな」と言っていたら、葵は行かなかったかもしれない。


けれど母親は、それでも倒れた。


電話も来た。


ただ葵だけが、一つの機会を失っていた。


蓮は両手を組んだ。


助けること。


止めること。


知っていること。


決めること。


似ているようで、全部違う。


夜、葵が病室から出てきて蓮の隣に座った。


「大丈夫だって」


蓮はようやく、まともに息を吐いた。


「よかった」


「うん」


しばらく、どちらも話さなかった。


静かな廊下の遠くで、カートの車輪が動く。


看護師の声。


機械音。


やがて葵がもう一度呼んだ。


「蓮」


「うん」


「知ってた?」


今度は、逃げられなかった。


「何でもない」も。


完全な嘘も。


もう使えない。


蓮は葵を見る。


「……知ってたわけじゃない」


葵の眉が動く。


「じゃあ、何?」


長い沈黙。


本当なら、知っていた。


記憶として。


けれど、それが本当に未来なのか、過去なのか、夢なのか。


蓮自身にさえ、まだ説明できない。


最後に、


「そうなる気がしてた」


と答えた。


葵はじっと見る。


「どうして?」


「……分からない」


その瞬間、葵の顔にはっきりと疲れが出た。


「またそれ」


蓮は何も言い返せなかった。


葵は前を向く。


「雨の日も」


蓮の手がゆっくり握られる。


「今日も」


少し間を置いて、


「たまに、ずっと先のことを本当に知ってるみたいに話すし」


蓮が顔を上げる。


葵もこちらを見る。


「蓮って」


言葉を探すようにして、


「私より先の私を、知ってるみたい」


蓮の呼吸が止まった。


とうとう、そこまで来た。


最初は。


私のこと知ろうとしてるんじゃなくて、思い出そうとしてるみたい。


次は。


まだ起きてないことを心配してるみたい。


そして今。


私より先の私を知ってるみたい。


葵自身も、言ってから少し戸惑ったらしい。


「……何言ってるんだろ、私」


小さく笑った。


けれど、その笑みは少しも軽くなかった。


蓮は何度も口を開きかけた。


葵。


本当なんだ。


俺は君と長い時間を一緒に過ごした。


一緒に暮らした。


君は変わった。


俺も変わった。


最後には、君がいなくなった。


だから――


言えなかった。


全部話したら、葵は自分をどう見るだろう。


それに、蓮自身がまだ確信できていない。


これは本当に過去へ戻っているのか。


それとも、ただ見続けている長い夢なのか。


もし夢なのなら。


今、目の前にいる葵は、一体誰なのか。


「葵」


「ん?」


蓮は最後まで言葉を探した。


けれど、口から出たのは、


「……ごめん」


だった。


葵は静かに目を閉じた。


数秒。


そして、


「今は、それ聞きたくない」


と蓮を見る。


「……うん」


病院を出た頃には、もう遅い時間だった。


二人は駅まで歩いた。


ほとんど話さなかった。


喧嘩をしたわけではない。


でも、今までとは違う沈黙だった。


改札前で葵が足を止める。


「蓮」


「うん」


少し迷ったあと、


「今日、来てくれたのは嬉しかった」


蓮が顔を上げる。


「本当に。一人だったら、たぶんもっと怖かった」


声が少し揺れる。


蓮は黙って聞く。


「でも」


葵は一度息を吸った。


「何かを知ってるみたいに心配されるのは、怖い」


蓮は言い訳しなかった。


心配してるだけ。


君のため。


そんな言葉も使わない。


「うん」


それだけ答えた。


葵の表情がほんの少し緩む。


「明日、連絡する」


「分かった」


葵は改札へ入っていった。


今回は、振り返らなかった。


蓮は背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。


部屋へ戻ったあと、蓮は備忘録を開いた。


高橋蓮。


長いあいだ画面を見てから、一行書く。


知っていることは、助ける理由になる。


その下に。


でも、決める権利にはならない。


何度か読み返す。


今日、もし何も知らなかったら、母親が倒れたと聞いたあと病院へ行くだけだった。


でも知っていたから、朝から怖かった。


何とかしたかった。


面接を止めればいい。


母親のところへ行かせればいい。


そう考えた。


結果的には、止めなかった。


そして事件が起きたあと、勝手に病院へ行くのではなく、


行っていいか。


と聞いた。


葵が、


来てほしい。


と言ってから行った。


それだけだった。


それでも未来は、前とは違った。


葵は面接を終えた。


病院にも行った。


そして、一人ではなかった。


けれど同時に、葵を怖がらせた。


蓮はもう一行書く。


俺は、どこまで言っていい?


その問いだけには、まだ答えがなかった。


これまで考えていたのは、


どうすれば未来を変えられるのか。


だった。


けれど今、初めて問いそのものが変わった。


自分には、未来を変える権利があるのか。


そして。


もしこれは本当に夢なのだとしたら。


その夢の中でさえ、目の前の葵の人生を、どこまで自分が触っていいのだろう。


同じ夜、葵は一人で家へ戻った。


母親は病院に残っている。


いつもの家なのに、驚くほど静かだった。


鞄を床へ置くと、ファイルの間から面接資料が滑り落ちた。


拾い上げ、そのまましばらく見つめる。


今日。


面接を受けた。


最後まで。


そのあと電話が来た。


母親が倒れた。


病院へ走った。


蓮が来た。


母親は大丈夫だった。


たった数時間の中で、いくつものことが起きた。


葵はベッドの端に座り、ふと思う。


もし朝、蓮が本当に強く止めていたら。


今日は面接に行くな。


理由も分からないまま、あんな怖い顔でそう言われたら。


自分は、行かなかったかもしれない。


蓮があまりにも真剣なら、何かあるのだと思って。


けれど母親は、それでも倒れた。


電話も同じように来た。


自分は病院へ向かった。


ただ、面接だけがなくなっていた。


葵は資料の端を指でなぞる。


蓮が止めなかったから、今日は二つとも自分の人生に残った。


面接を最後まで受けた自分。


母親を心配して病院へ走った自分。


その両方。


だから、今日、蓮がしてくれたこと自体は嫌ではなかった。


病院へ来てくれたことも、本当に嬉しかった。


けれど。


どうして。


朝の時点で、何かが起きると分かっていたような顔をしたのだろう。


雨の日。


転ぶ前から、転ぶことを心配した。


神社では、自分がまだ言っていない言葉を待っていた。


ずっと先の自分を、本当に知っているような声で話した。


そして今日。


母親。


偶然。


そう考えることはできる。


ただ。


偶然が、少しずつ増えすぎている。


暗い部屋の中で、葵は誰にも聞こえない声で呟いた。


「何を知ってるの……蓮」


返事はない。


静かな部屋だけが残った。

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