第8話 君のため
月曜日の午前、講義を終えた蓮がノートを鞄へしまい、教室を出ようとしたところで教授に呼び止められた。
「高橋」
「はい」
振り返ると、一枚の資料を差し出される。
「これ。前に興味あるって言ってただろ」
受け取って目を落とした。
学内の研究プロジェクトの募集要項だった。夏休み中、地方の大学と合同で行う短期調査で、現地滞在はおよそ三週間。
「俺が?」
思わず聞き返すと、教授が笑った。
「忘れたのか?」
蓮はもう一度資料を見る。
研究テーマ。日程。応募条件。
読み進めるうちに、少しずつ記憶が戻ってきた。
確かに興味があった。
学生だった頃の自分は、この研究に参加してみたいと思っていた。申請書を書こうとしたこともある。
けれど、結局行かなかった。
理由だけが、すぐには思い出せなかった。
「締切、金曜だから。興味あるなら出してみな」
「はい」
教室を出たあとも、蓮は手元の資料を見ていた。
三週間。
その数字だけが、妙に大きく見えた。
昼休み、葵は校舎の外にある長椅子で本を読んでいた。蓮が近づくと顔を上げる。
「何読んでる?」
「この前の続き」
藤井に借りた随筆集だった。
蓮が隣に座ると、葵はすぐに彼の手元の紙へ気づいた。
「それ何?」
「ああ」
蓮はほとんど無意識に資料を二つに折った。
「別に」
口にした瞬間、自分で気づいた。
葵も何も言わず、こちらを見ている。
また「何でもない」。
神社の日に言われたばかりだった。
都合が悪くなると、すぐに何でもないと言う。
蓮は折った紙を見つめ、もう一度開いて葵へ渡した。
「これ」
「研究プロジェクト?」
「うん」
葵は募集要項に目を通す。
「三週間?」
「夏休み」
最後まで読んだあと、意外なほど明るい声で言った。
「面白そう」
蓮は少し驚いた。
「そう?」
「蓮、こういうの好きなんでしょ?」
今度は蓮が黙った。
少し前まで、自分ばかりが葵のことを知ろうとしていた。何が好きか、どんな時間が必要か、何をしたいのか。
けれど今、葵も自分を見ている。
「……たぶん」
「何、その“たぶん”」
蓮は笑った。
「昔は好きだった」
「昔っていつ?」
一瞬、表情が止まる。
「……高校とか」
かなり苦しい答えだった。
葵はそれ以上追及せず、資料を返した。
「応募すれば?」
蓮は受け取ったものの、すぐには答えなかった。
午後、一人で構内を歩きながら、何度も募集要項を開いた。
三週間。
行きたいかと聞かれれば、行きたい。
研究内容にも興味がある。学生のうちにしかできない経験だ。
それなのに、何かが引っかかっていた。
歩いているうちに、忘れていた記憶がゆっくり戻ってくる。
大学時代、パソコンの前に座っている自分。
画面には、同じ研究プロジェクトの応募フォームが開かれていた。名前も所属も、途中まで入力してある。
そのとき携帯電話が鳴った。
葵からだった。
『夏休み、どこか行きたいね』
少しして、もう一通。
『蓮と長くいられるの初めてかも』
若い自分はその文章を読み、申請フォームを見た。
もう一度、葵のメッセージを見る。
しばらく迷ったあと、ブラウザを閉じた。
そこで記憶は途切れた。
蓮は構内の真ん中で足を止めた。
ようやく思い出した。
自分は選ばれなかったのではない。
応募しなかった。
興味がなくなったわけでも、葵に止められたわけでもない。
付き合い始めたばかりだったから、初めての夏休みをできるだけ一緒に過ごしたかった。
ただ、それだけだった。
夕方、蓮は書店カフェの前に立っていた。店内には入らず、ガラス越しに葵を見る。
葵は客に一冊の本を見せ、何かを説明していた。客が笑い、葵も笑う。
最近、この店にいる彼女はよく笑う。
蓮は手にしている資料へ目を落とした。
三週間。
参加すれば、夏休みの三週間、葵には会えない。
過去の自分は思った。
付き合い始めたばかりなのに、三週間も離れるなんて。
そして今も、同じことを思っている。
むしろ、以前より強く。
蓮だけは知っているからだ。
葵と一緒にいられる時間が永遠ではないことを。いつか終わることを。一度、本当に失ったことを。
だから、一日でも多く一緒にいたい。
その気持ち自体は、今でも間違っているとは思えなかった。
店の扉が開き、仕事を終えた葵が出てきた。蓮を見つけて少し驚く。
「いたの?」
蓮は資料を鞄の陰へ隠すようにした。
「今来た」
葵がじっと見る。
「嘘」
「何で」
「蓮、嘘つく時ちょっと目そらす」
蓮が瞬きをした。
「そうなの?」
言った葵自身も、少し驚いたように笑った。
「たぶん。今知った」
蓮も笑った。
誰かを知るというのは、こういうことなのかもしれない。
大きな秘密を全部把握することではない。
嘘をつくとき、少しだけ目を逸らす。
そんな小さなことを、一つずつ見つけていくこと。
二人は駅へ向かって歩き始めた。
少しして、葵が聞く。
「応募する?」
研究プロジェクトのことだった。
「まだ決めてない」
「何で?」
蓮は少し黙った。
今度は、「何でもない」とは言わなかった。
「三週間だし」
「うん」
「会えなくなる」
葵の歩調が少しだけ緩くなる。
「それだけ?」
「それだけって」
「電話できるし、夏休み全部じゃないし」
「うん」
葵は蓮を見る。
「行きたいなら行けばいいじゃん」
蓮はすぐには答えなかった。
「でも、葵は?」
「私?」
「寂しくない?」
葵は少し考えた。
気を遣って、すぐに「平気」とは言わない。
ちゃんと自分の気持ちを探してから、
「寂しいと思う」
と答えた。
蓮が見る。
「でも、寂しいのと、行ってほしくないのは別」
蓮は何も言えなかった。
あまりにも単純な言葉だった。
寂しい。
それでも、行ってほしい。
どちらか一つを消さなくてもいい。
二つとも、本当でいい。
駅前まで来ても、二人はすぐには別れなかった。蓮は手元の資料を見る。
「昔さ」
「うん?」
「好きな人のために何か諦めるのって、優しいことだと思ってた」
葵が聞く。
「今は?」
「……分かんない」
葵もしばらく黙ったあと、
「私だったら、ちょっと嫌かも」
と言った。
蓮が顔を上げる。
「何が?」
「私のために諦められるの」
予想していなかった。
「嫌?」
「一回ならいいよ。たまたま予定合わせるとか、今日は私が行きたいところを優先するとか」
少し考えてから、続ける。
「でも何回もされたら……そのうち、返さなきゃいけない気がする」
蓮の表情がゆっくり変わった。
返す。
その言葉が胸に残った瞬間、一つの記憶が蘇る。
ずっと先。
二人で暮らしていた部屋。
夜。
葵はキッチンに立ち、蓮は疲れていた。
何について言い争っていたのかまでは、もうはっきりしない。仕事だったかもしれない。将来のことだったかもしれない。
ただ、自分が言った言葉だけは戻ってきた。
『俺だって、葵のために色々諦めてきたよ』
葵は反論しなかった。
長く黙ってから、
『頼んでないよ』
と言った。
当時の蓮は、その言葉にひどく傷ついた。
自分がどれだけ葵を優先したと思っているのか。どれだけ我慢し、どれだけ自分の選択を変えたのか。
それを全部、「頼んでいない」の一言で無かったことにされたように感じた。
けれど今、目の前の若い葵が言う。
「返さなきゃいけない気がする」
蓮は初めて、あの日の言葉を別の方向から見た。
『頼んでないよ』
あれは、「してくれたことなんて意味がない」という意味ではなかったのかもしれない。
もしかすると。
私が頼んでいない選択まで、どうして最後には私の責任になるの。
そういうことだったのかもしれない。
「蓮?」
葵の声で戻る。
「ごめん」
反射的に言うと、葵がすぐ返した。
「何で謝るの?」
蓮は笑った。
この質問を、何度聞いたか分からない。
「癖かも」
「変な癖」
「直す」
「本当に?」
「たぶん」
「また、たぶん」
二人とも笑った。
葵が改札へ向かおうとする。
その背中を、蓮は呼び止めた。
「葵」
「ん?」
振り返る。
蓮は手にしていた資料を少し持ち上げた。
「応募する」
葵の顔が明るくなる。
「うん」
「受かるか分かんないけど」
「受かったら?」
「行く」
葵が頷く。
「うん」
「三週間」
「知ってる」
蓮は少し笑った。
「寂しい?」
葵はわざと考えるふりをした。
「ちょっと」
「ちょっと?」
「……結構」
蓮が笑い、葵も笑う。
でも最後には、まっすぐ言った。
「でも、行って」
蓮はその顔を見て、
「うん」
と答えた。
翌日、大学のパソコン室で蓮は応募画面の前に座っていた。
名前、所属、研究テーマ、応募理由。
一つずつ入力する。
最後に残ったのは「送信」だった。
そこだけで指が止まる。
以前の自分も、ここまで来た。
そして画面を閉じた。
蓮はしばらく「送信」の文字を見つめる。
『寂しいのと、行ってほしくないのは別』
葵の声が浮かんだ。
指を動かす。
クリック。
申請が送信された。
画面が切り替わる。
何も起きない。
雷が鳴るわけでも、空気が変わるわけでもない。
ただ、一件の応募が完了しただけだった。
人生には、こういう小さな選択がいくつもある。
けれど蓮には分かっていた。
また一つ、自分が覚えている人生とは違うものを選んだ。
そして今回は、葵の出来事を変えたのではない。
自分が、自分の選択を変えた。
昼休み、蓮が直人に「応募した」と話すと、直人は驚いて顔を上げた。
「マジ?」
「うん」
「前、やめるって言ってなかった?」
蓮が見る。
「言ってた?」
「言ってたよ。彼女できたから夏休み空けたいとか」
蓮の表情から、少しだけ笑みが消えた。
「……俺、そんなこと言ってた?」
「言ってたよ。彼女できて三日で人生変えすぎだろって思った」
蓮も一度は笑った。
けれど、すぐ静かになった。
記憶を都合よく作り替えていたわけではない。
勘違いでもなかった。
当時の自分は、本当にそうしていた。
葵に頼まれたわけではない。行かないでと言われたわけでもない。
自分から、一つずつ選択を変えていた。
葵のために。
その日の午後、書店カフェでは、仕事中の葵に真紀が声をかけた。
「水野さん、この前の紹介カード、評判よかったよ」
葵の目が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん」
真紀はさらに一枚、資料を渡した。
近隣のいくつかの独立書店が、夏休みに小さな合同読書イベントを開くらしい。選書、紹介文、当日の展示。それぞれの店舗から、若いスタッフを一人推薦できるという。
「興味ある?」
葵は資料を受け取った。
「私でもいいんですか?」
真紀は笑った。
「やりたいなら」
日程を見る。
準備期間は夏休み。
葵は少し考えただけで笑った。
「やりたいです」
横を通った藤井が言う。
「水野、夏休みバイト漬けじゃん」
「楽しそうだからいいの」
「彼氏かわいそう」
葵が顔を上げる。
「何で?」
「夏休みなのに」
葵は不思議そうに藤井を見たあと、ごく自然に言った。
「蓮には蓮のやりたいことあるし」
そこには我慢している様子も、強がっている気配もなかった。
自分は自分。
蓮は蓮。
それでも二人は恋人。
葵にとっては、それだけのことだった。
その夜、二人は電話をしていた。
「私も夏休み、やることできた」
「何?」
葵が書店の合同企画について話すと、蓮は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「いいじゃん」
「うん」
声が嬉しそうだった。
「蓮が三週間いない間、結構忙しいかも」
「そっか」
少しだけ沈黙があった。
今度は葵から聞く。
「寂しい?」
蓮は笑った。
「結構」
電話の向こうで、葵も笑う。
「私も」
少し静かになった。
以前なら、その「寂しい」をなくす方法を探していたかもしれない。会う予定を増やす。どちらかが予定を変える。離れない選択をする。
けれど今は違う。
「でも、やろう」
蓮が言った。
「二人とも」
「うん」
「会えない時間も、それぞれちゃんと生きよう」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
やがて、葵の声が柔らかくなる。
「うん。そういうの、いいね」
通話を終えたあとも、蓮はすぐには眠らなかった。
机に座り、携帯電話の備忘録を開く。
水野葵。
今はチーズケーキが好き。
小さい雑貨が好き。
新しいバイトは楽しい。
今、葵は本に関わることを楽しんでいる。
未来は、もう俺の知ってる通りじゃない。
ずいぶん書いた。
葵が好きなもの。
変わったこと。
自分が知らなかったこと。
蓮はその画面をしばらく眺めたあと、突然、新しいメモを作った。
タイトルに入力する。
高橋蓮
その下は、空白だった。
蓮は画面を見る。
何を書けばいいのか、分からなかった。
自分は何が好きだった?
何をしたかった?
大学を卒業したら、どんな仕事をしたかった?
どんな人間になりたかった?
考えてみる。
けれど、思った以上に答えが出てこない。
いつからだろう。
自分の希望を考えるとき、必ずその前に「葵がいいなら」と思うようになったのは。
葵が幸せなら。
葵が困らないなら。
葵が喜ぶなら。
それでいい。
ずっと、そういうものを優しさだと思っていた。
けれど、その答えから葵を外したら、自分には何が残るのだろう。
蓮は長いあいだ、空白の画面を見つめた。
やがて一行だけ書く。
俺は、何がしたかった?
指が止まった。
その瞬間、何の前触れもなく、一つの記憶が入り込んできた。
暗い部屋。
大人になった自分。
玄関にはスーツケース。
葵の目は赤い。
自分が何かを必死に訴えている。
『俺はずっと、葵のために――』
葵が遮った。
『だから苦しいの。』
そこで途切れた。
蓮は、はっと目を開けた。
自分の部屋。
手には携帯電話。
画面には、
高橋蓮
そして、その下に、
俺は、何がしたかった?
蓮は長いこと、その一行を見ていた。
ここへ来てから、ずっと一つのことばかり考えている。
どうすれば、葵を失わないか。
どうすれば、同じ間違いをしないか。
どうすれば、あの最後の日を変えられるか。
けれど、一度も考えていなかった。
あの頃の自分は、いつから「葵のために」という言葉の中へ、自分の人生まで入れてしまったのだろう。
そして。
いつから、それを愛だと思うようになったのだろう。




