第7話 知らない未来
付き合い始めて三日目、蓮は大学構内の自動販売機の前に立っていた。手には自分用のブラックコーヒー。もう一本買おうとして、並んでいるミルクティーやレモンソーダ、炭酸水を前に指が止まる。
以前なら、ほとんど迷わなかっただろう。葵ならこれ、と決めて勝手に買っていたはずだ。
けれど今日は、ボタンを押さなかった。
少し離れたところから葵が歩いてくる。
「葵」
呼ぶと、彼女の足がほんの少し止まった。付き合う前まではずっと「水野」だったから、まだ名前で呼ばれることに慣れていないらしい。
「何?」
蓮は自動販売機を指した。
「何飲む?」
葵が目を細める。
「今日は聞くんだ」
「学習してるから」
「何の?」
「いろいろ」
葵は笑い、自動販売機の前に立った。少し迷って選んだのは、レモンソーダだった。
ミルクティーではない。
蓮は何も言わず、落ちてきた缶を拾って渡した。
「何?」
横目で見られ、蓮は少し笑う。
「いや。それ好きなんだなと思って」
「今日はね」
今日は。
数日前の蓮なら、その二文字だけで余計なことを考えていたかもしれない。今日だけなのか、普段は違うのか、本当に好きなものは何なのか。
けれど今は、
「うん。今日は」
とだけ答えた。
葵も笑った。
たったそれだけの会話が、思っていた以上に心地よかった。
昼休みには、久しぶりに蓮、葵、直人、美月の四人で同じテーブルを囲んだ。食事を始めて間もなく、直人が何の前触れもなく言う。
「で、付き合ったんだろ?」
飲み物を口にしていた葵がむせた。
「ちょっと。誰から聞いたの?」
直人は箸の先で蓮を指す。
「言ってない」
蓮がすぐ否定すると、葵が直人を見る。
「じゃあ何で分かるの?」
「顔」
美月も笑った。
「分かりやすすぎ」
葵が蓮を見る。
「蓮、そんな顔してる?」
その場が一瞬、妙に静かになった。
蓮の箸が止まり、直人が先に「うわ」と声を上げる。美月まで身を乗り出した。
「今の何?」
「……何が」
葵自身も気づいたらしい。そう言いながら、頬が少し赤くなっている。
「名前」
「普通に蓮って言った」
「付き合ったんだから別にいいでしょ」
少し強めに返したが、耳まで赤かった。
蓮は何も言わず食事を続けたものの、口元だけはどうしても戻らない。
「気持ち悪」
「うるさい」
「めちゃくちゃ嬉しそうじゃん」
「黙って食え」
美月と葵が笑い、最後には蓮も笑った。
その時間には、失う予感も、未来を変えなければという焦りもなかった。ただ恋人になったばかりの二人と、それを面白がる友人たちがいる。
蓮の記憶にはない昼休みだった。
けれど、もうそれを怖いとは思わなかった。
食事の途中、葵の携帯電話が震えた。画面を見た瞬間、表情が明るくなる。
「何?」
美月が聞くと、葵は画面を見せた。
「店長から」
書店カフェで、小さな企画を始めるらしい。アルバイトスタッフがそれぞれ一冊ずつ本を選び、短い推薦文を手書きして、その中からいくつかを店頭の特設コーナーに並べるという内容だった。
葵はもう一度メッセージを読み返した。
「こういうの、やってみたかった」
蓮が顔を上げる。
「そうなの?」
「うん。本屋で働いてみたかったのも、それが理由」
蓮は一瞬、答えを失った。
知らなかった。
自分が知っている大学時代の葵は書店では働いていなかったし、本に関わる仕事をしてみたいとも聞いたことがない。
「蓮?」
「ん?」
「どうしたの?」
いつもの癖で「何でもない」と言いかけ、蓮は止めた。
そして葵の顔を見る。
本当に楽しそうだった。
「楽しそうだなと思って」
葵の表情がさらに明るくなる。
「うん」
それでよかった。
少なくとも、そのときの蓮はそう思えた。
その日の夕方、書店カフェのスタッフスペースでは、葵が数冊の本を机に並べ、かなり真剣に推薦する一冊を選んでいた。隣では藤井がすでに推薦文を書き始めている。
「水野、真面目すぎ」
「だって店頭に出るんでしょ」
「誰もそんな読まないって」
葵が顔を上げる。
「私は読む」
「じゃあ水野向けに書けば?」
「意味ないじゃん」
藤井は笑った。
「じゃあ、好きなの選べばいいんじゃない?」
「それで迷ってるの」
「めんどくさ」
「うるさい」
そんなやり取りをしているところへ、店長の真紀が通りかかった。机に並ぶ本を見て聞く。
「水野さん、こういうの好き?」
「はい。本選んだり、人に紹介したりするの、好きです」
「文章書くのも?」
「好きです」
真紀は少し考えた。
「じゃあ今度、店のSNSも手伝ってみる? 若い人の感覚もほしいし、新刊とかイベントとか、短い文章で紹介してもらえたら助かる」
葵の目が明らかに変わった。
「私がですか?」
「うん」
「やってみたいです」
迷うよりずっと早く答えていた。
その夜、蓮の携帯電話に葵から『今日ちょっと遅くなる』と届いた。
『バイト?』
『うん』
少しして、もう一通。
『店のSNS手伝うことになった』
蓮は画面を見る。
また一つ、自分の知らないものが増えた。
書店。藤井。推薦カード。そして今度は、店のSNS。
自分が覚えている葵にはなかったはずの経験だった。
『すごいじゃん』
送ると、
『まだ何もしてないけど』
と返ってくる。
蓮は少し笑った。
『でもやりたいんだろ?』
返事まで少し間があり、
『うん。ちょっと楽しみ』
と届いた。
蓮はその言葉を見て笑った。
本当に嬉しかった。
葵が新しいことを楽しんでいる。それが嬉しいという気持ちに嘘はない。
けれど、携帯電話を机に置くと、笑みが少しだけ薄くなった。
初めて、一つの不安がはっきりと形を持った。
もし葵がこの仕事を続け、ここで新しい人に出会い、新しい本を読み、自分の言葉で何かを伝えることを覚え、それを仕事にしたいと思うようになったら。
その先の葵は、自分が知っている葵とはどんどん違う人になっていく。
そうなれば、自分が覚えている「失敗」も役に立たなくなる。
どこで傷ついたのか。何を選ばなかったのか。何を後悔したのか。どうして二人が離れていったのか。
それを知っているから、今度こそ間違えずに済むと思っていた。
けれど、前提そのものが変わったら?
同じ失敗を避けても、まったく別のところで終わるかもしれない。
蓮は、その不安をまだ誰にも言えなかった。
数日後、キャンパスの長椅子で、葵は推薦カードを書いていた。一度書いては消し、また書き直している。
後ろから近づいた蓮が覗こうとすると、葵は反射的に紙を隠した。
「何書いてる?」
「まだ見ないで」
「何で」
「完成してないから」
蓮は隣に座る。
「何の本?」
「秘密」
「俺、知ってるかも」
葵が顔を上げた。
「何を?」
その瞬間、蓮の頭に一冊の小説が浮かんだ。ずっと先の時間で、葵が何度も読み返し、本棚にも置いていた本。ページの角が少し傷むほど読んでいた。
題名を言いかけて、止める。
「……葵の好み」
葵が笑った。
「じゃあ当ててみる?」
「いいの?」
「いいよ」
蓮は一冊目の題名を挙げた。
「違う」
二冊目も違った。
三冊目は、言い終える前から葵が笑い始める。
「全然分かってないじゃん」
蓮も笑った。
「悔しい」
「じゃあ答え」
葵は鞄から一冊の随筆集を取り出した。
蓮は表紙を見る。
知らない。
読んだことがない。
それどころか、葵が持っていた記憶さえなかった。
「これ?」
「うん」
「いつから好き?」
「最近。藤井くんが貸してくれた」
蓮の表情が、ほんの一瞬止まった。
すぐ戻したつもりだった。
けれど、葵は見ていた。
「気になる?」
「何が」
「藤井くん」
「別に」
葵は何も言わず蓮を見る。
数秒。
「今、ちょっと嫌な顔した」
蓮は苦笑した。
「した?」
「した」
誤魔化せそうにない。
少し黙ってから、認めた。
「……少し」
「嫉妬?」
「たぶん」
葵が少し意外そうに笑う。
「正直」
「隠すと後で面倒だから」
口にしてから、蓮自身が少し驚いた。
以前の自分なら、こういうときほど言わなかった。
大丈夫。
何でもない。
気にしていない。
そう言いながら、本当に気になっていることだけを自分の中へ少しずつ積み上げていた。
葵は膝の上の本を閉じた。
「じゃあ言っとくけど、藤井くんは友達。それ以上じゃない」
「分かってる」
葵は少し間を置いて続けた。
「でも、友達でいるのはやめないよ」
言い方は穏やかだった。
けれど、曖昧ではない。
蓮は一瞬黙った。
嫉妬しないわけではない。自分の知らない人から、自分の知らない本を教えてもらった。それを少し嫌だと思う自分もいる。
それでも、
「分かってる。そこまで決める権利、俺にはないし」
と頷いた。
葵の表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「……うん」
それ以上、二人とも言わなかった。
けれど、その「うん」には、何かを一つ確かめられたような響きがあった。
週末、書店カフェの入口には新しい特設コーナーができていた。スタッフが選んだ本と、それぞれの手書き推薦カードが並んでいる。
店へ入る前に足を止めた蓮は、葵の字を見つけた。
何度も書き直したのだろう。丁寧な文字で、
『今まで好きじゃなかったものを、好きになる瞬間がある。人も、本も、たぶん同じ。』
と書かれている。
蓮はしばらく、その文章を読んでいた。
短い文章だった。
けれど、葵らしいと思った。
以前の葵らしい、ではない。
今、ここにいる葵らしい。
店内から蓮を見つけた葵が外へ出てきた。
「来てたの?」
「うん」
葵も自分のカードを見る。
少し恥ずかしそうだった。
「どう?」
「いいと思う」
「ほんと?」
「うん。葵っぽい」
葵が一瞬、意外そうな顔をした。
以前の蓮なら、「やっぱり葵ならこういうこと書くと思った」「分かってた」「そういうの好きだよね」と言っていたかもしれない。
けれど今日は違う。
ただ今目の前にある文章を読んで、今の葵に似合っていると思った。
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいい」
仕事が終わったあと、二人は駅へ向かった。葵は明らかに機嫌がよかった。
「店長がさ、ちゃんと続けたら、もっといろいろ任せてくれるかもって」
「いいじゃん」
「うん。楽しい、こういうの」
「本とか?」
「それも」
葵は考えながら言葉を探す。
「自分で何か選んで、それが誰かに届くの」
蓮はその横顔を見る。
本当に楽しそうだった。
その表情を、自分は知らない。
そしてまた一つ、知らない未来が少しずつ形を持ち始めている。
「葵」
「ん?」
「このまま、こういう仕事したい?」
葵が少し驚いた。
「将来?」
「うん」
すぐには答えず、しばらく歩いてから正直に言った。
「分かんない。でも、今はちょっとやってみたい」
蓮はそれ以上、将来について聞かなかった。
向いていると思う。きっとこうなる。
そういうことも言わない。
ただ、
「じゃあ、やってみればいいじゃん」
と言った。
葵が横を向く。
「いいの?」
蓮は思わず笑った。
「何で俺に許可取るの」
葵も一瞬きょとんとしてから笑った。
「確かに」
蓮も笑った。
けれど胸の奥では、自分が今、知っていたはずの未来を一つ手放したような気がしていた。
その夜、蓮は久しぶりに備忘録を開いた。以前ほど頻繁には見なくなっている。
水野葵。
今はチーズケーキが好き。
小さい雑貨が好き。
新しいバイトは楽しい。
昔書いた言葉が並んでいる。
新しい一行を入力した。
葵は、本に関わることが好きかもしれない。
そこで指が止まる。
好きかもしれない。
その言葉を見つめ、やがて後半を消した。
今、葵は本に関わることを楽しんでいる。
今。
その一文字を、蓮はしばらく見ていた。
今は楽しい。この先もそうかもしれないし、違うかもしれない。
それでいい。
さらに一行を書く。
これから先は、もう俺の知ってる通りじゃない。
書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
傘を一本渡して葵が転ばなかったときとは違う。あれは一つの出来事が変わっただけだった。
けれど今は、葵自身が自分の知らない方向へ歩き始めている。
蓮は長いあいだ画面を見つめ、最後に、
それでいい。
と書いた。
消さなかった。
同じ夜、葵は自分の部屋で、店のSNSに載せる文章を書いていた。何度か書き直していると、携帯電話が震える。
蓮からだった。
『今日楽しかった?』
葵はすぐに、
『うん』
と返し、少し考えてもう一通送った。
『すごく』
『ならよかった』
と届く。
葵はその文章を見て、少し笑った。
何があった? 誰といた? 何をした?
そんなふうには聞かない。
けれど、関心がないわけでもない。
その距離が心地よかった。
少し迷ってから、
『蓮』
と送る。
『ん?』
すぐに返ってきた。
葵は指を止め、それからゆっくり入力した。
『私が蓮の知らないこと始めても、嫌じゃない?』
送信。
返事までは、少し時間がかかった。
やがて、
『知らないなら、その時に聞く』
と届く。
葵はその文章をしばらく見つめ、
『うん』
と返した。
表情が少し柔らかくなる。
それからまた、店の文章へ戻った。
一方、蓮は携帯電話を机に置いたあとも、画面に残った葵の『うん』を見ていた。
知らないなら、そのとき聞けばいい。
自分でそう言った。
間違っていないと思う。
きっと、それでいい。
けれど、蓮の表情は葵が想像しているほど穏やかではなかった。
机に肘をつき、少しだけ目を閉じる。
変わってほしいと願ったのは、自分だった。
あの別れを避けたい。同じ失敗をしたくない。だから、違う未来になることを望んだ。
なのに、違うものが増えるほど、自分が知っているものは減っていく。
もし葵が違う仕事を選び、知らない人たちと出会い、知らなかった価値観を持ち、自分が覚えているのとは別の人生を歩き始めたら。
あの日の別れすら、自分が覚えている理由では起きなくなるかもしれない。
そうなったとき、自分はいったい何を防げばいいのだろう。
蓮は目を開けた。
机の上には、水族館で撮った写真がある。
二人ともカメラを見ていない、失敗した写真。
それなのに、あの日は幸せだった。
何一つ先を知らなかったからこそ、楽しかった。
蓮は写真に触れる。
今は、それでいい。
そう思いたかった。
けれど、もう気づき始めてもいた。
葵ともう一度恋人になれた瞬間、確かに安心した。
けれど同時に――
そこから先は、もう二度目ではない。
自分が知っていた未来は、少しずつ終わり始めていた。




