第6話 知らない一日
神社へ行った日から、数日が過ぎた。
蓮と葵は喧嘩をしたわけではない。大学で会えば挨拶をするし、連絡も途切れていない。ただ、葵は以前より少し静かになっていた。
その理由を、蓮は分かっていた。
神社の軒下で、自分はまた待ってしまった。目の前の葵が何を言うのかではなく、記憶の中の葵が言った言葉を。そして彼女がその通りに答えなかったとき、きっと顔に出ていた。隠したつもりでも、葵には分かったのだろう。
午後最後の講義が終わったあと、蓮は校舎前の自動販売機で缶コーヒーを買った。携帯電話を見ると、葵との会話は昨夜で止まったままで、新しい通知はない。
缶を取り出して振り返ったところで、ちょうど葵が一人で校舎から出てきた。目が合う。
「お疲れ」
「うん。高橋も」
葵は少しだけ笑い、そのまま通り過ぎようとした。
「水野」
呼び止めると、葵が足を止める。
「何?」
蓮は少し考えた。この数日、何を言えばいいのか考えていた。謝るべきなのか、説明するべきなのか、それとも少し距離を置いたほうがいいのか。
どれも違う気がした。
「今日、何したい?」
葵が目を瞬く。
「……え?」
「時間あったら。俺、何も決めないから」
葵はしばらく蓮を見た。
「何それ」
「たまには」
「私が決めていいの?」
「うん」
「高橋、文句言わない?」
「言わない」
「絶対?」
蓮は少し考えた。
「……たぶん」
葵の口元がようやく緩んだ。
「そこは絶対って言うところじゃない?」
「後で嘘つきになるよりいいだろ」
「変なところ正直」
それでも、葵は笑っていた。少し考えてから、「じゃあ、行きたいところある」と言った。
二十分後、蓮は葵と電車に揺られていた。
どこへ向かっているのか、まだ知らない。
「どこ行くの?」
向かいに立つ葵に聞くと、「着いてから」と返された。
「教えてよ」
「高橋、何も決めないんでしょ?」
「決めないけど、知るくらい――」
葵がじっと見る。
蓮は口を閉じた。
「……分かった」
葵が笑った。
窓の外には、あまり乗った記憶のない路線の景色が流れている。見慣れた駅もなければ、葵との思い出がある場所も通らない。
次に何が起きるのか、まったく分からない。
以前の自分なら、それを不安に思ったかもしれない。けれど今日は、不思議なくらい肩の力が抜けていった。
知らない。
それだけで、何も待たなくていい。
葵が記憶通りの言葉を言うかどうかも、昔と同じ場所へ行くかどうかも確かめなくていい。ただ、今の彼女についていけばいい。
電車を降り、さらに十分ほど歩いたところで葵が足を止めた。
目の前に、それほど大きくはない水族館があった。
「……ここ?」
「うん」
「来たことある?」
葵は首を振る。
「ない」
「じゃあ何で?」
「ずっと来てみたかった。でも、一人で来るのもなって」
葵が蓮を見る。
「嫌?」
「いや」
蓮は水族館を見上げ、少し笑った。
「俺も初めて」
葵が一瞬、驚いたような顔をする。
「本当に?」
「うん」
場所も知らない。今日の葵が何を見るのかも、どの魚を気に入るのかも分からない。
全部、初めてだった。
それを聞いた葵の表情が、なぜか少し柔らかくなった。
「そっか」
館内は薄暗く、水槽からこぼれる青い光が壁や床をゆっくり揺らしていた。
葵は、蓮が想像していた以上に水族館が好きらしい。一つの水槽を見る時間が長く、説明板もきちんと読む。小さな魚の群れにも足を止める。
蓮は最初、魚より葵ばかり見ていた。
けれど途中から、本当に一緒に展示を見るようになった。
海中を模した水槽の前で、葵が突然言う。
「かわいい」
蓮も水槽を見る。
岩の隙間から、ウツボが顔を出していた。
「……これが?」
「かわいいじゃん」
「どこが?」
「顔」
蓮はしばらく本気で観察した。
「怖いけど」
葵が呆れた顔をする。
「高橋、見る目ない」
「初めて言われた」
言ってから、蓮は少し止まった。
葵も気づいたらしい。
「本当に?」
「何が?」
「初めて?」
答えに詰まる。
ずっと先の時間で、葵は似たようなことを何度も言ったはずだ。センスがない、見る目がない。そんな軽口を、笑いながら。
けれど今、それを説明する必要はない。
「……今日は」
葵は数秒だけ蓮を見たが、それ以上は追及しなかった。
「変なの」
「知ってる」
二人は次の展示へ向かった。
ペンギンのエリアでは、何羽かがまとまって歩いていく中、一羽だけがその場に残っていた。葵は長いあいだ、その一羽を見ている。
「そんな好き?」
「うん」
「何がいいの?」
葵は少し考えた。
「何か、みんな行ったのに、一人だけ残ってる」
「寂しそう」
そう言うと、葵は首を振った。
「そうかな」
「違う?」
「一人でいたいだけかもしれないよ。一人でいると、すぐ寂しいって思われるの変じゃない?」
誰かに向けて言っているわけではなかった。ただ、ペンギンを見ながら思ったことを口にしているだけだ。
「水野は一人好き?」
「好き」
答えは早かった。
少し意外そうな蓮を見て、葵が笑う。
「ずっとは嫌だけど。でも、一人の時間ないと疲れる」
「……そうなんだ」
「知らなかった?」
数日前なら、その問いに少し傷ついていたかもしれない。
そんなことも知らなかった。
そう思って。
けれど今日は、素直に頷いた。
「うん。知らなかった」
葵がこちらを見る。
蓮は少し笑った。
「覚えた」
「何それ」
葵も笑った。
その笑顔は、少し嬉しそうだった。
館内の小さなカフェスペースで休むことにした。葵は炭酸飲料、蓮はブラックコーヒーを選んだ。
席につくと、葵が何気なく言う。
「やっぱりブラックなんだ」
蓮は顔を上げた。
「覚えてた?」
「この前飲んでたから」
本当に、それだけのことだった。
一度見たから覚えていた。
蓮は笑った。
「何?」
「嬉しい」
「何が?」
「覚えててくれたの」
葵は少し照れたようにストローへ視線を落とす。
「それくらい覚えるでしょ」
蓮は何も言わなかった。
ずっと先の葵は、自分がブラックコーヒーを飲むことなど当たり前に知っていた。店でいちいち注文を聞かなくなり、買い物でも自然に同じものを選んだ。蓮自身、その「知っていること」をいつの間にか当たり前だと思っていた。
けれど、最初から知っていたわけではない。
一度見たから覚えた。一度聞いたから知った。そういう小さなものが重なって、いつか「よく知っている人」になっていく。
蓮はブラックコーヒーを一口飲んだ。
大切だったのは、知っていることそのものではないのかもしれない。
こうして知っていく時間だった。
カフェスペースを出ると、記念写真を撮る小さな機械があった。葵が足を止める。
「撮る?」
蓮が聞くと、葵は料金表示を見た。
「高い」
「俺出す」
葵がすぐ振り向く。
蓮は一瞬で言い直した。
「……半分」
「学習したね」
「誰かさんのおかげで」
二人で機械の中へ入ると、思っていたより狭かった。
画面に数字が出る。
三。
葵はまだ髪を直している。
二。
「間に合わないよ」
「待って」
一。
葵が急に顔を上げる。
「高橋、近い」
蓮が反射的に横へ逃げた瞬間、シャッターが切れた。
出来上がった写真を見て、二人とも黙った。
葵の髪は少し乱れ、蓮は身体を横へ逃がしている途中。二人ともまともにカメラを見ていない。
先に笑ったのは葵だった。
「最悪」
「水野のせいだろ」
「高橋が近いから」
「狭いんだからしょうがないだろ」
「もっと普通に撮れたでしょ」
「水野がギリギリまで髪直してたからだろ」
言い合っているうちに、また二人とも笑った。
蓮は写真を見る。
知らない写真だった。
自分の記憶にはない。どこを探しても存在しない。きれいに撮れているわけでも、特別でもない。
それなのに、不思議なくらい気に入った。
館内の最後には、大きな水槽があった。いくつもの魚が頭上をゆっくり通り過ぎていく中、二人は長椅子に並んで座った。
しばらく何も話さなかった。
青い光が葵の頬を流れては消える。
やがて、葵が口を開いた。
「高橋」
「ん?」
「この前のこと」
蓮には分かった。
神社のことだ。
「うん」
葵は水槽を見たまま、少し考えていた。
「私、ちょっと怖かった」
蓮は何も言わなかった。言い訳もしない。
ただ、続きを待った。
「高橋って、時々……私が何言うか分かってるみたいな顔するから」
蓮は視線を落とした。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
すぐに葵が言った。
蓮が顔を上げると、葵はまだ水槽を見ていた。
「今日みたいなのがいい」
「今日?」
「うん」
葵は少し笑う。
「高橋が何も知らない日」
蓮は返事ができなかった。
今日の自分は、何も知らなかった。
行き先も、水族館のことも、葵がウツボをかわいいと言うことも、一人の時間が好きなことも、自分のコーヒーを覚えていたことも、写真が失敗することも。
何一つ知らなかった。
それでも。
いや、だからこそ。
「……俺も」
葵がこちらを見る。
「何?」
「今日、楽しい」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
昔と同じだからではない。懐かしいからでも、戻ってこられたからでもない。
ただ、今日が楽しい。
それだけだった。
葵は蓮を見たあと、少しだけ笑った。
水族館を出ると、外はもう暗くなっていた。葵がさっきの写真を取り出す。
「これどうする?」
「俺がもらう」
「何で?」
「欲しいから」
葵は写真を見る。
「こんなの?」
蓮は頷いた。
「こんなのがいい」
「変なの」
「知ってる」
写真は二枚つながっていた。葵は切り離して一枚を蓮に渡し、もう一枚を自分の手元に残した。
「水野もいるの?」
「悪い?」
「いや」
葵はごく自然に写真を財布へ入れた。
それだけで、蓮の胸の奥が少し温かくなった。
帰りの電車は空いていた。二人で並んで座っていると、思った以上に歩いたせいか、葵の瞬きが少しずつゆっくりになった。
やがて頭が傾き、蓮の肩に軽く触れる。
蓮の身体が固まった。
葵は眠っていた。そのまま少しずつ、体重が肩へ預けられる。
蓮は動かなかった。呼吸まで少し小さくした。
こんなことは、何度もあった。
長く一緒にいた頃、葵は電車でよく眠った。肩にもたれてきても、蓮はそのまま携帯電話を見ていた。たまには重いなと思ったことさえある。
当たり前だったから。
けれど今は、携帯電話を出そうとも思わない。
眠っている葵を少しだけ見下ろす。
列車は一駅、また一駅と進んでいく。
蓮は初めて、電車がもう少し遅ければいいと思った。
あと少しだけ。
やがて葵が目を覚ました。自分が蓮の肩にもたれていたことに気づき、慌てて身体を起こす。
「ごめん」
「大丈夫」
葵は髪を整えながら、明らかに気まずそうにしている。少しして、小さな声で聞いた。
「……重かった?」
その言葉で、別の記憶が浮かんだ。
いつだったか、同じように肩にもたれていた葵が『重い?』と聞いた。当時の蓮は携帯電話を見ながら、何気なく『ちょっと』と答えた。
葵はすぐ身体を離し、しばらく機嫌が悪かった。
今なら、正しい答えを知っている。
重くない。
そう言えばいい。
けれど蓮は、少し考えてから笑った。
「ちょっと」
葵がすぐ睨む。
「最悪」
蓮も笑った。
「でも」
「何」
「もう少し寝ててもよかった」
葵が黙り、それから窓のほうへ顔を向けた。
耳が、少しずつ赤くなった。
蓮はそれ以上、何も言わなかった。
駅に着き、いつもの分かれ道まで来ても、今日は葵がすぐに歩き出さなかった。鞄の紐を握り、何かを言おうとしている。
「高橋」
「ん?」
「返事」
蓮の表情が変わった。
けれど、急かさなかった。
葵が自分で続きを言うのを待つ。
「まだ高橋のこと、分かんないこと多いし」
「うん」
「変だし」
「そこ必要?」
葵が笑う。
「必要」
それから、少し真面目な顔になった。
「でも、もっと知りたい」
蓮は動かなかった。
葵は一度息を吸う。
「だから……私も、高橋のこと好き」
駅のアナウンスはいつも通り流れ、人も二人の横を通り過ぎていく。誰もこちらを見ていない。
特別な音も、何もなかった。
それなのに、蓮には周囲の音が少し遠くなった。
ただ、葵だけを見ていた。
目の奥が熱くなる。
葵がすぐに気づく。
「え、何で泣くの?」
蓮は顔を伏せ、笑いながら目元を拭った。
「ごめん」
「だから何で謝るの」
「嬉しくて」
葵が困ったように笑う。
「そんな?」
蓮は頷いた。
「……そんな」
一度目に葵が自分を好きだと言ったとき、自分がどんな顔をしていたのかは、もう覚えていない。
けれど今度は。
たぶん、忘れない。
少しして、葵が言った。
「じゃあ」
「うん」
「これから、よろしく」
恋人になった二人が交わすには、少し堅い言葉だった。
だからこそ、葵らしかった。
蓮の記憶とは何もかも違う。場所も、日も、きっかけも、告白した順番も。
それでも、少しも失望しなかった。
蓮は笑った。
「こちらこそ」
葵が歩き出す。
数歩進んだところで、突然振り返った。
「蓮」
その場で、蓮は完全に止まった。
葵が初めて、そう呼んだ。
ここへ来てから、一度も聞いていなかった呼び方だった。
葵自身も、言ってから恥ずかしくなったらしい。目を逸らす。
「……また明日」
蓮はしばらく彼女を見て、それから笑った。
「うん。また明日、葵」
葵の顔が一気に赤くなる。
「急に呼ばないで」
「葵が先だろ」
「私はいいの」
「何それ」
葵は笑って、今度こそ歩き出した。
蓮は追わず、その背中を見送った。
「また明日」が、もう一度、二人のあいだにある。
その夜、蓮は水族館で撮った写真を机に置き、携帯電話の備忘録を開いた。
水野葵。
今はチーズケーキが好き。
小さい雑貨が好き。
新しいバイトは楽しい。
俺が知ってることは、本当に葵のことなのか。
今日は、書けることがたくさんあった。
水族館。ウツボ。ペンギン。一人でいる時間が好きなこと。ブラックコーヒーを覚えてくれていたこと。
それから――付き合い始めたこと。
以前なら、きっと全部書いただろう。
けれど蓮は、何も追加しなかった。
備忘録を閉じ、代わりに机の上の写真を手に取った。裏返して、日付だけを書く。
4月23日。
少し考えて、その下に続けた。
知らなかった日。
でも、好きになった日。
蓮はペンを置いた。
正しい答えを保存するためではない。
今日という一日を、今日のまま残しておきたかった。
同じ夜、葵もベッドの上で、財布からもう一枚の写真を取り出していた。
髪は乱れ、高橋はカメラから逃げている途中。二人とも全然うまく写っていない。
それなのに、見るたび少し笑ってしまう。
携帯電話が震えた。
美月から、
『返事した?』
と届いている。
葵は『した』と送った。
ほとんど一瞬で、
『!!!!』
『付き合った???』
と返ってくる。
葵は笑った。
『うん』
送信すると、今度は『おめでとう!!!!』が届いた。
画面を見ながら、少しだけ顔を伏せる。
嬉しかった。
それから、また写真を見る。
今日の高橋は、少し格好悪かった。ウツボの良さも分からなかったし、写真では逃げている途中だった。電車では「重かった」と正直に言った。
何もかも知っているような顔を、ほとんどしなかった。
だから今日、葵は一度も、自分が「正しい答え」を探さなければいけないような気持ちにならなかった。
写真の中の蓮に、指先でそっと触れる。
「今日の高橋は、ちゃんと私を見てた」
誰にも聞こえない声でそう呟き、葵はもう一度だけ写真を見て笑った。




