↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/14

第5話 最初の約束

数日後の午後、大学図書館の窓際で、蓮は本を開いていた。


読んでいるつもりなのに、同じ段落を三度読んでも内容がほとんど頭に入ってこない。


葵との関係が悪くなったわけではなかった。会えば話すし、連絡も来る。告白の返事を急かしてもいない。


ただ、「まだ付き合っていない」という事実を意識するようになってから、妙に落ち着かなかった。


机の上の携帯電話が震える。


水野葵。


蓮はすぐに手を伸ばした。


『今日バイト休み。この前の傘のお礼したい。時間ある?』


それだけで口元が緩んだ。


ほとんど反射的に『ある。』と打ち、送信する直前で指を止める。


早すぎる。


これでは、連絡を待っていたみたいだ。


実際、少し待っていたのだけれど。


一度消し、『授業終わったらなら。』と打ち直す。書き終えてから、日本語までおかしくなっていることに気づいて、それも消した。


結局、


『あるよ。』


それだけ送った。


すぐに返事が来る。


『じゃあ四時。』


待ち合わせ場所も続けて届いた。


蓮は画面を見つめる。気づけば、また笑っていた。


向かいに座っていた直人が本から顔を上げる。


「気持ち悪」


蓮はすぐに表情を戻した。


「何が」


「さっきから一人で笑ってる」


「笑ってない」


「笑ってた」


蓮は携帯電話を伏せた。


直人も本へ戻る。


数秒後、蓮はこっそり携帯電話を裏返した。


四時。


もう一度だけ確認した。


午後四時、大学の正門近くへ行くと、葵はすでに待っていた。


「待った?」


葵は首を振る。


「今来た」


その一言で、蓮の足がほんの少し止まった。


今来た。


何度も聞いたことのある言葉だった。


付き合ってからも、どちらかが先に着いていれば決まってそう言った。十分待っていても、二十分待っていても。たぶん、相手に気を遣わせたくなかっただけなのだろう。


それがいつから二人の習慣になったのかは、もう覚えていない。


「何?」


葵が首を傾げる。


「いや。行こう」


二人で歩き始めた。


「何食べたい?」


「水野が決めて」


「お礼するの私なんだけど」


「だから」


「何それ」


葵は少し考えたあと、突然言った。


「じゃあ、たこ焼き」


蓮は思わず聞き返す。


「……たこ焼き?」


「嫌?」


「いや」


嫌ではない。ただ、意外だった。


蓮の記憶では、葵が初めて自分を誘ってくれた日は小さな洋食店へ行った。長い時間話して、帰り道に神社へ寄った。


そして、その日。


二人は最初の約束をした。


少なくとも、蓮はずっとそう覚えていた。


けれど今日の葵は、迷うことなくたこ焼きを選んだ。


商店街で一箱買い、二人で川沿いの長椅子に座る。葵が箱を差し出した。


「熱いよ」


「分かってる」


そう言いながら一つ口に入れた瞬間、


「熱っ」


思わず声が出た。


葵が吹き出す。


「言ったじゃん」


蓮は口を開けて息を吸った。


「思ったより熱い」


葵はさらに笑った。肩まで揺らして、本当におかしそうに笑っている。


その顔を見ているうちに、蓮は少しだけ静かになった。


知らない笑い方だった。


いや。


葵がこんなふうに笑う人だったことは知っている。


ただ、後になって一緒に暮らした葵とは少し違う。もっと幼く、もっと無防備で、まだ笑うことを我慢する理由なんて何も知らないような顔だった。


「そんな笑う?」


葵は笑いをこらえながら蓮の顔を見ると、また吹き出した。


「ついてる」


「何が?」


自分の口元を指さす。


「ここ」


蓮が拭くと、葵は首を振った。


「反対」


反対側も拭く。


それでも違ったらしい。


「もう」


葵は紙ナプキンを取り、身を乗り出した。


手が蓮の顔へ近づく。


あと少しというところで、二人とも動きを止めた。


思っていたより近い。


葵の目がすぐそこにある。さっきまで笑っていた表情から、少しずつ笑みが消えていく。


蓮も動かなかった。


数秒後、葵が先に手を引き、紙ナプキンだけを差し出した。


「……自分で」


「うん」


蓮は受け取った。


二人とも川のほうを向く。


急に、水の音だけがよく聞こえた。


しばらくして、葵が口を開いた。


「高橋」


「ん?」


「何で私なの?」


蓮が横を見る。


「何が?」


「好きって言ったでしょ」


葵は手元の竹串を弄びながら続けた。


「だから、何で私を好きになったのかなって」


蓮は黙った。


答えなら、いくらでもあった。


仕事で遅くなった夜、何も言わず部屋の明かりを残してくれていたこと。夕飯はいらないと連絡すると文句を言いながら、それでも冷蔵庫に一人分取っておいてくれたこと。


冬になると足が冷たくて、寝るときはいつもこちらへ押しつけてきたこと。映画ではすぐ泣くくせに、見られると恥ずかしがったこと。


怒ると黙ること。


本当に悲しいときほど、笑おうとすること。


雷が苦手なのに、一度も素直に認めなかったこと。


そして最後の日、自分だって泣いていたのに、


『今までありがとう』


と言ったこと。


好きになった理由を挙げようと思えば、何時間でも話せる。


けれど、そのほとんどは今の葵にはまだ存在しない。


目の前の彼女は、夜中まで自分の帰りを待ったこともない。同じベッドで冬を越したことも、隣で映画を見て泣いたこともない。


蓮は答えられなかった。


「そんな難しい?」


葵が笑う。


蓮も苦笑した。


「難しい」


「ひどい」


「ごめん」


「好きって言った本人が分かんないの?」


「分かんないわけじゃない」


「じゃあ何?」


蓮は考えた。


そして、今ここにいる葵に言える言葉だけを探した。


「水野といると」


葵を見る。


「失いたくないって思うから」


葵の表情が変わった。


蓮が想像していた反応とは違う。


嬉しそうでも、感動したようでもない。


むしろ少し困っていた。


「……まだ何も始まってないのに?」


蓮は言葉を失った。


葵は小さく笑う。


「変なの」


蓮も笑った。


けれど今回は、彼女のほうが正しいと思った。


まだ何も始まっていない。


それなのに、自分だけがもう失うことを恐れている。


帰り道、二人は小さな神社の前を通った。


蓮の足が止まる。


「どうしたの?」


振り返った葵には答えず、蓮は鳥居を見つめた。


胸の奥で、記憶が一気に蘇る。


ここだ。


確かに、この神社だった。


大学時代、付き合い始めて間もない頃。小雨の降る日に二人でここへ来た。参拝を終えて帰ろうとしたところで雨が強くなり、二人で軒下へ逃げ込んだ。


そのとき葵が言った。


『来年も一緒に来よう。』


蓮は笑って返した。


『来年だけ?』


葵も笑った。


そして、


『じゃあ、ずっと。』


それが二人にとって、最初の約束になった。


付き合いが長くなってからも、ときどき話した。


あのとき、ずっと一緒にいようって言ったよね。


蓮にとって、何年経っても大切な記憶だった。


だから別れる日でさえ、口にしてしまった。


『ずっとって言ったじゃん。』


そのとき葵は、何も答えなかった。


「寄っていかない?」


葵も鳥居を見る。


「神社?」


「うん」


時間を確認し、「いいよ」と頷いた。


二人で境内へ入る。


観光客が来るような場所ではない。木々のあいだを風が抜ける音だけがしていた。


参拝を終えると、葵は絵馬の前で少しだけ足を止めた。


蓮はその横顔を見る。


心のどこかで、この先を知っていると思っていた。


少なくとも、そう信じていた。


神社を出ようとしたとき、細い雨が落ちてきた。


葵が顔を上げる。


「雨」


蓮の鼓動が少し速くなった。


同じだ。


あの日と。


二人は軒下へ入った。


葵は片手を差し出し、落ちてきた雨粒を受ける。


蓮は彼女を見た。


待った。


あの言葉を。


――来年も一緒に来よう。


けれど、葵は何も言わない。


ただ雨を眺めている。


少し待っても、やはり言わなかった。


耐えきれず、蓮は自分から口を開く。


「水野」


「ん?」


「また来たい?」


葵は神社を振り返った。


「うん」


蓮の表情が少し緩む。


「来年も?」


葵がこちらを見る。


「来年?」


「うん」


少し考えてから、何でもないことのように言った。


「来年ここにいるか分かんないし」


蓮の笑顔が止まった。


「……え?」


「就活とかあるし。どこにいるか分かんないじゃん」


返事ができなかった。


違う。


こんな答えではなかった。


葵は「来年も一緒に来よう」と言った。


自分が「来年だけ?」と聞けば、「じゃあ、ずっと」と笑った。


確かに覚えている。


何度も思い出してきた。


雨は静かに降り続いている。


「じゃあ……」


蓮は口を開いた。


「ずっと、って言わない?」


葵が振り向く。


「何が?」


言ってから、しまったと思った。


「いや」


けれど葵は、蓮を見たままだった。


「高橋ってさ」


「ん?」


「“ずっと”って言葉、好きなの?」


蓮は答えなかった。


葵は柱に軽く背を預け、雨を見る。


「私はちょっと苦手」


「……何で?」


「だって分かんないじゃん」


声は軽かった。


「来年どうなってるかも分からないのに」


少し笑う。


「ずっとなんて、もっと分かんない」


蓮は何も言えなかった。


頭の中では、別の葵が笑っている。


『じゃあ、ずっと。』


確かに言った。


間違いなく。


なのに目の前の葵は、「ずっと」という言葉が苦手だと言っている。


雨が止んでから、二人は神社を出た。


さっきより口数の少なくなった蓮に、葵はすぐ気づいた。


「どうしたの?」


「何でもない」


「またそれ」


「何が?」


「高橋、都合悪くなるとすぐ何でもないって言う」


蓮の足が止まりかけた。


その言葉も、聞いたことがある。


もっとずっと先。二人の関係が少しずつうまくいかなくなっていた頃、葵に「何考えてるの?」と聞かれた。


蓮は答えた。


『何でもない。』


すると葵は、しばらくこちらを見たあと言った。


『そうやって、いつも一人で決めるよね。』


「高橋?」


今の葵の声に引き戻される。


蓮は彼女を見た。


そして、突然聞いた。


「水野」


「ん?」


「嫌なこと、嫌って言える?」


葵が怪訝そうな顔をする。


「言うけど」


「相手が喜んでても?」


「……人による」


「好きな人だったら?」


今度は葵が黙った。


すぐには答えない。


二人はそのまま駅へ向かって歩き、分かれ道が近づいた頃、葵がようやく口を開いた。


「好きな人なら……昔は、合わせちゃうかも」


蓮が横を見る。


「昔?」


「高校の時とか」


葵は少し恥ずかしそうに笑った。


「嫌われたくなくて。別に好きじゃないものも、好きって言ったり」


蓮は黙って聞く。


「でも、疲れるから」


葵の表情が少し変わった。


「今はなるべく言うようにしてる」


嫌なら嫌。


分からないなら分からない。


好きなら好き。


今は、できるだけそう言いたい。


葵にとっては、それだけの話だった。


けれど蓮の中で、一つの記憶が揺れていた。


神社。


雨。


笑っていた葵。


そして、


『じゃあ、ずっと。』


もし、あの言葉が自分の思っていたものではなかったとしたら。


その夜、蓮は部屋の明かりを落としたまま、窓の外を見ていた。


今日はすぐに備忘録を開かなかった。


頭の中で、何度も同じ場面を辿っていた。


神社。雨。若い葵。


『来年も来よう』


そう言ったのは――本当に葵だっただろうか。


記憶を辿る。


ぼんやりしていた輪郭が、少しずつ戻ってくる。


軒下で、先に言ったのは自分だった。


『来年も来よう』


葵が、


『うん』


と答えた。


嬉しくなった蓮は、笑いながら聞いた。


『来年だけ?』


そこで、ほんの短い間があった。


当時の蓮は気づかなかった。


いや。


気にもしなかった。


葵は、そのあと笑った。


『じゃあ、ずっと。』


蓮はすぐに言った。


『約束な』


葵は少しだけ間を置いて、


『……うん』


と答えた。


記憶はそこで終わった。


蓮は動けなかった。


昔なら、この場面を思い出すだけで幸せだった。


二人が初めて「ずっと一緒にいる」と約束した日。


そう信じていた。


けれど今は、あの短い沈黙だけが気になった。


『来年だけ?』


そう聞いたあと、葵はすぐには答えていなかった。


自分が聞きたい答えを待っていたのは――


誰だったのだろう。


蓮は携帯電話を取り、備忘録を開いた。


水野葵。

今はチーズケーキが好き。

小さい雑貨が好き。

新しいバイトは楽しい。


その下には、


俺の知らない時間が増えている。

それでもいい。


と残っている。


蓮は長く見つめたあと、新しい一行を入力した。


俺が知ってることは、本当に葵のことなのか。


指を離す。


記憶そのものを疑ったわけではない。


きっと、出来事は起きた。


葵は確かに「ずっと」と言った。


ただ、その言葉を自分と同じ気持ちで言ったのだと、勝手に決めていただけなのかもしれない。


同じ夜、葵はベッドに寝転がり、美月と電話をしていた。


「で、今日は?」


「たこ焼き食べた」


「それだけ?」


「神社も行った」


美月はすぐに言う。


「デートじゃん」


「だからまだ付き合ってないって」


「返事しないの?」


葵は少し黙った。


「したいんだけど」


「けど?」


窓の外へ目を向ける。


高橋と一緒にいるのは楽しい。


会えば嬉しい。


告白されたことを思い出すと、今でも少し恥ずかしくなる。


たぶん、答えはもうほとんど決まっている。


それでも、一つだけ引っかかっていた。


「高橋って」


葵はゆっくり言った。


「たまに、私じゃない誰かと話してるみたい」


電話の向こうで、美月が黙る。


「誰?」


「分かんない」


葵自身にも分からない。


他の女の人という意味ではなかった。もっと奇妙な感覚だった。


今日の神社。


雨が降り始めたあと、高橋はずっと自分を見ていた。


何かを待つように。


「私が何か言うのを、先に知ってるみたいに待ってる」


美月はすぐには答えなかった。


葵もしばらく黙り、やがてもっと小さな声で続けた。


「でも、その通りに言わないと……」


神社で「来年ここにいるか分からない」と答えたときの蓮を思い出す。


一瞬、本当に寂しそうな顔をした。


まるで自分が、別の答えを間違えて選んでしまったように。


「少し寂しそうな顔するんだよね」


葵は指先でシーツをつまんだ。


しばらく迷ってから、本音を口にする。


「それが、ちょっと怖い」


好きになりかけている。


だからこそ、怖かった。


もし高橋の中に、自分が知らない「水野葵」がもう一人いるのなら。


自分はこれからずっと――


その人と比べられるのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。