第5話 最初の約束
数日後の午後、大学図書館の窓際で、蓮は本を開いていた。
読んでいるつもりなのに、同じ段落を三度読んでも内容がほとんど頭に入ってこない。
葵との関係が悪くなったわけではなかった。会えば話すし、連絡も来る。告白の返事を急かしてもいない。
ただ、「まだ付き合っていない」という事実を意識するようになってから、妙に落ち着かなかった。
机の上の携帯電話が震える。
水野葵。
蓮はすぐに手を伸ばした。
『今日バイト休み。この前の傘のお礼したい。時間ある?』
それだけで口元が緩んだ。
ほとんど反射的に『ある。』と打ち、送信する直前で指を止める。
早すぎる。
これでは、連絡を待っていたみたいだ。
実際、少し待っていたのだけれど。
一度消し、『授業終わったらなら。』と打ち直す。書き終えてから、日本語までおかしくなっていることに気づいて、それも消した。
結局、
『あるよ。』
それだけ送った。
すぐに返事が来る。
『じゃあ四時。』
待ち合わせ場所も続けて届いた。
蓮は画面を見つめる。気づけば、また笑っていた。
向かいに座っていた直人が本から顔を上げる。
「気持ち悪」
蓮はすぐに表情を戻した。
「何が」
「さっきから一人で笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってた」
蓮は携帯電話を伏せた。
直人も本へ戻る。
数秒後、蓮はこっそり携帯電話を裏返した。
四時。
もう一度だけ確認した。
午後四時、大学の正門近くへ行くと、葵はすでに待っていた。
「待った?」
葵は首を振る。
「今来た」
その一言で、蓮の足がほんの少し止まった。
今来た。
何度も聞いたことのある言葉だった。
付き合ってからも、どちらかが先に着いていれば決まってそう言った。十分待っていても、二十分待っていても。たぶん、相手に気を遣わせたくなかっただけなのだろう。
それがいつから二人の習慣になったのかは、もう覚えていない。
「何?」
葵が首を傾げる。
「いや。行こう」
二人で歩き始めた。
「何食べたい?」
「水野が決めて」
「お礼するの私なんだけど」
「だから」
「何それ」
葵は少し考えたあと、突然言った。
「じゃあ、たこ焼き」
蓮は思わず聞き返す。
「……たこ焼き?」
「嫌?」
「いや」
嫌ではない。ただ、意外だった。
蓮の記憶では、葵が初めて自分を誘ってくれた日は小さな洋食店へ行った。長い時間話して、帰り道に神社へ寄った。
そして、その日。
二人は最初の約束をした。
少なくとも、蓮はずっとそう覚えていた。
けれど今日の葵は、迷うことなくたこ焼きを選んだ。
商店街で一箱買い、二人で川沿いの長椅子に座る。葵が箱を差し出した。
「熱いよ」
「分かってる」
そう言いながら一つ口に入れた瞬間、
「熱っ」
思わず声が出た。
葵が吹き出す。
「言ったじゃん」
蓮は口を開けて息を吸った。
「思ったより熱い」
葵はさらに笑った。肩まで揺らして、本当におかしそうに笑っている。
その顔を見ているうちに、蓮は少しだけ静かになった。
知らない笑い方だった。
いや。
葵がこんなふうに笑う人だったことは知っている。
ただ、後になって一緒に暮らした葵とは少し違う。もっと幼く、もっと無防備で、まだ笑うことを我慢する理由なんて何も知らないような顔だった。
「そんな笑う?」
葵は笑いをこらえながら蓮の顔を見ると、また吹き出した。
「ついてる」
「何が?」
自分の口元を指さす。
「ここ」
蓮が拭くと、葵は首を振った。
「反対」
反対側も拭く。
それでも違ったらしい。
「もう」
葵は紙ナプキンを取り、身を乗り出した。
手が蓮の顔へ近づく。
あと少しというところで、二人とも動きを止めた。
思っていたより近い。
葵の目がすぐそこにある。さっきまで笑っていた表情から、少しずつ笑みが消えていく。
蓮も動かなかった。
数秒後、葵が先に手を引き、紙ナプキンだけを差し出した。
「……自分で」
「うん」
蓮は受け取った。
二人とも川のほうを向く。
急に、水の音だけがよく聞こえた。
しばらくして、葵が口を開いた。
「高橋」
「ん?」
「何で私なの?」
蓮が横を見る。
「何が?」
「好きって言ったでしょ」
葵は手元の竹串を弄びながら続けた。
「だから、何で私を好きになったのかなって」
蓮は黙った。
答えなら、いくらでもあった。
仕事で遅くなった夜、何も言わず部屋の明かりを残してくれていたこと。夕飯はいらないと連絡すると文句を言いながら、それでも冷蔵庫に一人分取っておいてくれたこと。
冬になると足が冷たくて、寝るときはいつもこちらへ押しつけてきたこと。映画ではすぐ泣くくせに、見られると恥ずかしがったこと。
怒ると黙ること。
本当に悲しいときほど、笑おうとすること。
雷が苦手なのに、一度も素直に認めなかったこと。
そして最後の日、自分だって泣いていたのに、
『今までありがとう』
と言ったこと。
好きになった理由を挙げようと思えば、何時間でも話せる。
けれど、そのほとんどは今の葵にはまだ存在しない。
目の前の彼女は、夜中まで自分の帰りを待ったこともない。同じベッドで冬を越したことも、隣で映画を見て泣いたこともない。
蓮は答えられなかった。
「そんな難しい?」
葵が笑う。
蓮も苦笑した。
「難しい」
「ひどい」
「ごめん」
「好きって言った本人が分かんないの?」
「分かんないわけじゃない」
「じゃあ何?」
蓮は考えた。
そして、今ここにいる葵に言える言葉だけを探した。
「水野といると」
葵を見る。
「失いたくないって思うから」
葵の表情が変わった。
蓮が想像していた反応とは違う。
嬉しそうでも、感動したようでもない。
むしろ少し困っていた。
「……まだ何も始まってないのに?」
蓮は言葉を失った。
葵は小さく笑う。
「変なの」
蓮も笑った。
けれど今回は、彼女のほうが正しいと思った。
まだ何も始まっていない。
それなのに、自分だけがもう失うことを恐れている。
帰り道、二人は小さな神社の前を通った。
蓮の足が止まる。
「どうしたの?」
振り返った葵には答えず、蓮は鳥居を見つめた。
胸の奥で、記憶が一気に蘇る。
ここだ。
確かに、この神社だった。
大学時代、付き合い始めて間もない頃。小雨の降る日に二人でここへ来た。参拝を終えて帰ろうとしたところで雨が強くなり、二人で軒下へ逃げ込んだ。
そのとき葵が言った。
『来年も一緒に来よう。』
蓮は笑って返した。
『来年だけ?』
葵も笑った。
そして、
『じゃあ、ずっと。』
それが二人にとって、最初の約束になった。
付き合いが長くなってからも、ときどき話した。
あのとき、ずっと一緒にいようって言ったよね。
蓮にとって、何年経っても大切な記憶だった。
だから別れる日でさえ、口にしてしまった。
『ずっとって言ったじゃん。』
そのとき葵は、何も答えなかった。
「寄っていかない?」
葵も鳥居を見る。
「神社?」
「うん」
時間を確認し、「いいよ」と頷いた。
二人で境内へ入る。
観光客が来るような場所ではない。木々のあいだを風が抜ける音だけがしていた。
参拝を終えると、葵は絵馬の前で少しだけ足を止めた。
蓮はその横顔を見る。
心のどこかで、この先を知っていると思っていた。
少なくとも、そう信じていた。
神社を出ようとしたとき、細い雨が落ちてきた。
葵が顔を上げる。
「雨」
蓮の鼓動が少し速くなった。
同じだ。
あの日と。
二人は軒下へ入った。
葵は片手を差し出し、落ちてきた雨粒を受ける。
蓮は彼女を見た。
待った。
あの言葉を。
――来年も一緒に来よう。
けれど、葵は何も言わない。
ただ雨を眺めている。
少し待っても、やはり言わなかった。
耐えきれず、蓮は自分から口を開く。
「水野」
「ん?」
「また来たい?」
葵は神社を振り返った。
「うん」
蓮の表情が少し緩む。
「来年も?」
葵がこちらを見る。
「来年?」
「うん」
少し考えてから、何でもないことのように言った。
「来年ここにいるか分かんないし」
蓮の笑顔が止まった。
「……え?」
「就活とかあるし。どこにいるか分かんないじゃん」
返事ができなかった。
違う。
こんな答えではなかった。
葵は「来年も一緒に来よう」と言った。
自分が「来年だけ?」と聞けば、「じゃあ、ずっと」と笑った。
確かに覚えている。
何度も思い出してきた。
雨は静かに降り続いている。
「じゃあ……」
蓮は口を開いた。
「ずっと、って言わない?」
葵が振り向く。
「何が?」
言ってから、しまったと思った。
「いや」
けれど葵は、蓮を見たままだった。
「高橋ってさ」
「ん?」
「“ずっと”って言葉、好きなの?」
蓮は答えなかった。
葵は柱に軽く背を預け、雨を見る。
「私はちょっと苦手」
「……何で?」
「だって分かんないじゃん」
声は軽かった。
「来年どうなってるかも分からないのに」
少し笑う。
「ずっとなんて、もっと分かんない」
蓮は何も言えなかった。
頭の中では、別の葵が笑っている。
『じゃあ、ずっと。』
確かに言った。
間違いなく。
なのに目の前の葵は、「ずっと」という言葉が苦手だと言っている。
雨が止んでから、二人は神社を出た。
さっきより口数の少なくなった蓮に、葵はすぐ気づいた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「またそれ」
「何が?」
「高橋、都合悪くなるとすぐ何でもないって言う」
蓮の足が止まりかけた。
その言葉も、聞いたことがある。
もっとずっと先。二人の関係が少しずつうまくいかなくなっていた頃、葵に「何考えてるの?」と聞かれた。
蓮は答えた。
『何でもない。』
すると葵は、しばらくこちらを見たあと言った。
『そうやって、いつも一人で決めるよね。』
「高橋?」
今の葵の声に引き戻される。
蓮は彼女を見た。
そして、突然聞いた。
「水野」
「ん?」
「嫌なこと、嫌って言える?」
葵が怪訝そうな顔をする。
「言うけど」
「相手が喜んでても?」
「……人による」
「好きな人だったら?」
今度は葵が黙った。
すぐには答えない。
二人はそのまま駅へ向かって歩き、分かれ道が近づいた頃、葵がようやく口を開いた。
「好きな人なら……昔は、合わせちゃうかも」
蓮が横を見る。
「昔?」
「高校の時とか」
葵は少し恥ずかしそうに笑った。
「嫌われたくなくて。別に好きじゃないものも、好きって言ったり」
蓮は黙って聞く。
「でも、疲れるから」
葵の表情が少し変わった。
「今はなるべく言うようにしてる」
嫌なら嫌。
分からないなら分からない。
好きなら好き。
今は、できるだけそう言いたい。
葵にとっては、それだけの話だった。
けれど蓮の中で、一つの記憶が揺れていた。
神社。
雨。
笑っていた葵。
そして、
『じゃあ、ずっと。』
もし、あの言葉が自分の思っていたものではなかったとしたら。
その夜、蓮は部屋の明かりを落としたまま、窓の外を見ていた。
今日はすぐに備忘録を開かなかった。
頭の中で、何度も同じ場面を辿っていた。
神社。雨。若い葵。
『来年も来よう』
そう言ったのは――本当に葵だっただろうか。
記憶を辿る。
ぼんやりしていた輪郭が、少しずつ戻ってくる。
軒下で、先に言ったのは自分だった。
『来年も来よう』
葵が、
『うん』
と答えた。
嬉しくなった蓮は、笑いながら聞いた。
『来年だけ?』
そこで、ほんの短い間があった。
当時の蓮は気づかなかった。
いや。
気にもしなかった。
葵は、そのあと笑った。
『じゃあ、ずっと。』
蓮はすぐに言った。
『約束な』
葵は少しだけ間を置いて、
『……うん』
と答えた。
記憶はそこで終わった。
蓮は動けなかった。
昔なら、この場面を思い出すだけで幸せだった。
二人が初めて「ずっと一緒にいる」と約束した日。
そう信じていた。
けれど今は、あの短い沈黙だけが気になった。
『来年だけ?』
そう聞いたあと、葵はすぐには答えていなかった。
自分が聞きたい答えを待っていたのは――
誰だったのだろう。
蓮は携帯電話を取り、備忘録を開いた。
水野葵。
今はチーズケーキが好き。
小さい雑貨が好き。
新しいバイトは楽しい。
その下には、
俺の知らない時間が増えている。
それでもいい。
と残っている。
蓮は長く見つめたあと、新しい一行を入力した。
俺が知ってることは、本当に葵のことなのか。
指を離す。
記憶そのものを疑ったわけではない。
きっと、出来事は起きた。
葵は確かに「ずっと」と言った。
ただ、その言葉を自分と同じ気持ちで言ったのだと、勝手に決めていただけなのかもしれない。
同じ夜、葵はベッドに寝転がり、美月と電話をしていた。
「で、今日は?」
「たこ焼き食べた」
「それだけ?」
「神社も行った」
美月はすぐに言う。
「デートじゃん」
「だからまだ付き合ってないって」
「返事しないの?」
葵は少し黙った。
「したいんだけど」
「けど?」
窓の外へ目を向ける。
高橋と一緒にいるのは楽しい。
会えば嬉しい。
告白されたことを思い出すと、今でも少し恥ずかしくなる。
たぶん、答えはもうほとんど決まっている。
それでも、一つだけ引っかかっていた。
「高橋って」
葵はゆっくり言った。
「たまに、私じゃない誰かと話してるみたい」
電話の向こうで、美月が黙る。
「誰?」
「分かんない」
葵自身にも分からない。
他の女の人という意味ではなかった。もっと奇妙な感覚だった。
今日の神社。
雨が降り始めたあと、高橋はずっと自分を見ていた。
何かを待つように。
「私が何か言うのを、先に知ってるみたいに待ってる」
美月はすぐには答えなかった。
葵もしばらく黙り、やがてもっと小さな声で続けた。
「でも、その通りに言わないと……」
神社で「来年ここにいるか分からない」と答えたときの蓮を思い出す。
一瞬、本当に寂しそうな顔をした。
まるで自分が、別の答えを間違えて選んでしまったように。
「少し寂しそうな顔するんだよね」
葵は指先でシーツをつまんだ。
しばらく迷ってから、本音を口にする。
「それが、ちょっと怖い」
好きになりかけている。
だからこそ、怖かった。
もし高橋の中に、自分が知らない「水野葵」がもう一人いるのなら。
自分はこれからずっと――
その人と比べられるのだろうか。




