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知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


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第4話 知らない時間

告白した翌朝、大学の構内で葵を見つけた瞬間、蓮は無意識に歩調を緩めた。


昨日、自分が口にした言葉が蘇る。


『好きだから』


思い出すだけで、今さら少し恥ずかしい。


告白するつもりなどなかった。ただ、どうしてそこまで心配するのかと聞かれ、ほかに答えが見つからなかった。それで口にしただけのはずなのに、たった一晩で葵との距離の取り方がわからなくなっていた。


向こうも蓮に気づいた。


数メートル離れたところで、二人とも一度足を止める。どちらから近づけばいいのかわからないような、妙な間ができた。


先に動いたのは葵だった。小さく手を上げる。


「おはよう」


「……おはよう」


それだけ言って、また黙る。


昨日までなら、もう少し普通に話せたはずなのに。


「今日、一限ある?」


「ある」


「そっか」


「水野は?」


「二限から」


「そっか」


そこで二人とも、ひどく中身のない会話をしていることに気づいた。


葵が先に笑い、蓮もつられて笑う。それだけで、張っていたものが少しほどけた。


けれど、葵の表情はすぐに真面目になった。


「昨日のことなんだけど」


蓮も自然に姿勢を正す。


「うん」


葵は言葉を探すように視線を落とした。


「まだ……もう少し待ってもらっていい?」


蓮はほとんど迷わなかった。


「うん」


葵が顔を上げる。


「いいの?」


「いいよ。待つ」


その答えを聞いて、葵の肩からわずかに力が抜けた。


「ありがとう」


蓮はその顔を見ながら、ふと思う。


自分は恋人だった葵を知っている。自分を好きだった葵も知っている。


だから今の自分は、少しずるい。


普通ならもっと怖いはずだった。断られるかもしれない。昨日の告白を後悔されるかもしれない。このまま距離を置かれることだってある。


それなのに、自分のどこかには妙な安心が残っている。


――葵は、一度自分を愛した。


その記憶を、自分だけが持っているからだ。


葵が歩き出そうとしたところで、蓮はふと思い出した。


「水野」


「ん?」


「バイト、いつから?」


「今日」


蓮は一瞬、言葉を失った。


今日。


つまり、昨日まで自分の記憶のどこにも存在しなかった時間が、今日から始まる。


昼休み、食堂で向かいに座った直人は、食事を始める前から聞いてきた。


「で?」


「何」


「返事」


「まだ」


直人の眉が上がる。


「振られた?」


「違う」


「じゃあ付き合った?」


「違う」


少し考えたあと、直人は面倒そうな顔をした。


「一番めんどくさいやつじゃん」


「うるさい」


直人は気にせず食事を始める。しばらくして、また蓮を見た。


「でも、お前余裕だな」


「何が?」


「普通、返事待ちってもっと死にそうな顔するだろ」


蓮の箸が止まった。


昔の自分なら、そうだったかもしれない。


葵が何を考えているのか気になって、LINEの返信が少し遅いだけで意味を探し、告白した言葉を何度も思い返したはずだ。


「……待てるから」


「自信あるな」


直人は何気なく言っただけだった。


けれど、その言葉が蓮の中に残った。


自信。


そうなのだろうか。


自分は心のどこかで、最終的には葵が自分を好きになると決めている。


それは彼女を信じているからなのか。


それとも、一度そうなった未来を知っているから、同じことがもう一度起きると思い込んでいるだけなのか。


答えは出なかった。


その頃、葵は初めてのアルバイトへ向かっていた。


駅の近くにある、小さな書店カフェだった。入口側には本棚が並び、その奥に十数席ほどのカフェスペースがある。大きな店ではない。


けれど、中へ入った瞬間から葵は少し気に入っていた。


紙とコーヒーの匂いが混ざっている。静かすぎるわけでもなく、本を選ぶ人と誰かと話す人が同じ場所にいる。


エプロンを着けると、店長の吉田真紀が声をかけた。柔らかい雰囲気の女性だった。


「水野さん、初日だから焦らなくていいからね」


「はい。よろしくお願いします」


返事をしたところで、横から注文用のメモを差し出された。


「これ使って」


振り向くと、同じくらいの年齢の男が立っていた。


「藤井です」


「水野です」


「同じ大学?」


「はい」


「じゃあ敬語いらないか」


葵は思わず笑った。


「まだ初対面ですけど」


藤井も一瞬止まり、それから笑う。


「確かに」


それだけだった。


特別な出会いではない。恋の始まりでもない。


新しいアルバイト先で、新しい人に会った。


葵にとっては、それだけのことだった。


ただ、その人は蓮の記憶のどこにもいなかった。


夜八時十二分。


蓮は自分の部屋で携帯電話を見ていた。


葵との会話は昼から止まったままだ。


入力欄を開く。


『バイトどう?』


書いて、消す。


『終わった?』


それも消した。


昨日までなら、どちらもそれほど不自然な文章ではなかったかもしれない。


けれど、葵の声が浮かぶ。


『まだ知り合ったばっかりなんだから』


そして、


『何でそんな心配するの?』


蓮は携帯電話を伏せた。


送らなかった。


数分後、また手に取る。


通知はない。


そんな自分がおかしくなって、少し笑う。


「何やってんだ」


また置いた。


九時六分。


携帯電話が震えた。


蓮はほとんど反射的に手を伸ばす。


葵だった。


『バイト終わった!』


読んだ瞬間、自分でも気づかないうちに息を吐いていた。


『お疲れ』


すぐに返事が来る。


『覚えること多すぎる』


『大変?』


少しして、


『でも楽しい』


蓮はその文章を見つめた。


楽しい。


自分が知らなかった仕事。


自分がいなかった時間。


その中で、葵は楽しかった。


ほんの少し、不思議な気持ちになる。


それでも、


『そっか。よかった』


と送った。


翌日、葵は美月とキャンパスを歩いていた。


「バイトどうだった?」


「思ったより楽しかった」


「人は?」


「店長優しい」


葵は少し考えてから付け足した。


「あと、同じ大学の人いた」


美月の反応は早かった。


「男?」


「何でそこなの」


「男?」


葵は諦める。


「……男」


美月がにやりとした。


「高橋くんに言った?」


「何で言うの?」


「告白されてるんでしょ?」


「まだ付き合ってない」


「でも好きなんでしょ?」


葵は黙った。


美月が横から顔を覗き込む。


「顔」


「うるさい」


葵は彼女を軽く押した。それでも、口元の笑いだけは消せなかった。


その日の午後、大学を出るところで偶然蓮と一緒になった。


少し歩いてから、葵が言う。


「昨日、初バイトだった」


「どうだった?」


「楽しかった」


蓮は笑った。


「よかった」


「同じ大学の人もいたよ」


「へえ」


そこまでは自然だった。


「誰?」


「藤井くん」


蓮の足が、ほんの一瞬だけ遅れた。


藤井。


知らない名前だった。


記憶を探してみても、何も出てこない。


「何年?」


「同じ」


「学部は?」


そこで葵が横を向いた。


蓮はようやく、自分が質問を重ねすぎたことに気づく。


「……何」


葵は少しだけ笑った。


「別に」


また前を向く。


蓮も隣を歩きながら、胸の中に残った違和感を考えた。


チーズケーキとは違う。


猫のキーホルダーとも違う。


それらは、自分が知らなかった葵の一部だった。


けれど藤井航は、自分が知らなかった「誰か」だった。


葵の人生に、自分の記憶には存在しなかった人が増えている。


数日後、書店カフェで葵は少しずつ仕事に慣れ始めていた。


客の少ない時間、藤井が本棚を整理しながら葵を見る。


「水野」


「何?」


藤井が自分の胸元を指した。


「名札、逆」


葵が慌てて下を見る。


本当に逆だった。


「最悪」


藤井が笑う。


「初日もだったよ」


葵が顔を上げた。


「言ってよ」


「面白かったから」


「性格悪い」


二人で笑った。


そのとき、入口のベルが鳴った。


葵は反射的に声を出す。


「いらっしゃいませ――」


顔を上げて、止まった。


入口に蓮が立っていた。


「高橋?」


藤井もそちらを見る。


蓮は一拍置いてから言った。


「……近く通ったから」


葵はすぐに返した。


「学校から全然近くないけど」


蓮が黙る。


横で藤井が吹き出し、葵も笑った。


「とりあえず座って」


蓮は少し居心地悪そうに席へついた。


やがて葵がメニューを持ってくる。


「何にする?」


「コーヒー」


ほとんど考えずに答えた。


「ブラック?」


蓮は一瞬、彼女を見た。


その質問を、いつか葵はしなくなる。


自分が何を飲むのか、知っているから。


けれど今は、まだ知らない。


「うん」


「了解」


葵は注文を書き、カウンターへ戻った。


蓮はその背中を目で追う。


藤井が葵にカップを渡し、何かを話す。


葵が笑った。


ほんの一瞬の、ごく普通の笑いだった。


それを見たとき、蓮は初めて気づいた。


自分の知らない場所でも、葵は笑う。


自分が何も知らない会話の中でも、自分とは関係のない理由で。


当たり前のことだった。


あまりにも当たり前で、これまで考えたことすらなかった。


仕事が終わる頃、蓮は店の外にいた。


出てきた葵が目を丸くする。


「待ってたの?」


「うん」


「何で?」


一緒に帰りたかった。


そう答えかけて、蓮は止まった。


二人の家は同じ方向ではない。


今は、まだ。


「少し歩こうと思って」


葵は蓮を見る。


明らかに苦しい言い訳だった。


けれど何も言わず、隣を歩き始めた。


しばらくして、葵が言う。


「藤井くん、面白いでしょ」


「……うん」


「同じ大学なんだって?」


「そう」


少し沈黙が落ちた。


蓮は結局、聞いた。


「仲いいの?」


葵が少し歩調を緩める。


「まだ二回しか会ってないよ」


「そっか」


葵が横から蓮を見る。


「高橋」


「ん?」


「もしかして」


少し間を置いて、笑う。


「嫉妬してる?」


蓮が止まった。


その顔を見て、葵の笑みが大きくなる。


「図星?」


否定しようと思えばできた。


違う。


別に。


そんな言葉なら簡単だった。


けれど蓮は少し迷ったあと、正直に答えた。


「……少し」


葵の笑い方が、少し柔らかくなった。


「そっか」


「嫌?」


葵は首を振る。


「嫌じゃない」


二人はまた歩き始めた。


気づけば、さっきよりほんの少しだけ近い距離を歩いていた。


駅前のいつもの分かれ道まで来ると、葵が足を止めた。


「高橋」


「ん?」


「返事」


蓮の表情が変わる。


葵は少し俯き、言葉を整理するように間を置いた。


「まだ、高橋のことそんなに知らない」


「うん」


「高橋も、私のことそんなに知らない」


ほんの一瞬だけ、蓮の胸に何かが引っかかった。


以前なら言ったかもしれない。


知ってる。


誰よりも知ってる。


けれど、今は言わなかった。


「……うん」


葵が顔を上げる。


「だから、もう少し知ってからでもいい?」


少し緊張したように笑っていた。


蓮は彼女を見る。


待つこと。


知らないままでいること。


今の自分には、まだ少し難しい。


それでも、


「いいよ」


葵の顔が緩んだ。


「ありがとう」


「でも」


「何?」


蓮は少し笑う。


「好きなのは変わらない」


葵の顔が一気に赤くなった。


「そういうの急に言うのずるい」


「ごめん」


「だから、何で謝るの」


二人とも笑った。


その夜、蓮は部屋で携帯電話のメモを開いた。


水野葵。

今はチーズケーキが好き。

小さい雑貨が好き。

面接――合格。

転ばなかった。

告白した。


その下へ、新しく打ち込む。


新しいバイトは楽しい。


続けて、


藤井航――同じ大学。


そこで指が止まった。


画面にある名前を数秒見つめる。


そして、削除した。


藤井航。


その名前だけを消した。


残ったのは、


新しいバイトは楽しい。


蓮はしばらく画面を見る。


それから、もう一行書いた。


俺の知らない時間が増えている。


胸の奥には、まだ少し不安がある。


知らない場所。


知らない人。


知らない笑い方。


けれど、さらに一行を書いた。


それでもいい。


今度は消さなかった。


その日の閉店後、葵と藤井は店内のテーブルを片づけていた。


藤井が椅子を戻しながら言う。


「水野」


「何?」


「この前来た人」


「高橋?」


「彼氏?」


葵の手が止まった。


「違う」


「じゃあ好きな人?」


葵は答えなかった。


藤井が顔を見る。


「分かりやす」


「うるさい」


藤井は笑って、また片づけを始めた。


葵も黙ってテーブルを拭く。


少しして、自分でも小さく笑った。


「……まだ分かんない」


誰に聞かせるでもなく、そう言った。


まだ付き合っていない。


まだ全部知っているわけでもない。


高橋には今でも少し不思議なところがある。わからないことだって多い。


だから、まだわからない。


そう言ったはずなのに。


そのとき葵の頭に浮かんでいたのは、もう高橋蓮の顔だった。

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