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知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


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第3話 変えられるなら

翌日の昼、大学の食堂はいつも通り騒がしかった。


蓮と直人が空いた席を見つけて座ったところで、少し離れた場所から美月が手を上げた。


「こっち空いてるよ」


直人は迷いなく立ち上がる。


「行こうぜ」


蓮だけが一瞬、動かなかった。


昨日、葵に言われた言葉がまだ頭に残っている。


――まだ知り合ったばっかりなんだから。


当然のことだった。


今の葵にとって、自分はまだ恋人ではない。長く一緒に暮らした相手でもなければ、好きな食べ物を知っていて当然の人でもない。


昨日は、少し近づきすぎたのかもしれない。


そんなことを考えているうちに、直人はもう美月たちのところへ行っていた。


「高橋、何してんの」


呼ばれて、蓮も立ち上がる。


四人で同じテーブルを囲んだ。


座って間もなく、美月が楽しそうに葵を見る。


「昨日、二人でケーキ食べに行ったんだって?」


葵が顔を上げた。


「何で知ってるの?」


「聞いたから」


「そうだけど……」


美月が笑う。


その向かいでは、直人も何か言いたそうな顔で蓮を見ていた。


「何」


「別に」


「絶対何かあるだろ」


「ないって」


葵が二人を交互に見て、呆れたように言う。


「二人とも気持ち悪い」


美月が吹き出し、直人も笑った。蓮もつられて笑いながら、ふと気づく。


この四人で、こんなふうに昼食を食べた記憶は自分にはない。


少なくとも、はっきりと思い出せるものはなかった。


少し前までなら、それだけで不安になったかもしれない。自分の知っている過去と違う。記憶にないことが起きている。それだけで、何かがおかしいと思ったはずだ。


けれど今日は違った。


自分の知らない時間が目の前で増えていくことを、ほんの少しだけ、いいと思えた。


食事も半分ほど終わった頃、美月が思い出したように言った。


「葵、明日の三限空いてるんだっけ?」


「うん」


「面接?」


「そう」


葵は携帯電話を取り出し、保存してある住所を確認した。


「ちょっと遠いけど、時給いいから」


その瞬間、蓮の手が止まった。


三限。アルバイトの面接。少し遠い場所。


ばらばらだった言葉が、突然一つにつながった。


記憶の中で、二人は一緒に暮らしていた。


葵はソファに座り、足を蓮の腿の上に乗せている。何気なく膝に触れたとき、そこに薄い傷跡があることに気づいた。


『これ何?』


指でなぞると、葵は自分の膝を見て、少し懐かしそうに笑った。


『ああ。大学の時』


『怪我したの?』


『バイトの面接行った帰りに、大雨降って』


『うん』


『駅の階段で転んだ』


蓮は笑った。


『ドジ』


『ひど』


葵が軽く足で蹴ってくる。


『携帯も壊れたんだからね』


『それは最悪だな』


『でしょ?』


葵も笑っていた。


ただの昔話だった。


長く一緒にいれば、何度か耳にすることになる過去の一つ。


『あの日、ほんと最悪だった』


その声だけが、不自然なほど鮮明に残っている。


蓮は食堂のざわめきの中へ意識を戻した。


目の前では、葵が美月と面接の場所について話している。


蓮はテーブルの下へ視線を落とした。


彼女の膝には、まだ傷がない。


胸の奥がざわついた。


昼食を終えると、葵と美月は先に席を立った。二人の姿が食堂の外へ消えても、蓮はしばらく座ったままだった。


「どうした?」


直人が聞く。


「何が?」


「急に黙った」


蓮は窓の外を見る。


空は明るく、雲もそれほど多くない。明日、大雨になるとは思えないほど穏やかな空だった。


「高橋?」


蓮は少し迷ってから聞いた。


「……明日、雨降ると思う?」


直人も窓を見る。


「知らねえよ」


「だよな」


「天気予報見れば?」


言われて、蓮は携帯電話を取り出した。


翌日の午後は雨。降水確率も高い。


画面を見つめたまま、呼吸が少し浅くなる。


傷跡。壊れた携帯電話。葵が笑いながら話していた昔の失敗。


これまで、それはずっと「終わったこと」だった。


もう起きたこと。変えられないこと。ただ記憶の中に残っているもの。


けれど今は違う。


まだ、起きていない。


その事実を、蓮は初めてはっきりと理解した。


翌日、三限が始まる少し前。


教学棟を出た蓮は、校門へ向かって歩いていく葵を見つけた。肩には鞄をかけている。昨日話していた面接へ向かうところなのだろう。


「水野」


葵が振り返る。


「高橋」


蓮は歩み寄った。


「面接?」


「うん」


「傘は?」


葵は一瞬きょとんとしたあと、空を見上げる。


「持ってない」


「雨降るよ」


「そうなの?」


蓮は携帯電話の天気予報を見せた。


画面を覗き込んだ葵が、少し困った顔をする。


「ほんとだ。途中で買おうかな」


その横顔を見ながら、蓮の頭に一つの言葉が浮かんだ。


行かないほうがいい。


そう言えばいい。


面接に行かなければ、駅の階段で転ぶこともない。膝に傷が残ることも、携帯電話が壊れることもない。


一番確実な方法だった。


けれど、その言葉は口から出なかった。


昨日、葵自身が言っていた。


まだ知り合ったばかり。


それに何より、これは葵の面接だった。


行くかどうかを決めるのは、自分ではない。


蓮は鞄を開け、折り畳み傘を取り出した。


「使って」


葵が目を丸くする。


「高橋は?」


「俺、三限あるから」


「でも帰るとき」


「その頃には弱くなってるかもしれないし」


葵は傘を見たまま、すぐには受け取らなかった。


「でも……」


「面接、遅れるよ」


そう言われて時間を確認し、少し迷ったあと、葵は傘を受け取った。


「ありがとう」


「うん」


葵は歩き出した。


数歩進んだところで振り返る。


「ちゃんと返すから」


蓮は笑った。


「いつでもいいよ」


葵は軽く手を振り、今度こそ校門へ向かった。


蓮はその場に残り、小さくなっていく背中を見送った。


行くなとは言わなかった。


場所も変えさせなかった。


ただ、一本の傘を渡した。


三限が始まってしばらくすると、窓に小さな雨粒がつき始めた。最初は数えるほどだったものが、やがて間隔を狭め、気づけば外は白く煙るほどの雨になっている。


教授は変わらず講義を続けていた。


蓮もノートを取っていたが、ときどき窓を見る。書いている文字は、自分でも読みにくいほど乱れていた。


隣から直人が小さく言う。


「傘ない」


蓮は前を向いたまま答える。


「俺も」


直人が振り向いた。


「は?」


「ない」


「何で?」


「貸した」


「誰に?」


蓮は答えなかった。


直人は数秒こちらを見てから、「ああ」とだけ言った。


その瞬間、窓の外で雷が鳴った。


蓮の手が止まる。


駅の階段。大雨。転ぶ葵。落ちる携帯電話。


反射的に立ち上がりそうになった。


けれど、動かなかった。


もう傘は渡した。


そこから先まで追いかけて、彼女の行動を全部変える必要はない。


残りの道は、葵が自分で歩けばいい。


蓮はそう自分に言い聞かせた。


授業が終わっても雨はまだ強かった。


蓮と直人は教学棟の入口で立ち止まり、外を見る。


「どうすんの?」


「走る」


「マジ?」


蓮が鞄を頭に乗せようとしたとき、携帯電話が震えた。


水野葵。


すぐに開く。


送られてきたのは、駅の構内で撮った一枚の写真だった。中央には蓮の折り畳み傘が写っている。


その下に短い文章があった。


『助かった。ありがとう』


蓮は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


「何?」


直人が覗こうとする。


蓮は携帯電話を少し引いた。


「……何でもない」


自分でもわかるくらい、口元が緩んでいたらしい。


直人が呆れた顔をする。


「傘ないのに嬉しそうなの怖いわ」


蓮はとうとう声を出して笑った。


夕方には雨もかなり弱くなっていた。


駅を出た蓮は、一人で家へ向かった。


面接の場所へは行かなかった。葵を迎えにも行かなかった。ただ、自分の帰る道を歩いた。


途中で、また携帯電話が震える。


『面接受かった!』


明るい表情のスタンプまでついていた。


蓮は足を止めた。


記憶の中で、葵はそのアルバイトをしていなかった。


少なくとも、自分が知っている大学時代の葵には、その仕事の記憶がない。


大雨の日、駅の階段で転び、携帯電話が壊れた。面接のあとに何があったのか詳しく聞いたことはない。ただ、最終的にその仕事をしていなかった。


けれど今、葵は合格した。


蓮はゆっくり返信する。


『おめでとう』


すぐに返ってきた。


『ありがとう』


続けて、


『傘のおかげ』


蓮はその言葉を見つめた。


胸の鼓動が少しずつ速くなる。


顔を上げると、雨上がりの道路に街灯の光が映っていた。


見慣れた街だった。


けれど、もう同じではない。


一本の傘だけで、起きるはずだったことが起きなかった。


そして、なかったはずのことが起きた。


変わった。


何かが、本当に変わった。


翌日、大学で葵が蓮のところへやってきた。


手には、昨日貸した折り畳み傘がある。


「高橋」


「ん?」


葵は傘を差し出した。


「ありがとう。助かった」


「うん」


蓮は受け取った。


そして、考えるより先に聞いていた。


「転ばなかった?」


葵の表情が止まった。


「……え?」


蓮も固まる。


言ってしまった。


「いや」


すぐに笑って誤魔化す。


「雨すごかったから」


葵は蓮を見た。


「転んでないけど」


「ならよかった」


蓮は視線を落とし、傘を鞄へしまった。


それで終わったつもりだった。


けれど、葵はまだこちらを見ている。


「高橋」


「ん?」


「昨日も思ったんだけど」


少し間を置いた。


「何でそんな心配するの?」


蓮は答えられなかった。


本当のことは言えない。


君が転んだことを知っているから。


その膝の傷跡を知っているから。


壊れた携帯電話の話も聞いたから。


何年も先に、君が笑いながらその日のことを話す顔まで覚えているから。


そんなことを言えるはずがない。


別の理由を探した。


何か普通の、納得できる言葉。


けれど見つからなかった。


最後に残ったのは、一番単純で、一番隠せない答えだった。


「好きだから」


言った瞬間、二人とも動かなくなった。


廊下のざわめきが、少し遠くなった気がした。


葵が瞬きをする。


「……え?」


蓮自身も驚いていた。


告白するつもりではなかった。


少なくとも、今日ではなかった。


けれど、もう取り消せない。


そして、取り消したくもなかった。


蓮は今度こそ逃げずに葵を見る。


「水野のこと、好きだから」


葵は何も言わなかった。


頬が少しずつ赤くなっていく。


その顔を見て、今度は蓮のほうが急に不安になった。


「ごめん」


葵がすぐに顔を上げる。


「何で謝るの?」


「いや……急だったから」


「それは……急だけど」


葵は視線を落とした。


蓮は待った。


返事は、と聞きかけてやめる。


「今じゃなくていい」


葵が顔を上げた。


蓮を見つめる。


長い沈黙ではなかった。


それでも、まだ知り合ったばかりの二人には十分長かった。


やがて葵は小さく頷いた。


「……うん」


そして背を向け、歩き出した。


いつもより少し速い。


蓮は追わなかった。


その背中を見ながら、ふと気づく。


自分が最初に葵へ気持ちを伝えた日は、こんな日ではなかった。


こんな場所でもなかった。


また一つ、記憶と違っている。


その夜、部屋へ戻った蓮は携帯電話のメモを開いた。


昨日書いた言葉が残っている。


水野葵。

今はチーズケーキが好き。

小さい雑貨が好き。


その下へ、新しく打ち込む。


面接――合格。

転ばなかった。

告白した。


三つの言葉を見つめる。


どれも、自分の記憶とは違う。


蓮は指を動かした。


変えられる。


書いたあと、その四文字を長く見つめた。


すると、別の光景が浮かぶ。


玄関。スーツケース。泣いたあとの葵の目。


『今までありがとう』


蓮はもう一度、指を動かした。


変えられる。


そして、その下に続ける。


だったら、最後も。


書き終えてから、しばらく動けなかった。


それが希望なのか。願いなのか。それとも、もっと危うい何かなのか。


まだ蓮自身にもわからない。


ただ一本の傘で、未来らしきものが変わった。


ならば、あの最後の日だって――。


そう思わずにはいられなかった。


その頃、葵はベッドの上で携帯電話を見ていた。


美月とのメッセージ画面には、


『告白された???』


と届いている。


葵は、


『された』


と返した。


すぐに、


『で???』


と返ってくる。


『まだ返事してない』


数秒後。


『好きじゃないの?』


葵はその文章を長く見た。


指を動かす。


『嫌じゃない』


書いて、消した。


もう一度。


『たぶん、ちょっと好き』


今度は消さなかった。


けれど、送信ボタンを押す直前で手が止まる。


昨日、傘を差し出してくれた蓮。


ケーキを食べている自分を見つめていた顔。


そして今日、まっすぐ言われた言葉。


『好きだから』


思い出すだけで、少し頬が熱くなった。


葵の口元が自然に緩む。


けれど、その笑みは長く続かなかった。


別の声を思い出したからだ。


『転ばなかった?』


葵は画面を見つめる。


どうして、あんな聞き方をしたのだろう。


大雨だったから心配した。


そう言われれば、それで終わる話なのかもしれない。


けれど、「雨、大丈夫だった?」ではなかった。


「怪我しなかった?」でもない。


転ばなかった?


まるで、転ぶ可能性を心配していたのではなく、転ぶはずだったことを確認するような聞き方だった。


葵は、さっき入力した文章を見る。


『たぶん、ちょっと好き』


少し迷ったあと、そのまま送信した。


そして続けて、


『でも』


と送る。


美月からすぐに返事が来た。


『でも?』


葵はしばらく考えてから、ゆっくり指を動かした。


『時々、まだ起きてないことを心配してるみたいなんだよね』


送信すると、携帯電話から指を離した。


高橋蓮のことは、たぶん少し好きだ。


それは昨日より、少しだけわかるようになった。


でも同じくらい、わからないことも増えている。


彼はときどき、これから自分に何が起きるかを心配しているのではなく、もう起きたことを、もう一度起こさないようにしているような顔をする。


まだ、何も起きていないのに。

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