第2話 知っているはずの君
教室に入ってからも、蓮はまだ現実に追いつけずにいた。
前では教授が話し続けている。黒板を走るチョークの音、紙をめくる音、ときどき聞こえる小さな咳。机の下では、誰かが携帯電話を触っている。
どれも昔、どこかで聞いたはずの音だった。けれど、懐かしむ余裕はなかった。
蓮は後ろの席に座り、開いたノートを前にしたまま、一文字も書いていない。視線はずっと斜め前に向いていた。
そこに、水野葵がいた。
葵は教授の話を聞きながらノートを取っている。少し考えて筆を止め、頬に落ちてきた髪を耳にかける。教授の話す速度が急に上がると、わずかに眉を寄せ、慌てて続きを書き始めた。
何でもない仕草ばかりだった。
それなのに、蓮は目を離せなかった。
七日前には、もういなかった。同じ部屋にいたはずの人が消え、彼女が使っていた場所だけが空いていた。返事のない部屋で古い写真を見つめながら、もう一度会いたいと願った。
たった一度でいい。
そう思った。
そして今、その人が数メートル先で呼吸している。髪が揺れ、瞬きをして、教授の言葉を聞き逃しては小さく困った顔をする。
生きている。
そこにいる。
その当たり前が、胸の奥を強く締めつけた。
視界が滲み、蓮は慌てて顔を伏せた。こんなところで泣くわけにはいかない。
しばらくして顔を上げると、ちょうど葵が振り返った。
目が合った。
彼女は少し眉を寄せ、口だけを動かす。
「何?」
蓮は首を振った。
葵は二秒ほどこちらを見たあと、黒板を指さした。ちゃんと授業を聞け、ということらしい。
思わず蓮が笑うと、葵も少し呆れたような顔をして前を向いた。
蓮はもう一度、その背中を見る。
今度は泣かなかった。ただ、この光景が突然消えてしまわないか確かめるように見ていた。
やがて授業が終わり、学生たちが一斉に立ち上がった。蓮がノートを鞄へしまっていると、横から声がした。
「高橋」
顔を上げると、佐伯直人が立っていた。
一瞬、返事を忘れた。
若い。
当たり前なのに、ひどく違和感がある。
蓮の知っている直人の顔には、もう少し疲れがあり、笑えば目尻に薄い皺ができた。結婚してから少し太ったと本人が気にしていた時期もある。
けれど目の前の直人には、そんな時間がまだ何も刻まれていない。
「今日どうした?」
「何が?」
「授業中、ずっとぼーっとしてたぞ」
「そう?」
直人は呆れたように蓮を見ると、さっきまで彼が見ていた方向へ視線を向けた。少し離れたところで、葵が小川美月と話している。
直人はすぐに納得したらしい。
「ああ」
「何」
「水野さん」
蓮は否定しなかった。
その反応が予想外だったのか、直人が目を丸くする。
「好きなの?」
蓮は葵を見た。
本来なら、簡単に答えられる質問ではないはずだった。
まだ知り合って間もない。相手が何を考えているのかも、自分がどう思われているのかもわからない。好意に名前をつけるには、少し早い時期だったはずだ。
けれど蓮には、もう答えがある。
ずっと前から。
「うん」
「え?」
「好きだよ」
少しだけ笑った。
「すごく」
直人はしばらく蓮の顔を見ていた。
「……そんなに?」
その言い方がおかしくて、蓮は笑った。
「いつから?」
笑みが少し消えた。
いつからだったのだろう。
初めて好きだと気づいた日か。付き合い始めた日か。一緒に暮らし始めた日か。
それとも、いなくなって初めて、どれほど好きだったのか思い知らされたあの夜なのか。
「気づいた時には、遅かった」
「は?」
直人が怪訝な顔をする。
蓮は我に返った。
「何でもない」
「今日のお前、マジで変だぞ」
「そうかも」
それ以上は言えなかった。
教室から学生が減っていく。葵が鞄を肩にかけたのを見て、蓮はほとんど反射的に立ち上がった。
「水野」
葵が振り返る。
「何?」
その呼び方には、まだ慣れない。
何年ものあいだ「葵」と呼んできた。寝起きの声で、怒った声で、ふざけながら。帰ってきた彼女を迎えるときにも。
けれど、今はまだ違う。
「このあと、時間ある?」
「少しなら。何で?」
蓮は一瞬迷った。
以前の自分なら、もっといろいろ考えていた気がする。急に誘って変に思われないか。断られたら気まずくならないか。好意に気づかれすぎないほうがいいのではないか。
でも今は、そんなことが不思議なくらい小さく思えた。
本当に怖いのは、断られることではない。
いつか「一緒に行かない?」という一言さえ、もう聞けなくなることだった。
「ケーキ食べに行かない?」
葵が少し驚く。
「二人で?」
「うん」
数秒、彼女は蓮の顔を見た。
「……いいよ」
胸の奥がほどけた。
蓮は思わず笑った。
その反応がよほど大げさだったのか、葵が怪訝そうな顔をする。
「そんな嬉しい?」
昔なら誤魔化したかもしれない。
別に。たまたま。
そんなふうに。
けれど今は素直に頷いた。
「うん。嬉しい」
葵が一瞬黙り、視線を逸らした。
「……そっか」
耳が少しだけ赤くなったように見えた。
放課後の商店街を、二人で歩いた。
蓮は意識して道を決めなかった。この先に何があるか知っているように歩くことが、なぜか少し怖かったからだ。
歩き始めて間もなく、葵が小さな雑貨店の前で足を緩めた。店先には安いアクセサリーやキーホルダー、ぬいぐるみが並んでいる。
彼女の視線が、小さな猫のキーホルダーに止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにまた歩き出す。
けれど蓮は見ていた。
「こういうの好き?」
葵が振り返る。
「こういうの?」
蓮は店先を指した。
「小さいやつ」
葵は少し考えた。
「うん。結構好き」
「そうなんだ」
思ったまま口にすると、葵が笑った。
「何その反応」
「いや。知らなかったから」
「当たり前じゃん」
葵は前を向いた。
「まだ知り合ったばっかりなんだから」
蓮の歩調が、ほんの少し遅れた。
まだ知り合ったばかり。
その通りだった。
今の葵にとって、自分はまだその程度の人間だ。知っていて当然のことなど、一つもない。
「……そうだな」
蓮は彼女に追いついた。
店に着くと、今度は別の種類の懐かしさが押し寄せた。
入口のベル。窓際の席。少し古びたメニュー。
蓮はこの店を知っている。
葵と何度も来た。機嫌が悪いときも、誕生日にも。ひどい喧嘩をしたあと、気まずいまま同じテーブルに座り、最後には仲直りしたこともあった。
けれど、目の前の葵にとっては、そのどれもまだ存在しない。
店員がメニューを置く。
蓮はほとんど見なかった。
「いちごのショートケーキ」
葵が顔を上げる。
「高橋が?」
「水野」
「私?」
「うん」
そして、あまりにも自然に続けた。
「好きだろ?」
言ってから気づいた。
葵も動きを止める。
「……何で知ってるの?」
心臓が一度、大きく鳴った。
「いや」
蓮はすぐに笑った。
「好きそうだから」
「何それ」
葵は少し疑うように彼を見たあと、もう一度メニューへ視線を落とした。数秒迷い、別の写真を指す。
「じゃあ私、チーズケーキ」
蓮の笑顔が止まった。
「……チーズ?」
「うん」
「いちごじゃなくて?」
葵が吹き出す。
「そんなにいちご食べてほしいの?」
「いや……」
蓮は本当に困っていた。
「好きじゃない?」
「嫌いじゃないよ」
葵はメニューの写真を指した。
「でも今は、こっちのほうが好き」
今は。
その二文字だけが、妙に耳に残った。
やがて運ばれてきたチーズケーキを、葵は一口食べた。すぐに表情が緩む。
「おいしい」
その顔を見れば、疑う理由などなかった。
本当に好きなのだ。
蓮は覚えている。
葵は苺のショートケーキが好きだった。誕生日に買って帰れば喜んだ。新しい店を見つけるたび、苺のケーキがあるか確認していた。
その記憶は嘘ではない。
けれど、目の前でチーズケーキを食べて幸せそうにしている葵も間違ってはいない。
二つのことが、同時に本当なのだ。
「好みって、変わる?」
葵がフォークを止めた。
「変わるでしょ」
「そんなに?」
「何その質問」
葵が笑う。
蓮も、自分で変なことを聞いていると思った。
「例えば、今好きなものを何年か後に全然食べなくなったり」
葵は少し考え、小さくケーキを切った。
「あるんじゃない?」
「食べ物だけじゃなくて?」
「服とか、音楽とか」
そして、何でもないことのように続ける。
「人だって変わるし」
蓮は黙った。
葵は、その言葉が彼に何を思わせたのか知らないままケーキを食べる。
「逆に、今そんなに好きじゃないものが、好きになることもあるでしょ」
蓮はメニューに載っている苺のショートケーキを見た。
自分は、葵が何を好きだったかを覚えている。
けれど、それをいつ好きになったのか。どうして好きになったのか。何がきっかけだったのか。
ほとんど知らない。
知っていると思っていた記憶のあいだには、思っていたよりずっと多くの空白があった。
店を出る頃には、空が少し暗くなっていた。
先ほどの雑貨店の前をもう一度通ると、蓮は無意識にあの猫のキーホルダーを見た。
足が止まる。
けれど、店には入らなかった。
「高橋?」
少し先で葵が振り返る。
蓮は追いついた。
「どうしたの?」
「何でもない」
数歩進んだところで、葵が笑った。
「さっきの猫?」
「え?」
「高橋も欲しいの?」
「違う」
「じゃあ何?」
蓮は葵を見る。
好きなら買ってあげようか。
そんな言葉が一瞬浮かんだ。
けれど言わなかった。
まだ知り合ったばかり。
さっきの葵の言葉を思い出す。
「……覚えとこうと思って」
「何を?」
「水野が好きなもの」
葵の歩調が少しゆっくりになった。
横から蓮を見る。
「変なの」
「また?」
「うん。ちょっと変」
でも、嫌だとは言わなかった。
駅前に着く頃には、街灯がつき始めていた。
二人が別れる場所まで来る。
「今日はありがとう」
「楽しかった?」
「うん。ケーキ、おいしかった」
蓮は笑った。
「また行こう」
「うん」
葵が歩き出す。
蓮も続いた。
一歩、二歩。
「高橋?」
葵が止まった。
「ん?」
彼女は反対側を指さした。
「高橋、あっちじゃない?」
蓮もそちらを見る。
自分が帰る方向だった。
そこでようやく気づく。
身体が勝手に葵についていったのだ。
何年ものあいだ、この駅を出れば二人は同じ方向へ帰った。スーパーへ寄り、コンビニへ寄り、夕飯をどうするか話した。喧嘩をした日は、何も話さないまま同じ道を歩いた。
それでも最後には、同じ家の扉を開けた。
だから身体だけが、その続きを覚えていた。
けれど今は違う。
葵はこっち。
自分はあっち。
「……そうだった」
思わずこぼれた。
葵がますます不思議そうな顔をする。
「今日、ほんと変だよ」
「ごめん」
「謝るほどじゃないけど」
葵は軽く手を振った。
「じゃあ、また」
胸の奥に、七日前の言葉が蘇る。
『今までありがとう』
あれは、終わりを告げる言葉だった。
けれど今、目の前にいる葵は違う。
蓮はゆっくり言った。
「また明日」
葵は何の迷いもなく頷いた。
「うん。また明日」
そのまま歩いていく背中を、蓮は追わなかった。
しばらくその場に立ったまま見送り、やがてひとりで笑う。
また明日。
明日がある。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
その夜、蓮はかつて自分が一人で暮らしていた部屋へ戻った。
玄関を開けた瞬間、また言葉が出る。
「ただいま」
返事はない。
一瞬固まり、それから部屋を見回した。
狭い。家具も少ない。置いてあるものは全部、自分のものだ。
七日前まで葵と暮らしていた、あの部屋ではない。
誰かの「おかえり」を待つようになるより、ずっと前の部屋だった。
蓮は小さく笑う。
「……まだか」
前の夜には、もういなかった。
今は、まだいない。
その違いが不思議だった。
机の前に座り、古い携帯電話を手に取る。しばらく考えてからメモを開き、そこに名前を打ち込んだ。
水野葵。
その下に、少し迷いながら続ける。
今はチーズケーキが好き。
小さい雑貨が好き。
二行を見つめているうちに、何だかおかしくなった。
自分はずっと、葵のことなら何でも知っていると思っていた。なのに今は、初めて誰かに興味を持った学生みたいに、その人の好きなものを書き留めている。
それでも嫌ではなかった。
知らないなら、知ればいい。
思えば、最初からそうだったはずだ。
蓮はさらに書いた。
知らないなら、もう一回知ればいい。
今度は、ちゃんと見る。
書き終えた直後、携帯電話が震えた。
水野葵。
『今日はありがとう』
続けて、
『チーズケーキおいしかった』
蓮は画面を見て笑った。
『また行こう』
しばらくして返事が来る。
『うん』
たった二文字。
それでも、すぐには画面を閉じなかった。
もし、自分が知らなかったことを知り直せるなら。
見落としていたものを、今度は見られるなら。
何かを変えられるのかもしれない。
まだ何を、とは考えなかった。
ただ初めて、そう思った。
同じ頃、葵は自分の部屋のベッドに横になり、美月と電話をしていた。
「で、どうだった?」
「何が?」
「高橋くん」
「普通」
間髪を入れず答えると、電話の向こうで美月が笑った。
「二人でケーキ食べに行って?」
「……普通」
「高橋くん、葵のこと好きなんじゃない?」
葵はすぐには答えなかった。
今日の蓮を思い浮かべる。
「分かんない」
「嫌?」
「嫌じゃない。優しいし」
「じゃあいいじゃん」
葵は返事をしなかった。
寝返りを打ち、天井を見る。
嫌ではない。
むしろ、一緒にいて楽しかった。突然ケーキに誘われて驚いたけれど、あれほど嬉しそうにされれば、少しくらい意識してしまう。
ただ、何かが引っかかっていた。
「でも……」
「何?」
葵は天井を見たまま考える。
授業中、何度もこちらを見ていた目。
店を最初から知っていたような様子。
自分が苺のショートケーキを好きだと、疑いもしなかった言い方。
そして駅で、何の迷いもなく自分についてきた二歩。
「高橋って、私のこと知ろうとしてる感じじゃないんだよね」
「じゃあ何?」
葵自身にも、うまく説明できない。
けれど今日一日を思い返すと、その言葉しか浮かばなかった。
「……思い出そうとしてるみたい」
電話の向こうが少し静かになる。
「何それ」
「分かんない」
葵は笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「まだ知り合ったばっかりなのに」
蓮は自分のことを知りたがっている。
そう思えば、普通なら少し嬉しいはずだった。
けれど、ときどき違う。
彼が向けてくる目には、これから知りたい人を見る好奇心よりも、ようやく見つけたものを確かめるような懐かしさがある。
「時々さ」
「うん?」
「ずっと前から私を知ってるみたいな目するんだよね」
自分で言って、自分でも変な話だと思った。
だから笑おうとした。
でも、なぜかうまく笑えなかった。
まだ知り合ったばかりのはずなのに。
高橋蓮は、ときどき自分を見る。
初めて知る人を見るようにではなく、ずっと探していた人に、ようやくもう一度会えたような目で。




