第1話 君がいない部屋
午後十一時四十七分。
鍵を差し込み、玄関の扉を開けた。高橋蓮は明かりもつけずに靴を脱ぐ。左腕にはスーツの上着をかけ、ネクタイは少し緩めていた。
いつもと変わらない、仕事を終えて帰ってきただけの夜だった。
だからだろう。
「ただいま」
考えるより先に、言葉が出た。
返事はない。
二歩ほど進んだところで、蓮は足を止めた。玄関にある靴は一足だけ。それも、自分のものだった。
そこでようやく思い出す。
もう、この部屋には「おかえり」と返す人はいない。
壁のスイッチを押すと、白い光が部屋を満たした。
以前よりずっと片づいている。けれど、きれいになったというより、何かを途中まで消したあとのようだった。
テレビ台の横にあった収納棚はなくなり、ソファの右側には不自然なほど広い空間ができている。洗面台の歯ブラシは一本だけ。壁際には、家具を置いていた場所だけ色の薄い跡が残っていた。
水野葵がこの部屋を出ていって、七日が経っていた。
蓮はコンビニの袋をテーブルに置き、弁当と缶ビールを取り出した。その下にあったものを見て、手が止まる。
プリンが二つ入っていた。
期間限定のほうじ茶プリン。
なぜ二つ買ったのか、レジでは気づかなかった。
『これ、見つけたら絶対買ってね』
声だけが、あまりにも自然に蘇った。
いつだったか、葵がスマートフォンの画面を見せながら言った言葉だ。そのとき、自分がちゃんと返事をしたかどうかは覚えていない。
それなのに、そんな何でもない一言だけを、今になって鮮明に覚えている。
蓮はしばらく二つのプリンを眺め、一つを冷蔵庫に入れた。
中はずいぶん広くなっていた。以前なら飲み物や作り置きの容器で埋まっていた棚には、今は隙間のほうが多い。
上段の奥に、開封済みの柚子胡椒が残っていた。
葵が買ったものだった。
蓮は手を伸ばす。
捨てようとしたのか。ただ取り出そうとしただけなのか。
自分でもわからない。
指先が瓶に触れたところで止まり、そのまま手を引いた。
プリンだけを置き、冷蔵庫を閉めた。
翌朝、蓮はいつも通り会社へ行った。
会議に出て、電話を取り、メールを返す。後輩から渡された資料にも目を通した。
声も仕事の速さも、葵がいた頃と大きく変わってはいなかった。
昼休み、佐伯直人が向かいに座り、蓮の昼食を見て眉を上げた。
「またコンビニ?」
「楽だから」
「ふうん」
直人はそれ以上言わなかった。
しばらくして箸を置き、蓮の顔を見る。
「寝てる?」
「寝てる」
「何時間?」
答えようとして、蓮は止まった。
昨夜、何時に眠ったのか思い出せない。その前の日も、その前も。
「……知らない」
「そんな顔すんなよ」
蓮は弁当を見たまま言った。
「大丈夫だから」
直人は少し黙ってから、「……そう」とだけ答えた。
忘れろとも、元気を出せとも言わなかった。
それがありがたかった。
その夜、仕事帰りに寄ったスーパーで、蓮はいつもの深煎りのコーヒーを手に取った。
そのまま通り過ぎようとして、隣の棚に並ぶ小袋の砂糖が目に入る。
ふいに、昔の葵が浮かんだ。
喫茶店のテーブルで、コーヒーに砂糖を一つ入れる。それでも足りなかったのか、もう一つ。
『甘すぎない?』
そう言った蓮に、葵は顔を上げて笑った。
『蓮が苦すぎるの』
そこで記憶は途切れた。
蓮はスーパーの棚の前で、手にした黒いパッケージを見つめる。
「……昔は砂糖、入れてたな」
いつからだっただろう。
葵は、いつからコーヒーに砂糖を入れなくなったのだろう。
何年も一緒にいた。数えきれないほど向かい合ってコーヒーを飲んだ。
それなのに、その小さな変化がいつ起きたのか、どうしても思い出せない。
結局、蓮はいつもの深煎りだけを買った。
深夜、シャワーを浴びたあと、蓮は棚からコップを二つ出した。
一つに水を注ぎ、もう一つを置いたところで気づく。
空のコップを見つめ、黙って棚に戻した。
そのとき、テーブルのスマートフォンが光った。
ほとんど反射的に振り返る。
仕事のメールだった。
一瞬だけ胸に浮かんだ期待が、画面を見た途端に消えた。
メールを処理しても、蓮はスマートフォンを置かなかった。
LINEを開く。
何度も見返していたから、葵とのトーク画面はすぐに見つかった。
最後の会話は七日前だった。
『着いた。』
『そっか。』
『鍵、テーブルに置いてあるから。』
『うん。』
そして最後に、
『今までありがとう。』
その下には、何もない。
蓮は入力欄を押した。
『会いたい。』
数秒見つめて、消す。
『一回だけ話せない?』
それも消した。
もう一度、指を動かす。
『俺、まだ――』
そこで止まった。
まだ好きだ。まだ終わったと思えない。まだ帰ってきてほしい。
どれを書いても、自分が本当に言いたいこととは少し違う気がした。
結局、全部消した。
入力欄には何も残らなかった。
時計が午前一時十三分を示す頃になっても、蓮は眠れずにいた。
床に座ったそばには、一つの段ボール箱がある。
葵が荷物をまとめたあとにも、この部屋には、どちらのものなのか決められないものがいくつか残されていた。
映画の半券。水族館のチケット。骨の一本が折れた折り畳み傘。コンビニのくじでもらった小さなキーホルダー。
その中から、一枚の付箋が出てきた。
『牛乳ないよ。帰りにお願い。』
葵の字だった。
蓮はそれを見て、ふっと笑う。
「……何でこんなの残ってんだよ」
笑ったはずなのに、声の最後がうまく続かなかった。
箱の底には、一枚の写真があった。
まだ二人が知り合って間もない頃の写真だった。
葵も若い。自分も若い。
恋人になる前――互いのことを、ほとんど何も知らなかった頃。
写真の中で、葵は少しだけ身体をこちらへ傾けて笑っている。
「……若いな」
蓮は呟き、隣に写る自分を見る。
「俺も」
写真の中の二人は、これから何が起こるのか何も知らない。
付き合うことも、同じ部屋で暮らすことも。朝、どちらが先に起きるのかも、喧嘩のあと、どちらが先に謝るのかも。
いつか、この部屋から一人がいなくなることも。
「この頃は……」
蓮は写真の中の葵を見つめた。
「まだ、何も知らなかったな」
その言葉とともに、七日前の玄関が蘇った。
すべてではない。
ところどころ音の抜けた映像のように、記憶は途切れている。
閉じられたスーツケース。泣いたあとだとわかる葵の目。
『こんなに長く一緒にいたんだぞ。それを、こんな簡単に終わらせるの?』
『簡単じゃないよ』
『だったら何で?』
あのとき、胸の奥が熱かった。
本当は、怖かったのだと思う。
けれど蓮は、その恐怖を怒りとしてしか外に出せなかった。
『俺が悪かったなら直す。仕事だって、これからは――』
葵が首を振った。
『そういうことじゃない』
『じゃあ何なんだよ』
葵はすぐには答えなかった。
やがて、ひどく静かな声で言った。
『蓮は……ずっと私を見てるようで……』
『今そんな話じゃなくて――』
自分の声が重なった。
葵はまだ何かを言っていた。
けれど、思い出せない。
いや。
聞かなかったのかもしれない。
『俺は葵のことなら何でも知ってる』
その言葉だけは、はっきり覚えている。
葵は怒らなかった。ただ蓮を見ていた。
その目に浮かんでいたものが何だったのか、七日経った今でもわからない。
ただ、とても悲しそうだった。
記憶はそこで途切れた。
蓮は写真を見下ろした。
「何でも知ってたはずなのに」
声にした途端、自分でもおかしな言葉に聞こえた。
「何でだよ……」
写真の上に、小さな水滴が落ちた。
一瞬、それが何かわからなかった。
蓮は慌てて親指で拭う。
葵との時間が、順番もなく浮かんでは消えていく。
初めて二人で食事をした日。初めて手をつないだ夜。初めて一緒に旅行した朝。初めて同じ家へ帰った日。初めて本気で喧嘩をした夜。
『大丈夫』
『おかえり』
『また明日』
何度も聞いた声。
そして最後に残った、
『今までありがとう』
蓮は顔を伏せた。
「もし……」
自分の声が震えていた。
「もし、あの頃に戻れたら……」
そんなことができないのはわかっている。
だからこそ、言えた。
「一回でいいから」
写真の中の、まだ自分を何も知らない葵を見る。
「もう一回、会いたい」
それからどれほど時間が経ったのか、蓮にはわからなかった。
何日もまともに眠れていなかった身体が、ようやく限界を迎えていた。
ベッドの縁にもたれたまま、写真を握る手から少しずつ力が抜けていく。
いつの間にか、蓮は目を閉じていた。
部屋には、音らしい音がほとんどなかった。
冷蔵庫の低い作動音と、遠くを走る車の気配。
そのどちらも、やがて意識の外へ遠ざかっていった。
「……橋」
声がした。
ひどく遠いところから聞こえた気がした。
「高橋」
蓮は動かなかった。
「高橋ってば」
こつ、と硬い音がした。
もう一度。
今度は少し近い。
誰かが机を指先で叩いている。
蓮は眉を寄せ、ゆっくり目を開けた。
眩しかった。
白い光が視界いっぱいに広がり、しばらく何も見えない。
やがて焦点が合ってくる。
大きな窓から差し込む陽射し。目の前には開いた教材。隣には鞄と、見覚えはあるのに、長いあいだ触れた記憶のない古い携帯電話。
周囲からは話し声や本をめくる音が聞こえ、少し離れた場所では自動販売機が低く唸っている。
蓮はゆっくり身体を起こした。
さっきまで聞いていた冷蔵庫の音はない。
夜でもない。
目の前にあるのは、天井の低い自宅ではなく、陽射しの入る広い部屋だった。
知らない場所ではない。
けれど、今の自分がいるはずの場所でもなかった。
大学の学生休憩室。
どうして――。
そう思ったところで、机の横に立っている人を見た。
息が止まった。
水野葵だった。
けれど、七日前にスーツケースを引いて玄関を出ていった葵ではない。
髪が違う。服が違う。
何より、自分を見る目が違った。
長く一緒に暮らした人を見る目ではない。
まだ相手との距離を測っているような、少しだけ遠い目だった。
葵が眉を寄せる。
「やっと起きた。もうすぐ始まるよ」
蓮は答えられなかった。
「高橋?」
胸の奥で、何かが強く鳴った。
高橋。
葵が自分をそう呼ぶ声を、いつから聞かなくなったのだろう。
「え? どうしたの?」
蓮は首を振った。
名前を呼びそうになった。
葵、と。
けれど、その呼び方が今ここでは何かを壊してしまう気がして、唇の手前で止めた。
「……水野」
「何?」
たったそれだけだった。
何年も前なら、きっと何も感じなかったやり取り。
それなのに今は、目を逸らさなければ泣いてしまいそうだった。
「ほら、行くよ」
葵は教材を抱え、先に歩き出した。
蓮はまだ動けない。
ふと、机の上に置かれていた古い携帯電話の画面が光った。
4月17日。
表示されているのは、それだけだった。
年はない。
蓮は画面を見つめ、それから顔を上げた。
葵はもう数歩先まで歩いていた。
ついてこないことに気づき、振り返る。
「高橋?」
その向こうを、学生たちが行き交っている。
窓際の机。
古い携帯電話。
聞き覚えのある自動販売機の音。
そして、自分のことをまだ「高橋」と呼ぶ水野葵。
何が起きているのか、わからない。
夢なのか。
記憶なのか。
それとも、眠れていない頭が見せている何かなのか。
どれも現実味がなかった。
それでも、一つだけ。
あまりにも馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「……嘘だろ」
「何が?」
蓮は答えなかった。
古い携帯電話を手に取り、教材と鞄を抱えて立ち上がる。
待っている葵のほうへ歩いた。
けれど、隣には並ばなかった。
彼女の少し後ろを歩く。
ついさっきまでなら、隣を歩くことに理由など必要なかった。
今は、その距離さえわからない。
まだ自分は、彼女の隣に並んでいい人間なのか。
それすら、蓮にはわからなかった。




