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深夜の『魔の森』は、前世のOL時代、誰もいなくなったオフィスで一人残業をしている時の空気によく似ていた。
(あー……このヒリヒリする感じ。深夜三時にサーバーがダウンして、緊急メンテに駆り出された時の胃の痛みを思い出すわ)
私はゼクスの俊敏な肉体を駆使し、鬱蒼と生い茂る木々の枝を音もなく蹴って進んでいた。
目指すは、不自然な瘴気が漏れ出している森の最深……部?
本来のゲームシナリオであれば、この瘴気は『何者か』によって意図的に封印を解かれるはずだった。しかし、私の行動によって、フラグがバッキバキにねじ折れた結果、事態は一日前倒しで発生してしまったのだ。
(もしあのまま放置していたら、瘴気にあてられた魔物の大群がキャンプ地を襲撃して更地に。最悪の場合は誰かが怪我をする。元&現、中間管理職として、トラブルの火種はボヤのうちに消し止めるのが鉄則!)
十分ほど森を駆け抜けた先で、不意に視界が開けた。
そこは、古代の遺跡のような石柱が立ち並ぶ円形の広場だった。中央にはひび割れた巨大なクリスタルが鎮座しており、そこからドロドロとした紫色のガス――瘴気が、まるで壊れた水道管のように噴き出している。
そして、その周囲には瘴気を吸って巨大化・凶暴化した魔物たちが群がっていた。
三つ首の巨大な蛇、全身が岩で覆われた熊、そして中央には、樹齢千年を超えそうな大樹が禍々しい顔を浮かび上がらせた魔物など『瘴気のトレント』が根をうねらせている。
(うっ……か、完全に『深夜の障害対応』じゃないの)
私はため息をつき、腰の剣を静かに引き抜いた。
ゼクスの肉体は、無意識のうちに最適な構えをとる。だが、相手は数十匹の魔物と、かなり厄介な手練だ。魔法剣士であるゼクスのスペックをもってしても、無傷で制圧するのは難しいだろう。
(でも、やるしかない。あの三人が目覚める前に、水道の元栓を閉めなきゃ)
私が地面を蹴り、先制攻撃の魔法を放とうとした、その時だった。
「――殿下ッ!! お下がりください!!」
背後の茂みから弾かれたように飛び出してきた巨体が、私の前に立ちはだかった。
銀色の甲冑を月光に煌めかせ、長剣を構えたその男は――私の専属護衛騎士、ギデオンだった。
「ギデオン!? なんで君がここに……!」
「あなたが夜中にこっそり抜け出すからでしょう! また私に夜這いをかける気かと思いきや、こんな危険な場所に一人で……! あなたという人は、本当にどうしようもない馬鹿だ!」
ギデオンは肩で息をしながら、しかしその背中は一切の揺らぎなく、私を庇うように立ち塞がっている。
彼もまた、私を追って走ってきたせいで息が上がっている。
「グォォォォォォッ!!」
こちらの存在に気づいた魔物の群れが、一斉に襲いかかってきた。
「くっ……! 殿下、私の背後から離れないでください!」
ギデオンが剣を振りかぶり、先陣を切って迫ってきた三つ首の蛇を唐竹割りに両断する。しかし、多勢に無勢。岩熊の重い一撃がギデオンの側面に迫る。
「ギデオン、右だ!」
私は反射的に『氷結』の魔法を放ち、岩熊の動きを一時的に封じた。その隙にギデオンが剣を叩き込み、粉砕する。
「殿下……」
「助かったよ、ギデオン。……それにしても、どうして追いかけてきてくれたんだい?」
私が背中合わせになりながら尋ねると、ギデオンは悲痛な声で叫んだ。
「なぜ、あの方々(リヴィア・ユリウス・ミアリス)を置いて、一人でこんな死地に赴いたのですか!? あなたもしものことがあれば、王国は……いや、あの方々が悲しむでしょう!」
「……皆を、危険に晒したくなかったんだ」
私はOLとしての素直な本音を口にした。
「あの三人は、私の大切なチームメンバーだ。彼らに怪我をさせるわけにはいかない。それに、あの拠点でぐっすり眠っている彼らの平和な顔を、この程度のトラブルで壊したくなかったからね」
(まあ、本当は『私が逃げ出したら彼らに後で何をされるかわからないから』という保身と、『三人の監視から逃れて仕事をしたかったから』なんだけど)
しかし。
その言葉を聞いた瞬間、ギデオンの動きがピタッと止まった。
「……え?」
「ん? どうしたギデオン」
「今……なんとおっしゃいましたか? あの方々を、守るために……? 一人で、この瘴気の元栓を断ちに来たと……?」
ギデオンの脳内で、凄まじい勢いで『過去のゼクスの奇行』と『現在の状況』が結びつき、そして一つの【壮大な勘違い】へと昇華されていく音がした。
「――そうか! そういうことだったのか!」ギデオンは戦いの中、雷に打たれたような衝撃を受けていた「ゼクス殿下は、男色家の変態などではなかった。自らの命を削るような危険な運命に、愛する弟や婚約者、そして罪なき特待生を巻き込まないために。あえて嫌われ者のクズや変態を演じ、彼らを自分から遠ざけようとしていたのだ!そして今も、皆が安らかに眠れるよう、誰にも知られずたった一人で魔の森の脅威に立ち向かおうとしていた。なんて……なんて深く、気高い御方なんだ……! それに引き換え、私は殿下のことを単なるストーカーの変態だと誤解し、逃げ回ってばかりいた。私は……騎士失格だッ!」
「ギデオン? 何か言ってくれてたけど、斬りかかってて聞いてなかったよ。で、どうかしたのかい? 震えているけど」
「――殿下」
ギデオンが振り返った。その瞳には、かつてないほどの熱烈な忠誠心と、涙が溢れんばかりに輝いていた。
「このギデオン・バルバロス。一生、あなたにお仕えいたします!! あなたのその深く尊い自己犠牲の精神、私が必ずや支え、守り抜いてみせます!!」
「えっ、あ、うん。ありがとう?(自己犠牲? 残業代出ないからってこと?)」
「うおおおおおおおおッ!! 殿下の御前を退けぇぇぇ、化け物どもォォォ!!」
突如としてバーサーカーの如く覚醒したギデオンは、先ほどの怯えが嘘のように、凄まじい剣幕で魔物の群れに突撃していった。
(……攻略対象の『覚醒イベント』、こんなところで見れちゃった)
私は内心で拍手を送りながら、彼の後方支援に徹した。ギデオンの圧倒的な剣技と、ゼクスの身体能力による的確な魔法援護。二人の息は奇跡的なほどに合い、またたく間に広場の魔物たちは掃討されていった。
「残るはあの、お化け大樹だけだ! ギデオン、私が魔法で足止めする、その剣でコアを砕け!」
「はッ!!」
私はありったけの魔力を練り上げ、瘴気のトレントの根を完全に凍結させた。
その隙を突き、ギデオンが高く跳躍する。
「殿下の行く道を阻むなァァァッ!!」
渾身の力で振り下ろされた大剣が、トレントの強固な樹皮を割り、その奥にある魔石を見事に粉砕した。
断末魔の叫びと共に、巨大なトレントが光の粒子となって崩れ落ちる。
「……やった。終わったね」
広場に静寂が戻った。ひび割れていたクリスタルも、ボスの消滅と共に光を失い、瘴気の噴出は完全に止まった。
「はあ……っ、はあ……っ」
戦闘を終えたギデオンは、大剣を杖代わりにしてその場に膝をついた。極度の緊張と疲労で、全身が汗まみれだ。
私は彼に歩み寄り、胸元からハンカチ(ミアリスが洗ってくれたものとは別のもの)を取り出した。
「お疲れ様、ギデオン。見事な戦いぶりだった。君が来てくれなかったら、どうなっていたかわからない。本当にありがとう」
私は心からの感謝を込め、彼の手から剣を優しく受け取ると、その汗ばんだ額をハンカチで拭ってやった。
「で、殿下……勿体なきお言葉……。私こそ、あなたという真の主君に出会えたこと、誇りに思います……っ!」
ギデオンは感極まったように私の手を取り、その甲に騎士としての忠誠の口づけを落とした。
月明かりの下、汗だくの二人の男が見つめ合い、手を取り合う美しくも感動的な主従の絆。
――そう、ただの主従の絆である。
本来ならば。
「「「…………」」」
不意に、森の木々が凍りつくような、あるいは燃え尽きるような、尋常ではないプレッシャーが広場を包み込んだ。
私とギデオンがハッとして振り返る。
そこには。
氷の豪邸から飛び出してきたままの姿――ネグリジェとパジャマ姿の三人が、完全にハイライトの消えた瞳で、私たちを見下ろしていた。
「……夜中に抜け出したと思ったら。わたくしのゼクス様と、こんな森の奥で、汗まみれで手を取り合って……?」
リヴィアの周囲に、無数の鋭い氷柱が展開される。
「……兄上。あの毛布のダミー、素晴らしい出来でしたよ。ですが、私を出し抜いてまで、この泥棒騎士とハンティングをしたかったとは」
ユリウスの杖の先端で、紫電がバチバチと弾ける。
「……殿下。どうして……どうして私じゃなくて、わ、私だって、もっとがんばれば数匹の魔物くらい……っ!」
ミアリスの背後に、天使の輪のような極大の光魔法の陣が浮かび上がる。
(タイミング最悪ッッ!!)
魔物の死骸が散乱する中、服を乱し、汗だくで荒い息を吐きながら手を取り合う私とギデオン。
誰がどう見ても『深夜の人目を忍んだ情事(事後)』の構図だった。
先ほどの戦闘の痕跡など、嫉妬で完全に盲目になっている彼女たちの目には一切入っていない。
「ひぃぃぃぃぃぃっ!?」
ギデオンが、つい一分前までの勇ましい姿を完全に忘れ去り、胃を押さえて悲鳴を上げた。
「ち、違うんです! これは誤解で! 殿下と私はただの――」
「「「――死ね、泥棒猫(騎士)!!!」」」
夜の魔の森に、シャドウウルフやトレントの断末魔よりも恐ろしい、三つの極大魔法の炸裂音が轟き渡った。
「殿下、助けてぇぇぇ!!」
「待って皆! 話を聞いてちょうだい! ギデオンは恩人で……って、魔法の規模がおかしい! 避難してぇぇっ!」
卒業パーティーまで、あと七十九日ぐらい。
忠犬へと覚醒した私の推し騎士は、皮肉にもその忠誠心ゆえに、三人の『ガチ恋勢』から命を狙われる最重要ターゲットへと昇格してしまった。




