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シャドウウルフが細胞レベルで消滅してから数十分後。焦げたラズベリー臭がまだ鼻の奥に残っている。
私たちは、本来キャンプを張るはずだった『Dエリア』の中心部へと戻ってきていた。
「……さて。気を取り直して野営の準備をしよう。リヴィア、拠点の設営は……」
「はい、ゼクス様。すでに完璧に整えておりますわ」
リヴィアが優雅に扇を広げ、パチンと指を鳴らした。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
地響きと共に、木々が避けるように道を空け、そこから巨大な氷の塊が隆起してきた。
氷はみるみるうちに形を変え、精巧な彫刻が施された柱、美しいアーチを描く屋根、そして冷気を完全に遮断する二重構造の壁を持つ、二階建ての『氷の豪邸』が完成した。
「……」
「内部の温度調節は私にお任せを、兄上」
驚愕で声も出ない私の横で、ユリウスがドヤ顔でなぜか持っている杖を振るう。
豪邸の中に温かい風の魔法が循環し、氷でできているはずなのに、室内は春の陽だまりのようにポカポカとした適温に保たれた。異世界って便利ね(棒)。私の破滅フラグもパッと消してくれないかしら。
「あ、あのっ! 私、お水と寝床の準備は済ませましたっ!」
ミアリスが豪邸の入り口から顔を出し、エプロン姿でブンブンと手を振っている。中を覗き込むと、ふかふかの羽毛布団(無限ポケットから出したの?)が敷き詰められ、テーブルには煌びやかなランタンが灯っていた。
(……グランピング、という言葉すら生ぬるい。これはもう、大自然の中に突如出現した五つ星ホテルじゃない!)
「どうです、ゼクス様? これなら三日間の演習も、王宮と変わらぬ快適さでお過ごしいただけますわ」
「兄上が少しでも不快な思いをされないよう、結界も三重に張っておきました。魔物はおろか、虫一匹入れません」虫が入らないのは最高ね。
ドヤ顔の婚約者と弟。
私は前世で、会社の研修旅行で山奥のバンガローに泊まり、カメムシの襲来に怯えながら固い布団で寝た記憶を思い出し、少しだけ泣きそうになった。
魔法って、権力って、素晴らしC。
「すごいよ、皆。本当に。素晴らしいチームワークだ」
私が心からの賞賛を送ると、三人は「「「えへへ……(ふふっ……)」」」と頬を染めて照れた。
「でもね」
私はあえて、ここで厳しめの上司の顔を作った。
「ギデオンを置いて、私を追いかけてきたことだけは感心しない。もしあれがシャドウウルフではなく、もっと凶悪な魔物の群れだったら? 拠点を空けていたせいで、皆の荷物が奪われていたかもしれない。連携を乱すスタンドプレーは、今後控えるように」
(よし。これで『ちゃんと部下を叱れる頼れるリーダー』アピールも完璧!)
「「「はいっ……! 申し訳ありません、ゼクス様(兄上・殿下)!」」」
三人はシュンと落ち込んだが、その瞳には「叱ってくれるなんて、やっぱり私たちのことを真剣に考えてくれているんだ!」という、さらに深まった忠誠の光が宿っていた。
(好感度、また上がった?)
一方、そのやり取りから完全に蚊帳の外に置かれているギデオンは、氷の豪邸の隅っこで、体育座りをして乾パンをかじっていた。
「……私は一体、何のためにここにいるんでしょうか……。ただの荷物持ち……いや、それすら魔法で運べるし……。私は、粗大ゴミ……?」
推し騎士が、完全にアイデンティティを喪失しかけ、虚無の目をしている。
「ギ、ギデオン! 落ち込まないで! ほら、ミアリス嬢が温かいシチューを作ってくれたよ!」
私は慌てて彼に歩み寄り、ミアリスが携帯食料と森のハーブで作った絶品シチューを手渡した。
「殿下……」
「君は私の大切な専属護衛だ。何かあった時、私を一番近くで守ってくれるのは君だけだと信じているよ」
私が真摯な瞳で見つめながらそう囁くと、ギデオンの瞳にパァッと生気が戻った。
「で、殿下……っ! はい、このギデオン、必ずや殿下の盾となり――」
「ゼクス様。その騎士に構う必要はありませんわ。さあ、わたくしの特製ローストチキンをあーんして差し上げます」
「兄上、そんな男より私を見てください。シチューの温度はこれで適温ですか?」
「で、殿下! 食後のハーブティーをお淹れしましたっ!」
ガシッ!!
三人のヤンデレ&ブラコン&ガチ恋勢が、私の両腕と背中に同時に群がってきた。
「ひぃぃっ!?」
ギデオンはシチューの皿を抱えたまま、再び部屋の隅へと逃げ出していった。
(あああ! 私の癒やし枠が! 未来の夫が! ギデオン、戻ってきてー!)
私の悲痛な心の叫びも虚しく、その夜の夕食は、三方向からの過剰な『あーん』と『お世話』の波状攻撃により、何を食べたのか全く味がわからないまま終わってしまった。
────
そして野営演習における最大の難関、就寝の時間がやってきた。
氷の豪邸の一階には、リヴィアが土魔法と氷魔法で錬成した『超巨大なキングサイズのベッド』が、でん! と鎮座している。
「さあ、ゼクス様。夜の冷え込みは厳しいですから、わたくしが添い寝で温めて差し上げますわ♡」
リヴィアが制服から着替えた(どこに持っていたのか)色気たっぷりのネグリジェ姿で、ベッドの右半分を陣取った。良い生地ね。私も着てみたいかも。ああ、そうか、この体じゃ無理か……。
「公爵令嬢たる者がはしたない。兄上、私が左側で結界を張りながらお守りします。幼い頃のように、手をつないで寝ましょう」
ユリウスも、パジャマ姿でベッドの左半分に潜り込む。
「あ、あの……っ。わ、私は、殿下の足元で丸くなって寝ますので……っ! 犬だと思ってくだされば……っ!」
ミアリスまでもが、顔を真っ赤にしながらベッドの足元に正座している。
(いやいやいや! ヒロインを足元に寝かせるとか、どんな鬼畜の所業!? ていうか、なんで一つのベッドで寝る前提になってるの!? おかしいでしょ!)
このままでは、婚約者と弟とヒロインに囲まれて寝るという、前代未聞のスキャンダル(あるいは猟奇殺人事件)が起きてしまう。
私は最後の希望を求めて、部屋の隅でマントにくるまって寝ようとしている男に声をかけた。
「ギ、ギデオン! 私は男色家だからね! 君と一緒に寝ないと安眠できないんだ! さあ、こっちへ来て私を抱きしめておくれ!」
これだ。
この言い訳なら、彼らも「男好きの変態王子」に愛想を尽かしてくれるはず!
しかし。
「――ッッ!!!」
ギデオンが顔を上げるより早く、ベッドの上の三人から、部屋の温度が絶対零度になるほどの殺気が放たれた。
『……あの騎士。明日、森の奥深くで事故死してもらいましょうか』
『……兄上を惑わす元凶。私の雷で、骨の髄まで炭化させてやる』
『……殿下をたぶらかすなんて、許せない……!』
「うわぁぁぁん!! 殿下、絶対に私に近づかないでください!! 殺されるぅぅぅ!!」
ギデオンはマントを被ったまま、巨大な毛虫のような動きで部屋の隅へとさらに後退していった。
(ダメだ、ギデオンの命が持たない!)
「わ、わかった! 今日は私一人で寝る! 皆は別の部屋で休んでくれ!」
私が必死に提案するも、
「「「絶対に嫌です(嫌だ)」」」
と、見事なハモりで即答された。
結局、妥協に妥協を重ねた結果。
『キングサイズベッドの中央に私が寝て、三人がその周囲にベッドを並べて横になり、朝まで私の寝顔を監視する』という、狂気に満ちたオカルト儀式のような配置で落ち着いてしまった。
(……寝られるわけないでしょ、これ。私、これから解体されるの?)
深夜。
規則正しい寝息を立てるふりをしながら、私は薄目で周囲を窺った。
ベッドの右側ではリヴィアがうっとりとした顔で私を見つめ、左側ではユリウスが瞬きすら忘れたように私の顔を凝視し、足元ではミアリスが「殿下、尊い……」と呟きながら拝んでいる。
前世で、動物園のキリンになった夢を見たことがあるが、今の状況はまさにそれだ。ただし、観客全員が私にガチ恋しているという地獄のキリンである。
(胃薬……ゼクスのカバンの中に胃薬のポーションとか入ってないかな……)
その時だった。
ピリッ。
肌を刺すような、嫌な感覚が背筋を駆け抜けた。
ゼクスの肉体に刻まれた『魔力感知』の能力が、森の奥深くから漂ってくる異質な気配を捉えたのだ。
(……何、これ? 普通の魔物じゃない。もっとどす黒くて、粘り気のある……)
私の脳裏に、乙女ゲーム『王立魔法学園の恋人たち』のシナリオがフラッシュバックした。
『魔の森での野営演習・二日目の夜』。
森の深部に封印されていた【古代の瘴気】が何者かの手によって解き放たれ、凶暴化した魔物の大群がキャンプ地を襲撃するイベント。
本来なら、ここで恐怖に駆られたゼクスがヒロインを突き飛ばして囮にし、自分だけ安全に逃げ出すという外道イベント。それを攻略対象であるユリウスたちが助けることで、恋のフラグが決定的に立つという重要な局面だ。
(待って。シナリオだと発生は『二日目』のはず。なのに、なんで一日目の夜に瘴気が漏れ出してるの!?)
嫌な予感がする。
私がこれまでのイベントを片っ端から粉砕してきたせいで、ゲームの『強制力(シナリオ補正)』が、無理やりイベントを前倒しで発生させようとしているのではないか。
(このままじゃ、ここにいる全員が危険に晒される……!)
本来のゼクスなら逃げ出すところだが、今の私にはそれができない。
ポンコツとはいえ、ギデオンやユリウス、リヴィア、ミアリスを見捨てることなんて、一人の社会人として(あと、保身のためにも)絶対に許されない。
「……少し、様子を見てくるか」
私は周囲の三人に気づかれないよう、音もなくベッドから芋虫のように抜け出した。
三人は私の寝顔を監視するのに夢中で疲れ果ててしまったのか、或いは……ある種のトランス状態に入っており、私が身代わりとしてベッドの中に丸めた毛布をモフッと膨らませたことすら気づいていないのかもしれない。
私は静かに氷の豪邸の裏口を抜け、冷たい夜風の吹く魔の森へと足を踏み入れた。
瘴気の発生源を特定し、魔物が大群化する前に元栓をキュッと閉める。そうすれば、誰にも知られずにこのピンチを乗り切れるはずだ。
漆黒の闇の中、ゼクスの優れた身体能力を頼りに進んでいく。
───
だが、その時の芋虫になりきっていた私は気づいていなかった。
氷の豪邸の隅で、マントにくるまって震えていたはずの専属護衛騎士が、私の気配が消えたことにいち早く気づき、剣を手に静かに後を追ってきていたことに。
「……殿下。こんな夜更けに一人で、一体どこへ……?」
ギデオンの呟きは、不気味に揺れる森の闇の中へと静かに溶けていった。




