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午後の授業は、騎士科と魔法科の合同による「実技演習」だった。
広大な屋外訓練場には、動きやすい戦闘用の制服に着替えた生徒たちが集まっている。
私もゼクスの肉体に合わせた漆黒の訓練着に身を包んでいたが、これがまた恐ろしく似合っていた。
(うーん、無駄のない筋肉。この胸板の厚みといい、腹筋の割れ具合といい、ゼクスのやつ、性格はクズでも鍛錬だけは真面目にやってたのね)
自分の身体ながら惚れ惚れとしてしまう。ふと視線を感じて振り返ると、訓練場の隅にある太い柱の陰から、私の専属護衛騎士であるギデオンが、獲物を警戒する野生動物のような鋭い目つきでこちらを監視していた。
相変わらず私から半径十メートル以内には絶対に近づこうとしない。徹底している。
(まあいいわ。今はギデオンをからかっている場合じゃない)
問題は、この実技演習の場に「彼ら」がいることだ。
本来のシナリオにおいて、ヒロインであるミアリスと結ばれ、私を破滅の淵へと追いやる攻略対象たち。
その筆頭とも言える人物が、今、周囲の空気を凍らせながら私に向かって真っ直ぐに歩いてきていた。
「……兄上。少しよろしいですか」
声変わりを終えたばかりの、少し高めの声。
振り返ると、そこには私と同じプラチナブロンドの髪を揺らす、一人の美しい少年が立っていた。年齢は私より一つ下。しかし、その知性と魔力はすでに私を凌駕していると噂される天才児。
ランストレイル王国第二王子、ユリウス・ヴァンドル・ランストレイル。
(出た! メインヒーローのユリウス! 完璧超人で、傲慢な兄を心底軽蔑している正義感の塊みたいな弟!)
ユリウスの切れ長のアメジストの瞳には、隠しきれない私への嫌悪と、静かな怒りが燃えていた。
周囲の生徒たちが、第一王子と第二王子の接触に息を呑み、サッと道を開ける。誰もが「またゼクス殿下がユリウス殿下に難癖をつけるのでは」とハラハラしているのがわかった。
「どうしたんだい、ユリウス。そんな怖い顔をして」
私はあくまで穏やかに、余裕のある兄の笑みを浮かべてみせた。
するとユリウスは、ギリッと奥歯を噛み締め、低い声で言い放った。
「しらばっくれるおつもりですか。……今朝、あなたが図書室で、特待生のミアリス嬢に接触したと聞きました。昨日も彼女に絡んでいたそうですね」
(情報回るの早っ! というか、学園内にユリウスの隠密でもいるの!?)
「兄上が普段、取り巻きを引き連れて弱者をいたぶっていることは知っています。ですが、ミアリス嬢は優秀な光輝魔法の使い手であり、国の宝だ。あなたのくだらない鬱憤晴らしの道具にされては困る」
ユリウスの言葉には、正論しかない。
本来のゼクスなら、ここで「生意気な弟め!」と逆上し、手袋を投げつけて決闘を申し込むところだろう。そして実弟すら完膚なきまでに叩きのめし、さらに株を下げるのだ。
しかし、私はOL結城奏である。
激怒する取引先や、理不尽な要求を突きつけてくる上司のクレーム対応など、腐るほど経験してきた。相手が怒りに震えている時、最もやってはいけないのは「反発」と「言い訳」だ。
「誤解させてしまってすまない、ユリウス。だが、安心してくれ。私は彼女をいじめたりはしない。むしろ、彼女の類まれなる才能を評価し、これからは手助けをしようと決めたんだ」
「……いまなんと?」
ユリウスが、予想外の返答にポカンと口を開けた。
「昨日の一件も、私の取り巻きが彼女に無礼を働いたことを謝罪していただけだ。君が彼女を心配する気持ちは素晴らしいと思うよ。立派な心がけだ」
私は「優秀な後輩を褒める先輩」のトーンで、優しく微笑んだ。
しかし、それが逆にユリウスのプライドを逆撫でしたらしい。彼の顔がみるみるうちに怒りで赤く染まっていく。
「適当な嘘で私を誤魔化せると思わないでください! あなたが心を入れ替えるなど、悪魔が良心に目覚めるぐらいあり得ない! どうせ、彼女を自分の派閥に引き込んで、私への牽制に使うつもりなのでしょう!」
(深読みしすぎィ! 政治的な陰謀なんて一切考えてないよ!)
「兄上、実技演習の最中です。私と手合わせを願います」
ユリウスはそう言うと、近くにあった木剣のラックから二本の剣を引き抜き、その一本を私に向かって容赦なく投げつけた。
ヒュンッ! と風を切って飛んできた木剣を、私の身体――ゼクスの肉体――は、無意識のうちに見事な反射神経でパシッと受け止めた。
「手加減は無用です。私が勝てば、今後一切ミアリス嬢には近づかないと約束していただきます」
ユリウスが木剣の切っ先を私に突きつけ、殺気立った目を向けてくる。
周囲の生徒たちが「ついに兄弟対決か!」とどよめき始めた。
(ちょっと待って! 私、剣道なんて体育の授業で数回見たレベルなんですけど!?)
脳内ではパニック警報が鳴り響いているが、周囲の手前、逃げ出すわけにもいかない。
「……わかった。君がそこまで言うなら、相手になろう」
私はゆっくりと木剣を構えた。その瞬間、ゼクスの筋肉に刻み込まれた記憶が、最適なスタンスと重心の取り方を教えてくれた。
(おおっ、なんか構えだけはプロっぽい! いけるかも!)
「行きます!」
ユリウスが地面を蹴り、目にも留まらぬ速さで踏み込んできた。
鋭い踏み込みから放たれる、右上段からの強烈な振り下ろし。
「っ!」
私は咄嗟に木剣を斜めに構え、ユリウスの剣の軌道を逸らした。ガァンッ! と重い木のぶつかる音が響き、私の腕にビリビリと痺れが走る。
(重っ!? これ本当に木剣!? 高校生の弟の筋力じゃないでしょ!)
ユリウスは体勢を崩すことなく、即座に次の連撃を放ってくる。突き、薙ぎ払い、袈裟懸け。その一つ一つが急所を狙った洗練された剣技だ。
しかし、ゼクスの肉体は不思議とそれらに反応した。攻撃に転じることはできないが、防御と回避に関してはオートモードのように身体が動く。
私は必死にユリウスの攻撃を捌きながら、OL時代の処世術をフル稼働させた。
(ここは適度に相手を立てて、気持ちよく勝たせてあげるのが一番丸く収まるはず!)
「素晴らしい踏み込みだ、ユリウス! 以前よりずっと体幹がしっかりしている!」
「なっ……!?」
カキンッ! と木剣が交差するたびに、私は大きな声で彼を褒め称えた。
「その太刀筋、無駄がなくて美しい! 日々の鍛錬の賜物だね!」
「ふざけるな! なぜ反撃しない!?」
「手首の返しも完璧だ! いやあ、兄として鼻が高いよ!」
「うるさいっ、真面目に戦え!!」
ユリウスは完全にペースを乱されていた。怒りで大振りになったところを、私はクルリと華麗なステップで躱す。
そして、彼が大きく体勢を崩したその瞬間――私は持っていた木剣を、ポイッと地面に放り投げた。
カラン、と乾いた音が訓練場に響く。
「……え?」
振り被った剣を止めたユリウスが、呆然と私を見た。
私は両手を軽く挙げ、降参のポーズをとって見せた。
「参った。私の負けだ、ユリウス」
「……はぁ、はぁ、なんだと!?」
「君の剣撃は重く、そして速かった。これ以上打ち合っても、私の分が悪い。君の成長ぶり、見事だったよ」
私はニコリと笑い、ポカンとしているユリウスに歩み寄った。そして、その華奢だがしっかりとした肩を、ポンと叩いた。
「君がそこまで言うなら、私はミアリス嬢に無用な接触はしないと約束しよう。……君が彼女を守ってあげるといい。君なら、立派な友人になれる」
そう言って背中を向けると、訓練場は水を打ったような静寂に包まれていた。
生徒たちは皆、信じられないものを見るような目をしている。
『あのプライドの塊であるゼクス殿下が、弟に自ら負けを認め、しかも弟の成長を心から喜んでいる……!?』
という驚愕の空気が、場を支配していた。
(よし! これでユリウスとの和解も完了! ミアリスにも近づかない約束をしたから、ヒロインとヒーローが結ばれるフラグもばっちり守ったわ!)
私は自分の完璧な立ち回りに内心でガッツポーズを決めながら、訓練場の隅で石化しているギデオンの方へ歩いていった。
「どうだい、ギデオン。私の華麗な負けっぷりは」
「……殿下。あなた、本当に……誰ですか……?」
ギデオンは本気で私の正体を疑い始めているようだ。その怯えた目すら愛おしい。
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だが私は気づいていなかった。
背後に残されたユリウスが、地に落ちた私の木剣を見つめながら、ワナワナと肩を震わせていることに。
「……わざとだ」
ユリウスが、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
「兄上は、僕の攻撃をすべて見切っていた。その上で、一度も反撃せず、僕の太刀筋の癖を的確に指摘した……。僕に、指導をつけていたというのか……?」
ユリウスの顔が、怒りとは違う熱で真っ赤に染まっていく。
「あんなに優しく、僕の成長を認めてくださるなんて……。兄上は、僕が幼い頃に憧れていた、あの頃の優しい兄上に戻られたのか……?」
彼の視線の先で、私とギデオンが(私が一方的に迫り、ギデオンが必死に逃げるという形で)戯れている。
「……ダメだ。兄上は今、心を入れ替え、僕という弟と向き合ってくださった。……あのような無骨な近衛騎士に、兄上の隣を歩かせるわけにはいかない」
ユリウスの瞳に、重く、どす黒い『ブラコン』の炎が宿った瞬間だった。
さらに、訓練場のギャラリーの中には、別の不穏な影があった。
「……っ、ゼクス殿下……!」
私の「ミアリス嬢には無用な接触はしない」という言葉を聞いてしまった特待生のミアリスが、両手で顔を覆って涙ぐんでいる。
「私のために……他の生徒の反感を買わないように、あえて身を引いてくださったのね……っ。なんてお優しく、悲しい決断……! 私、絶対に殿下の本当の優しさを皆に証明してみせます……!」
完全に悲劇のヒロイン(勘違い)のスイッチが入ってしまっていた。
そしてもう一人勘違いが。
「ユリウス殿下相手に、見事な立ち回りですわ、ゼクス様。弟の面子を潰さず、自ら身を引くあの成熟した精神……やはり、わたくしがそばで支えねばなりませんわね」
銀髪の氷の令嬢、リヴィア・エル・カスティナが、うっとりとしたため息を漏らしながら、私の一挙手一投足を熱烈な眼差しで観察していた。
何も知らない私は、ギデオンに「大胸筋を触らせてくれ」と迫りながら、今日も平和にフラグを折った気でいた。
卒業パーティーまで、あと八十八日。
ヤンデレ婚約者、ガチ恋ヒロイン、激重ブラコン弟に包囲されていることに、哀れな偽物王子の私が気づくのは、もう少し先の話である。




