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翌朝。
目覚めると同時に、私はこのゼクスという肉体の恐るべきポテンシャルに改めて感動していた。
(すごい……! 昨日の夜、あれだけ色々あって気疲れしたのに、一晩寝ただけで肩こりも腰痛も完全に消え去っている!)
前世の結城奏時代なら、ストレスの溜まった翌日は決まって首が回らなくなり、胃もたれで朝食のトーストすら喉を通らなかったというのに。若く鍛え上げられた青年の肉体は、文字通り一晩で全回復を果たしていた。おまけに肌はツヤツヤ、寝起きから息すら爽やかである。
「お、おはようございます、殿下。……お召し物の準備が整っております」
部屋の隅から、ひどく強張った声がした。
見ると、私の専属護衛騎士であるギデオンが、壁に背中を張り付けるようにして立っていた。彼と私の距離は、ゆうに五メートルは離れている。しかも、その手はいつでも腰の剣を抜けるように柄に添えられていた。
「おはよう、ギデオン。朝から随分と警戒しているね。私の寝込みを襲う刺客でもいるのかい?」
「……殿下ご自身が最大の脅威です。お願いですから、私から半径三メートル以内に近づかないでください。これは騎士としての切実な、そして絶対の願いです」
(完全に警戒されてる。まあ昨日『大胸筋が愛おしい』なんて爆弾発言したんだから無理もないか)
私は内心でクスクスと笑いながら、使用人たちに着替えを手伝わせた。
今日から再び王立魔法学園への登校が始まる。卒業パーティーまで残り三ヶ月。この学園生活こそが、数々の破滅フラグが乱立する主戦場なのだ。
ビシッとアイロンの当てられたような、深い群青色を基調とした学園の制服に袖を通す。金糸の装飾が施されたそれはゼクスの長身と広い肩幅に恐ろしいほどよく似合っていた。鏡の前で軽く髪をかき上げると、我ながら惚れ惚れするような悪役顔のイケメンがこちらを見つめ返してくる。
(よし。顔面偏差値はカンストしてる。あとは中身でボロを出さず、愛想よく、誰の恨みも買わずにフェードアウトするだけ!)
私は気合いを入れ直し、五メートル後方からついてくるギデオンを引き連れて、学園へ向かう馬車へと乗り込んだ。
「……ギデオン。君、そんな端っこに座っていたら馬車のバランスが崩れるよ。もっと中央においで」
「け、結構です!!! 私はここで! このドアの隙間から外の安全を確認する重要な任務がありますので!!」
ガタゴトと揺れる豪奢な馬車の中で、ギデオンは座席の端にへばりつき、顔を真っ赤にして窓の外を凝視していた。
その横顔を見つめながら、私は密かにため息をついた。
(からかうのは楽しいけど、あまり怖がらせるのも可哀想ね。私の目的はあくまで『リヴィア様からの円満な婚約破棄』を引き出すためのカモフラージュなんだから)
そう。私が男色家のふりをしているのは、あくまでプライドの高いリヴィアに「こんな変態王子、こっちから願い下げですわ!」と言わせるためなのだ。決して、ギデオンの初心な反応が面白くていじめているわけではない……はずだ。
やがて馬車は、王都の中心にそびえ立つ王立魔法学園の正門をくぐった。
白亜の校舎と、美しく整備された広大な庭園。貴族の令息や令嬢たちが、色とりどりの制服に身を包んで談笑しながら歩いている。
馬車が停まり、ギデオンが(ものすごく及び腰で)扉を開けた。
私がふわりと身を翻して馬車から降り立った瞬間――。
「「「…………っ!!」」」
周囲にいた数十人の生徒たちが、一斉に息を呑み、さーっと血の気を引かせて道を空けた。
右に十メートル、左に十メートル。見事なまでに人がいなくなり、私の目の前には校舎へと続く真っ直ぐな道が広がっている。
(うわぁ……見事なモーセの十戒状態。今までゼクスがどれだけ周囲から恐れられ、嫌われていたかがよくわかるわね)
前世で、機嫌の悪いお局様がオフィスに出社してきた時の空気にそっくりだ。誰も目を合わせようとせず、息を殺して嵐が過ぎ去るのを待っている。
しかし、ここでかつてのゼクスのように「平民どもが、道を空けるのが遅い!」などと怒鳴り散らしてはいけない。私は平和主義の元OLなのだ。
私は背筋を伸ばし、顔に『営業スマイル・プロトコル』を展開した。
「おはよう、皆。今日も良い天気だね。勉学に励むには素晴らしい日だ」
爽やかなバリトンボイスでそう告げ、周囲の生徒たちに軽く右手を挙げて微笑みかけた。
「…………え?」
「は?」
「……で、殿下が、微笑まれた……?」
「おはようと、仰った……? 我々のような下級貴族に……?」
生徒たちの間に、恐怖とは違う、得体の知れないものを見たような大混乱が巻き起こった。無理もない。狂犬がいきなり全力で尻尾を振って挨拶してきたようなものなのだから。
「さあ、行こうかギデオン。遅刻しては教師方に申し訳ないからね」
「……殿下。本当に、頭の病院へ行かれた方がよろしいのでは……?」
ドン引きしているギデオンを引き連れ、私は涼しい顔で校舎へと歩みを進めた。
「ゼクス様っ!」
昇降口に足を踏み入れた瞬間、甘ったるい、しかしどこか凄みのある声が響いた。
声の主を見て、私は思わずギョッと立ち止まった。
そこに立っていたのは、私の婚約者であるリヴィア・エル・カスティナだった。
しかし、彼女の様子が昨日までとは決定的に違う。
いつもは隙のないまとめ髪にしていた銀髪を、今日はふんわりと緩いウェーブに巻いて下ろしている。ガチガチに固められていたコルセットも幾分か緩められ、その代わりに胸元のラインが美しく強調されたデザインの制服を着こなしていた。
さらに驚くべきは、彼女のメイクだ。氷のように冷たかった印象を払拭するように、目元にはほんのりと桜色のシャドウが入り、唇には昨日の私が「似合う」と絶賛したリップが、より艶やかに塗られていた。
(うーん、上手……! じゃなくて、どういうこと!?)
「おはようございます、ゼクス様。今日も一段と凛々しいお姿ですわね」
リヴィアはツカツカと私の元へ歩み寄ると、有無を言わさぬ勢いで私の左腕に自分の腕を絡ませてきた。
その豊かな胸の感触が腕に伝わり、中身が女の私でも、体が勝手に反応してドギマギしてしまう。
「り、リヴィア? その、今日は随分と雰囲気が違うね……」
「ウフフ、そうですか? 殿下が『少し緩めた方がいい』と仰ってくださったので、少しだけ流行を取り入れてみましたの。……お気に召しませんか?」
上目遣いで尋ねてくる彼女の瞳には、一切の躊躇がない。
それどころか、彼女の視線は私の腕に絡みつきながら、私の背後に立つギデオンを鋭く射抜いていた。
『どうです? わたくしの殿下ですわよ。泥棒猫の出る幕はありませんわ』
という、女特有の強烈なマウントの視線である。
対するギデオンは、リヴィアの視線の意味を全く理解していない様子で、「なぜ私は公爵令嬢からあんなに睨まれているのだ?」と本気で怯えた顔をしていた。
(待って、これ最悪のパターンじゃない!?)
私は冷や汗をかきながら必死に脳をフル回転させた。
私が男色家を装ったことで、リヴィアのプライドに火をつけてしまったのだ。「自分という完璧な女がいながら、男にうつつを抜かすなんて許せない。絶対に私に振り向かせてみせる」という、謎の闘争心に火がついてしまったらしい。
「あ、いや、とても似合っているよ。美しい。……けど、廊下でそんなにくっついていると、他の生徒の目が……」
「構いませんわ。わたくしたちは公式の婚約者ですもの。さあ、教室までご一緒しましょう、ゼ・ク・ス・様♡」
完全にロックオンされている。
私は、学園中の生徒たちが「氷の令嬢がデレた!?」と驚愕の表情で見つめる中、リヴィアに腕をホールドされたまま教室へと連行されていった。
午前の授業は、正直に言ってさっぱりわからなかった。
座学の歴史や魔法理論は、ゼクスの記憶のおかげでギリギリ単語の意味は理解できるものの、私自身の頭に入ってくるかというと、それは別の話だ。とりあえず、真面目にノートをとるふりをして時間をやり過ごすことにした。
そして待ちに待った昼休み。
リヴィアが「お昼をご一緒に」と迫ってくるのを、「ごめん、今日は図書室で調べ物をしたくて」と丁重に(かつ必死に)断り、私は逃げるように教室を飛び出した。
ギデオンには「図書室の前で待機。中には絶対に入らないこと」と厳命し、ようやく一人きりの静寂な空間を手に入れた。
(はあ……疲れた。イケメン王子も楽じゃないわね)
図書室の奥、人気の少ない魔法史の書架の影で、私は大きく背伸びをした。
とりあえず婚約破棄イベントの回避から始めようと思ったのに、まさか婚約者がヤンデレ気味に執着してくるとは誤算だったわ。これでは「円満に婚約解消して慰謝料を払う」という計画が根底から崩れてしまう。
「あの……っ、ゼクス、殿下……」
不意に、背後から蚊の鳴くような小さな声がした。
振り返ると、そこには昨日の庭園で私がいじめる(はずだった)特待生、ミアリス・ノアが立っていた。
彼女の金色の髪は光を浴びてキラキラと輝き、大きな碧眼にはおどおどとした不安の色が浮かんでいる。手には、きれいに折り畳まれた白い布が握られていた。
「……ミアリス嬢。どうかしたのかな?」
私が努めて優しく、穏やかな声で尋ねると、彼女はビクッと肩を震わせた後、意を決したようにその白い布を両手で差し出してきた。
「こ、これ……っ! 昨日の、ハンカチです! その、泥で汚してしまったので、私が洗って、アイロンを、かけました……っ。お返し、します!」
アイロン、あるの?
差し出されたのは、昨日私が彼女の手の泥を拭った絹のハンカチだった。
(あら、わざわざ自分で洗ってくれたの? 特待生で寮暮らしだろうから、自分で洗濯するのも大変だろうに)
OL的な思考が働き、私はすっかり彼女を「健気で頑張り屋な後輩」を見る目になっていた。
私はハンカチを受け取ると、その丁寧な仕上がりに感心して微笑んだ。
「ありがとう。とても綺麗に洗ってくれたんだね。アイロンのかけ方も完璧だ。君は本当に手先が器用で、丁寧な仕事をするね」
「え……っ」
「特待生としてこの学園に通うのは、周りが貴族ばかりで苦労も多いだろう。昨日みたいな理不尽な目に遭うこともあるかもしれない。でも、君のその真面目さと優しさは、きっと誰かが見ているよ」
私は、前世で新入社員を励ます時によく使っていた「上司としての完璧なフォロー」を無意識に発動していた。
頭をポンポンと撫でてあげたい衝動に駆られたが、相手は年頃の女の子だ。流石にそれはセクハラになると思いとどまり、代わりに彼女としっかり目を合わせて、この上なく優しい微笑みを向けた。
「もしまた、私の取り巻きや他の貴族が君に嫌がらせをするようなことがあれば、遠慮なく私に言いなさい。私が責任を持って、君を守るから」
ドキン、と。
静寂な図書室の中で、ミアリスの心臓が大きく跳ねる音が聞こえたような気がした。
彼女の顔が、昨日の比ではないほど真っ赤に染まっていく。碧眼にはみるみるうちに涙が溜まり、彼女はギュッと両手を胸の前で握りしめた。
「で、殿下は……っ、本当は、すごく、お優しい方だったんですね……っ!」
「え? いや、優しいというか、人間として当たり前の……」
「私、殿下のことをずっと怖い人だと思ってました! でも、違った! 殿下は誰よりもお優しくて、素敵な方です……っ!」
ミアリスは泣き笑いのような表情でそう叫ぶと、「失礼します!」とペコリと深く頭を下げ、またしても脱兎のごとく走り去ってしまった。
取り残された私は、手の中のハンカチを見つめながら、ポカンと立ち尽くしていた。
(……ん? ちょっと待って)
私の脳内で、再びオタクとしての危険信号が鳴り響いた。
本来の乙女ゲームのシナリオにおいて、ヒロイン(ミアリス)が攻略対象に惹かれる最大の理由は「身分違いのいじめから助けてもらったこと」である。
昨日、私は彼女をいじめるフラグを折った。
しかし今日、私は彼女を優しく励まし、「私が君を守る」と宣言してしまった。
(これって……私が攻略対象のイベントを横取りして、ヒロインの好感度を爆上げしちゃったってこと!?)
背筋に冷たい汗が流れる。
もし、ヒロインであるミアリスが私に手遅れな好意を抱いてしまったらどうなる?
本来彼女と結ばれるはずだった攻略対象たち――優秀な弟王子や、隣国の留学生、若き天才魔法使い――彼らの『恋敵』が、私になってしまうのではないか。
彼らは皆、本来のシナリオで私を断罪するメンバーだ。
(ヤバいヤバいヤバい!! 『ざまぁ』フラグを折ったつもりが、今度は『ヒロインを巡る恋のライバルとして攻略対象たちからガチで暗殺されるフラグ』が立っちゃったじゃない!!)
図書室の暗がりの中で、私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
ヤンデレ化して私を逃がさないつもりの婚約者リヴィア。
私に助けられて完全に恋に落ちたヒロインのミアリス。
そして、私から貞操の危機を感じて怯える推し騎士ギデオン。
「どうしてこうなったのよ……っ!」
中身が女の偽物王子の私の悲痛な叫びは、図書室の静寂の中に虚しく吸い込まれていった。
卒業パーティーまで、あと八十九日。
私の平穏なスローライフへの道のりは、あまりにも遠く険しい。




