16
学園祭での『伝説のジャンピング土下座』から数週間。
私の異名は、学園内にとどまらず、ついに海を越えて他国にまで届き始めていた。
「ゼクス殿下。隣国の平和使節団から、ぜひ殿下の『無血開城の哲学』についてご高説を賜りたいと、講演の依頼が三件届いております」
「……全部断って。体調不良ってことで」
「承知いたしました。……『真の平和とは言葉で語るものではなく、背中で語るもの』。そう使節団に伝えておきます。さすがは殿下、深いですね」
「言ってない。そんなこと一言も言ってないよシリル」
インスペクター室のデスクで、私はもはや主食となりつつあるミアリス特製の胃薬(今回はブルーベリー味)をかじっていた。
学園祭の一件以来、六人の親衛隊(狂信者)たちの私への崇拝は、留まるところを知らない。私がくしゃみをすれば「風の精霊との対話ですか!」と拍手され、ペンを落とせば「重力という絶対法則への反逆ですね!」とメモをとられる。ここはもう、ゼクス教の総本山だ。
しかし、私にはまだ『スローライフへの逃走路』が残されている。
乙女ゲームにおける終盤の山場――『期末試験』だ。
王立魔法学園の期末試験は、生徒の身分を問わず厳格に成績がつけられる。ここで赤点(落第点)を取れば、いかなる理由があろうとも補習地獄に叩き込まれ、次期国王候補としての体面は丸潰れとなる。
さらに、インスペクターという「生徒を律する立場」でありながら学年最下位を取れば、さすがのシリルたちも「殿下はただのバカでした」と愛想を尽かすに違いない。
(ふふふ……この期末試験こそが、私の王位継承権を手放すラストチャンスだ!)
私は試験前夜、親衛隊たちが差し入れてくれた『魔力向上ドリンク』や『試験対策の完璧なまとめノート』をすべて窓から投げ捨て(後でユリウスが回収して家宝にしたらしい)、完璧な睡眠をとって試験当日に臨んだ。
────
試験の科目は「魔法理論」「歴史学」「政治学」の三つ。
私は席に着くなり、答案用紙に『ゼクス・ヴァンドル・ランストレイル』と名前だけを書き、そのまま机に突っ伏して大いびきをかき始めた。
周囲の生徒たちが「ひぃっ!?」と息を呑む気配がした。
「で、殿下が開始一分でペンを置いたぞ……!?」
「まさか、一瞬ですべての解答を頭の中で構築し終えたのか!?」
「あ、あの余裕……俺たち凡人には想像もつかない高次元の計算を行っているに違いない……!」
(いや、ただ寝てるだけだから! テストを解く気がないだけだから!)
私は内心でツッコミながらも、心地よい眠りに身を任せた。全科目、完全なる『白紙(ゼロ点)』。
完璧な作戦だ。これで私の「無能なクズ王子」への転落は約束された。
───
数日後。
インスペクター室で昼寝をしていた私の前に、生徒会長のシリルが震える手で三枚の答案用紙を持って現れた。
「……ゼクス殿下」
シリルの銀縁眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど激しく揺れ動いている。
(キタ!! ついに私の白紙答案を見て、絶望と軽蔑の表情を浮かべているぞ!)
「どうした、シリル。私の採点結果が出たのかい?」
私はわざとらしく、悪びれもせずに尋ねた。
「殿下……。私は、己の浅薄さと、学園の教育水準の低さを、心の底から恥じました」
「えっ」
シリルは私のデスクに、三枚の答案用紙を並べた。
そこには、見事なまでに真っ白な解答欄と、政治学の最後の記述問題の欄にだけ、私が適当に書き殴った『とくになし』という文字が残されていた。
「現在の魔法理論は、いかに効率よく魔力を消費し、火力を上げるかという『力』に偏重しています。しかし殿下は、この白紙を突きつけることで、『魔力に頼らない原点(無)への回帰』を訴えられたのですね……!」
「は?」
シリルが熱に浮かされたように語り始めた。
「そして歴史学! 過去の戦争や権力闘争を暗記させるだけのテストに対し、あえて何も書かないことで『過去の過ちをなぞるな。歴史は我々自身が白紙から創り出すものだ』という強烈なメッセージを込められた!」
「待って、シリル。違う、私はただ――」
「極めつけは、この政治学の『とくになし』です!」
シリルは私の言葉を遮り、答案用紙を天高く掲げた。
「現在の腐敗した貴族政治や、既得権益に塗れた政策において、もはや語るべき価値のあるものなど『何一つない(とくになし)』という、痛烈極まりないアンチテーゼ! 殿下は、テストという枠組みそのものを否定し、高次元の哲学を我々に叩きつけたのです!!」
ドンッ!!と、インスペクター室の扉が開き、残りの親衛隊たちが雪崩れ込んできた。
「シリルから話は聞きましたわ! 既存の枠に囚われた愚かな教師たちへの反逆……なんて気高く、美しい白紙ですの!」
リヴィアが、私の白紙答案を見てうっとりと頬を染める。
「兄上! この『とくになし』の筆跡……怒りと哀しみが込められた、素晴らしい芸術です! 額縁に入れて王宮に飾りましょう!」
ユリウスが謎の鑑定眼を発揮する。
「殿下! 私、感動しました! 小賢しい知識なんていらない、己の肉体(大胸筋)と心だけで国を導くという、殿下の覚悟なんですねっ!」
ミアリスが光のダンベルを握りしめながら号泣する。
「殿下のこの気高き沈黙!! 百の言葉よりも重い、王者の風格!!」
ギデオンが直立不動で敬礼する。
「いやー、テストの点数っていう既存の評価システム(ヒエラルキー)の破壊っすね! さすが殿下、常識の壊し方がロックすぎる!」
ルカが指笛を鳴らして称賛する。
(お前ら、全員頭おかしいんじゃないのか!? ただサボって寝てただけだっつってんだろうが!!)
私が頭を抱えて叫び出そうとした、その時。
「――失礼いたしますッ!!」
教頭をはじめとする、学園の教官陣がインスペクター室に勢いよく飛び込んできた。彼らの顔は、一様に感動で真っ赤に染まっている。
(あ、教官たち! よかった、彼らならまともな評価を下して……)
「ゼクス殿下!! 我々は、殿下の『白紙』に込められた高次元の哲学に、雷に打たれたような衝撃を受けました!!」
「ダメだった!! こいつらもすでに洗脳済みだ!!」
教頭が、ハンカチで滝のような涙を拭いながら私の前に進み出た。
「我々のちっぽけな採点基準で、殿下のような偉大な思想家を測ろうとしたことが間違いでした! 殿下の答案は、もはや点数という概念を超越しております!!」
「ええっ!?」
「よって、教員会議の満場一致により、ゼクス殿下の今期の成績は、特例中の特例として『評価不能(殿堂入り=学年首席を凌駕する最高位)』とさせていただきます!!」
「ウソでしょおおおおおっ!?」
ワーッ!!と、インスペクター室が割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「おめでとうございます、殿下!」
「殿下の偉大さが、ついに学園のシステムすらも変革しましたね!」
笑顔で私を胴上げしようとする親衛隊たちと教官たち。
その中心で、私は真っ白になった頭(私の答案用紙と同じ状態)で、天井のシャンデリアを見つめていた。
白紙で出したテストが、なぜか「首席超えの殿堂入り」になる理不尽な世界。
『赤点を取って留年&スローライフ』という私のささやかな夢は、高次元の哲学という名の暴力によって木っ端微塵に粉砕された。
卒業パーティーまで、あと三十日。
私の胃袋のライフは、すでに限界を突破していた。




