絶望に藻掻く女たちに差し伸べられ、そして頭を沼へ押さえつける手
本格行軍練習にはかなり特殊な伝統がある。
今回はダリルという上と下を繋ぐ連絡係が存在するものの、通常の世代には現場と司令部の橋渡し役がいない。
それ故に司令部がこうしてほしいという伝達は容易いが、現場の子爵、男爵の子弟が要望を述べようとすると、身分が邪魔して思うように出来ないのだ。
結果、行事を始めた最初の世代はかなり頓珍漢な発想に至り、それが現代でも続いていた。
目上に意見を言うのが難しいなら、全員が誰か分からない状態にしよう! と。
(……どういう発想をしたのでしょうか?)
訪れた街の領主の館に集った学生の一人、リズベットは思わず先祖に問いかけてしまう。
教会の戒律を重視している世間知らずな彼女ですら、今現在の状況がおかしいとは思っていた。しかし伝統とは厄介なもので、初代統一王とその周囲の人間が考えたという理由だけで、今現在も残っていた。
その伝統とは……。
(靄の人間がいっぱいです)
百人以上を簡単に収容できる館のパーティー会場では、リズベットの表現通り靄のような人間が大勢いた。
比喩ではない。
本当に白い靄が四肢と頭を持ち、均一な身長であちこちを移動しているのだ。
『あー。ああ』
ついでにリズベットが意味のない声を漏らすと、男と女の声が混ざった奇妙なものに変換される。
実は彼女もまた大勢いる靄人間の一人で、手足を動かすと連動して白いあやふやな輪郭が動いた。
もうお分かりだろう。
ケイがエロゲーという概念は理解不能と呟いた伝統は、男女すらも分からない状態にする特殊な魔道具を用いて、上下の意思疎通を行なおうとしたのである。
『今なら……私が誰か分からない……』
尤ももがき苦しんでいる女神ルシールは違う使用法を思いついたようで、思わず声に漏らしてしていた。
『中々面白くはあるかな』
そんな中、好奇心旺盛なレアはこの状況を楽しんでいたが、他の面々は恐る恐るに接触しており、遥か遠い先祖の思惑はほぼ形骸化していた。一人を除いて。
(そ、れ、に)
レアが状況を楽しんでいる理由はその一人、ケイが非常に分かりやすいのだ。
(一人だけ堂々と歩いてるんだもの。聖勇者としての感覚も間違いなくケイ君だと言って……いる?)
全員が周囲を伺うように靄の輪郭を動かしている中、やたらと背筋が伸びて足取りが確かな存在は明らかにケイだ。
それに激重感情を抱いている聖勇者は、鋭敏な感覚をフルに活用して、靄を覆っている彼の姿をはっきり捉えていた。
だがそのケイが誰かと話した後、真っすぐにレアに向かってきたので、彼女は困惑と同時に乙女らしい期待を抱く。
『いやあ、ツッコミどころ満載だけどこうやって話せる機会があるのは助かるよねー』
『……何の話だ?』
声が変わろうとケイだと確信しているレアは、いたずら心を発揮して男性のような口調になる。
『どんな姿になっても普段の仕草を隠せてないよ』
『そっかぁ』
(ああもう……このままケイ君とベッド行きたい……)
そのいたずら心は、こそりと囁かれた声で瞬く間に萎み、代わりに女としての情念が燃え上がる。
ケイは聖勇者のような力を持たず、普段の仕草でレアを見つけたのだから、もう彼女は辛抱できそうになかった。
『それではご友人のところにご案内いたします』
『良きに計らえ』
芝居のような礼をしたケイに、レアは重々しく頷いて同行する。
(ダリル、レアさん、リズベットさん、ルシールさんは一発で分かる!)
ケイが心の中で思考する。
コミュニケーション力が最も重要と豪語するケイにすれば、面識があって話したことがある人間は、靄状の輪郭になっても判別が容易い。
ただ公爵家や王族の子弟は色々と代表して表に出るため、こちらもまた把握しているが、接点がほぼない伯爵家の子弟になると、多分この顔の筈……というあやふやなものになってしまう。
(一番酷い時期の、眉の動きで判別する必要があったロジャー兄上と、人間の言語じゃなかったイライジャ兄上とコミュニケーションを成立させたんだ。これくらいは楽勝楽勝)
ある意味兄によって鍛えられたケイは、迷いのない足取りで不安そうにあちこちを見ていたリズベットに近寄る。
『どうもどうも。先週のお茶会で使った南方の茶葉、凄く美味しかったですね』
『え?』
話しかけられたリズベットには心当たりがあった。先週は確かに兄とお茶会もしたし、南方の茶葉を使った。
そしてケイとレアもいた。
『ひょっとして……』
『しー。ちらりと野営地で見た時、少し具合が悪そうな人がいたんだ。その人はちょっと騒動に巻き込まれちゃったから当然だけど、お兄さんとかお友達がいることを思い出してほしいかなって。勿論、お喋り好きな奴とお話ししたかったら、喜んでお茶会に出席するよ。って伝えておいてくれる?』
『は、はい! ところでどうして私が……』
『君を間違えることなんてない絶対ないね』
『っ!』
リズベットは相手の声が変わろうと、口調と体の動きでケイだと断定した。
そのケイは、冷えたり温まったりしていたリズベットの心に燃料を注ぎ込んだで上で、震えてしまいそうになるような断言までするではないか。
リズベットは靄状の体から湯気が出るのではないかと思うほど、全身を真っ赤にして身を縮ませ、両手の細い指が意味もなく動いてしまう。
『それではお二人とも、ご案内します』
最後の人物に会うため、ケイはレアとリズベットを連れて歩く。
(こ、来ないで。いや。駄目……)
その最後の人物。ルシールは途方もない絶望と希望の二つで胸を焦がしていた。
心身共に崖っぷちである女神は、聖女と聖勇者を束ねる立場から、彼女たちの接近に気が付いていた。
しかしその先頭にいる靄はルシールから見ても明確にケイで、麻袋を被ったり、この魔道具を悪用する破滅的妄想が完全に破綻してしまう。
それなのに女の心は非常に複雑で、彼だけには自分を特定してもらいたいという願望を抱いてしまう。
『一つだけ言わせてください。知っておいてください。あなたの彫刻ではなく、あなたという人間を見ている俺らがいます』
『っ!』
送り込まれた言葉でルシールは妄想を本当に実行したくなった。
彼女が求められているのは女神という名の美術品であり彫刻だ。それをルシールも当然だと思っていたが、価値観が揺れているところに、破滅願望の相手として振り払えない男が迷うことなく彼女のところにやって来て、そんなことを言ってしまったのだ。
『お、覚えて、おきます』
それでもルシールは堕ちれない。堕ち切れない。
だが確かに、甘い甘い沼にもう頭まで沈み込んでいるレアは別として、リズベット、ルシールは頭を押さえられてしまった。
自分がどんな姿でも見つけてくれる。受け入れてくれる。
その実体験は何処までも聖女と女神に絡みついた。




