第3話 出会い
翌朝、朝ごはんの食卓には、爺ちゃんと婆ちゃんと兄がそろっていた。
父は、もう仕事に出たあとだった。
総士は味噌汁をすすりながら、しばらく迷っていた。
「……兄ちゃん」
「ん」
「昨日、道場に若い男の人が来てた。道着着てて、
中学生に襟車かけさせて、それを弾き返してた」
兄は卵焼きをつまみながら、少し考えるような顔をした。
「ああ、美上先生か」
「美上?」
「美上九郎先生。教育実習生で、うちの中学に
来てるんだよ。実習のあいだは、地域チームの
練習でもコーチやるんだって」
兄は箸を置いて、つまらなそうに付け足した。
「俺は、あんまり好きじゃないけどな」
美上、九郎。
総士は、その名前を頭の中で繰り返した。
道場の先生たちとも、父さんとも、何かが違う。
何が違うのかはわからない。
でも、そんな気がした。
*
その日の3時間目は、国語だった。
先生が黒板に教科書の文を書いていくあいだ、総士は机の上に国語辞典を開いていた。
開いているのは、授業とは関係のないページだ。
探しているのは、本に載っていた字だった。
ノートの端に、覚えている形を書き写してある。
「闘」に似ているけれど、どこか違う字。
ほかにも、見たことのない形の字がいくつか。
ページをめくって、ノートと見比べる。
似た字はあっても、同じ字は見つからなかった。
載ってない。
学校の辞典には、昔の字は載っていないのかもしれない。
「巽、次読んで」
「えっ、あ、はい」
慌てて教科書を開いたけれど、どこを読んでいるのかわからなかった。
*
昼休みの校庭は、いつものようにサッカー組とバスケ組に分かれていた。
総士は、バスケのゴールの近くで、順番待ちの列に並んでいた。
ボールはあまり回ってこないけれど、ここにいれば誰かが話しかけてくれる。
「やっぱさ、サッカーとかバスケうまいやつって、
風の魔力の使い方もうまいよな」
健吾が言った。
「パスの強さとか、シュートの軌道とか、
全部風で変えてるんだろ?」
「そうそう。テレビのプロとか、
ボールが曲がりまくってるもんな」
陽太がうなずく。
「いや、それだけじゃないよ」
ボールを指先で回しながら、タクトが口を挟んだ。
「プロの選手は、風でボールをコントロールする
前に、火の魔力で一気に走り出すんだ。
で、ディフェンダーが当たってきたら、
その力を一瞬だけ水で受け流して、
また風でボールをコントロールする」
「へー、すごーい」
周りの何人かが声を上げた。
総士は、タクトの言葉を頭の中でなぞった。
火で走って、水で受け流して、風に戻す。
いくつもの魔力を、一瞬で切り替える。
あ、烈と一緒だ。
道場で、あの人が言っていたことだ。
一応、あのにーちゃんも先生らしいから、間違ってはいないはずだ。
「それ、武闘技の烈と一緒だ。
道場で、先生が言ってた」
言ってから、少しだけ後悔した。
「総士、知ってるふりしてるんじゃないの?」
近くにいたナオが、腕を組んで言った。
総士は何も言い返せなかった。
「へえ、よく知ってるな、総士」
タクトが、ボールを回す手を止めて言った。
「武闘技にも、同じような技術があるんだな。
サッカーだとそういうの、カウンターって
言うんだ。コーチが、覚えるのがめちゃくちゃ
難しいやつだって言ってた」
からかう感じは、どこにもなかった。
本当に、面白がっている顔だった。
総士は、タクトの顔をちらっと見た。
タクトは、ただ運動神経がいいから上手なんだと思っていた。
最初から足が速くて、最初からうまいんだと。
でも、違うのかもしれない。
プロの動きを見て、どうやっているのか考えて、自分で真似している。
だから、あんなふうに説明できるんだ。
タクトも、ちゃんと考えてるんだな。
*
放課後、総士は陽太の誘いを断って、町の図書館に寄った。
学校から歩いて20分ほどの、古い煉瓦の建物だ。
冷房の効いた館内は静かで、紙の匂いがした。
辞書の棚の前で、総士は背伸びをした。
国語辞典、漢字辞典、ことわざ辞典。
どれも学校にあるものと似ている。
棚の一番下の段に、分厚くて、背表紙のすり切れた本が何冊か並んでいた。
『旧字体辞典』
取り出すと、ずしりと重い。
表紙には埃がうっすら積もっていて、誰かが最近借りた様子はなかった。
閲覧席に座って、ノートを開く。
書き写した字の形を見ながら、ページをめくっていく。
部首を探して、画数を数えて、また別のページへ。
時間がかかった。
窓の外が少しずつ橙色になっていく。
そして、ようやく見つけた。
「闘」の、昔の形。
あった。
声に出しそうになって、慌てて口を押さえた。
本の表紙の真ん中の字は、やっぱり「闘」だった。
総士はノートに、その字と読み方を書き込んだ。
それから、次の字を探し始めた。
閉館のチャイムが鳴るまで、総士は辞書をめくり続けた。
*
翌日の放課後、総士はランドセルを家に放り込むと、そのまま兄のあとについて奉利道場へ向かった。
「なんでお前まで来るんだよ。
お前の練習は夜だろ」
「中学生の練習、見に来ていいって
庄野先生言ってたもん」
「……勝手にしろ」
兄はため息をついて、先に歩いていった。
中学生の練習に来るのは、初めてではなかった。
前にも何度か、兄にくっついて見学したことがある。
兄の友達の顔も知っているし、「おっ、勇心の弟じゃん」と声をかけてくれる人もいた。
お目当ては、もちろん美上九郎だ。
でも、練習が始まってしまうと、誰も総士の相手はしてくれなかった。
中学生たちは中学生同士で組み、打ち込みと乱取りを繰り返していく。
総士は道場の隅で、一人で打ち込みの真似をした。
襟をつかむ形。
足を運ぶ形。
体をひねる形。
美上は、中学生たちのあいだを歩き回りながら、ときどき短く声をかけていた。
一度も、こちらを見なかった。
練習が終わりに近づいて、中学生たちが水を飲みに散らばったころ。
美上が、ふらりと総士のほうへ歩いてきた。
「勇心の弟か。この前も会ったな」
美上はしゃがんで、総士と目の高さを合わせた。
「一人で中学生の練習に来るなんて、偉いねぇ」
小さい子に話しかけるような、やわらかすぎる声だった。
総士は、道着の裾をぎゅっと握った。
「美上先生、だっけ?」
「ん?」
「俺に、勝ち方教えてよ」
「……は?」
美上の顔から、笑顔が少しだけ抜けた。
総士は、言葉を止めなかった。
止めたら、もう言えなくなる気がした。
「俺、試合でほとんど勝ったことない。
勝ったのも、小さい女子だけ」
「……」
「父さんも先生も、今はそれでいいって言う。
でも、面白くないよ」
美上は、しばらく黙って総士を見ていた。
それから、静かに聞いた。
「なんで、武闘やってる?」
総士は、少し考えた。
父さんに言われたから。
最初は、そうだった。
でも、今は少し違う気がする。
「ボールと違って、自分がどう動くかで、
技の呼び方もやり方も変わるから」
抱えていた本を、ぎゅっと胸に押しつける。
「魔法を加えたら、もっと自由に動ける。
……この本に、そう書いてあった」
総士は、顔を上げた。
「俺にとって、こんな面白いこと、ないよ」
◆ ◆ ◆
──九郎視点──
美上九郎は、うんざりしていた。
幼いころから、武闘技を続けてきた。
道場の稽古だけでは足りず、独自に研究を重ねた。
古い文献を漁り、技の理屈を自分の体で確かめた。
高校生になるころには、指導者が驚くほどの知識と、独学だけで力を身につける術を持っていた。
どの大会でも、必ず上位に入った。
そして、いよいよ全国大会がかかった試合で、右脚が限界を迎えた。
ー経路損傷型複雑骨折ー
人の体には、神経のすぐそばに、魔力を通す経路が走っている。
九郎が自分に課した鍛錬は、その経路に負荷をかけすぎていた。
県大会の決勝のさなか、利き足は悲鳴を上げ、彼は最後まで畳の上に立っていることができなかった。
経路損傷は、その部位に魔力の負荷をかけられなくなる障害だ。
日常生活には、何の支障もない。
走ることも、跳ぶことも、普通にできる。
ただし、魔力で損傷した部位を強化すれば、再び骨が折れる。
鍛え上げた体は、もう武闘技には使えなくなった。
魔力を必要とする軍や警察の道も、閉ざされた。
九郎は教員の資格を取りながら、行き先の決まらない就職先を探していた。
本音を言えば、自分の人生にうんざりしていた。
その九郎の前で、9歳の子どもが、古い本を抱えて立っていた。
「……読めたのか、その本」
九郎は、本の表紙に目をやった。
あの本に出てくる字は、小学生が読めるものじゃない。
教科書にも、テストにも出ない、昔の字ばかりだ。
図書館にでも行ったんだろう。
それも、古くて誰も手に取らないような、旧字の辞書を引いて。
「……面白いか」
「うん」
迷いのない返事だった。
何の意味もなかったと、つい最近まで思っていた。
積み上げてきたものも、壊れた体も。
だが、どうやら、意味はあったらしい。
とりあえず、今のこの、柄にもなく高まっている気分を抑えるために。
このガキと出会うために、俺の経験はあったのだと。
そう、思い込んでやろう。
「わかった。教えてやるよ」
総士の顔が、ぱっと明るくなった。
「ただし、勝ち方なんて自分で考えろ」
俺が教えるのは。
俺が、教えるべきなのは。




