第2話 古書と少年
翌朝、総士は台所で靴下をはいている父のところへ、本を持っていった。
「父さん、これ」
父の宗一郎は顔を上げ、総士の手の中を見た。
「……そんなもの、見つけてきたのか」
「倉庫にあった。父さんの本?」
「ああ。確か、古本屋で買った……
いや、誰かに貰ったんだっけか。
読むのはいいが、その本を読んでも
強くはなれないぞ」
それだけ言って、宗一郎は仕事に出ていった。
読むだけなら、いいんだよな。
総士は部屋に戻って、本を開いた。
読めなかった。
字が古い。
見たことのない形の漢字ばかりで、言い回しも、教科書とはまるで違う。
そのうえ古すぎて、ところどころ印字がかすれて消えかけていた。
一行読むのに、ずいぶん時間がかかる。
でも、写真はわかる。
白黒の写真の中で、道着の男の人が技の形をとっている。
一枚ごとに、手の位置や足の向きが少しずつ違っていた。
道場で習ったことのある技もある。
ー襟車ー
相手の襟を掴み、身体を回転させて担ぎ上げる技。
ー足払いー
踝から足先で相手の脚を払い上げる技。
ー外車ー
利き足を対角線上に振り上げて相手の脚にかけて倒す技。
ページをめくって、指が止まった。
知らない技だった。
"襟車"に似ているけれど、つかんだ手の位置も、足の運びも違う。
こんなの、習ったことない。
次のページにも、その次のページにも、見たことのない形が載っていた。
今度の練習で、先生に頼んでやってみようかな。
*
次の練習日。
夕飯のあと、総士は本を道着の鞄に入れて、奉利道場へ向かった。
夜の少年部に通っている子どもは、ほとんどが高学年だ。
低学年は4年生が数人と、3年生は総士一人しかいない。
準備運動と基本の打ち込みまでは、みんなと一緒にやる。
でも、後半の乱取りが始まると、4年生たちは4年生同士で組んでしまい、総士だけが余る。
練習の後半は、いつも自由時間だった。
上級生たちの掛け声を聞きながら、一人で打ち込みの真似をしたり、壁際に座って見学したりする。
その日の自由時間、総士は思い切って庄野先生のところへ行った。
「先生、これ、やってみたいんですけど」
開いた本のページを見せると、庄野先生は「ほう」と眉を上げた。
「古い本だな。どこで見つけた?」
「家の倉庫です」
「そうか。じゃあ、やってみるか」
庄野先生が受けに立ってくれた。
総士は写真の形を思い出しながら、右手で襟をつかむ。
体を反転させて、右腕を先生の脇の下に差し入れる。
写真では、足の位置がいつもより少し外側だった。
その通りに足を運んで、背中を先生の胸につけ、腰を落とす。
先生の体は、びくともしなかった。
もう一度やってみる。
手の位置を変えて、足の向きも写真どおりにする。
やっぱり、何も起きなかった。
「形は似てるな」
庄野先生は、道着の襟を直しながら言った。
「たぶん、襟車の変わり型だ。手の位置と
足の向きが少し違うだけで、技に必要な力は
同じなんだよ」
「……同じ」
「本で形を覚えるのも悪くない。でもな、
武闘技は体を動かして覚えるもんだ。
何千回も打ち込んで、体に染み込ませる。
それしかない」
確かに、そうか。
総士は本を閉じた。
先生の言うことは、きっと正しい。
写真の形を真似したって、
それだけで強くなれるなら、誰も苦労しない。
父の言っていたことも、きっと同じ意味だったんだろう。
その日は、いつもより多めに打ち込みをして帰った。
*
その週末、昼ごはんのあとの居間には、家族がそろっていた。
爺ちゃんは座椅子で湯呑みを持ち、婆ちゃんは洗濯物をたたんでいる。
兄は寝転がって漫画を読んでいた。
父はテレビの真正面にあぐらをかいていた。
休みの日の父は、テレビをつけてもたいてい途中でうとうとしてしまう。
でも、武闘技の番組のときだけは違った。
背筋を伸ばし、腕を組んで、画面から目を離さない。
誰かが話しかけても、返事は「ああ」だけだ。
総士は、父の斜め後ろに座った。
画面の中では、国際大会の決勝が行われていた。
片方の選手は、相手より頭ひとつ小さかった。
肩幅も腕の太さも、まるで大人と子どもだ。
大きいほうの選手が、襟と袖をつかんで一気に体を回した。
腰が、小さい選手の脚の間に入る。
"片脚跳"だ。
跳ね上げられる、と総士は思った。
でも、倒れたのは大きいほうだった。
小さい選手の体が一瞬ずしりと沈んだかと思うと、跳ね上げようとした相手のほうが、後ろへ弾かれるように崩れていた。
背中から、畳に落ちる。
会場の電光ボードに、Aが3つ並んだ。
『決まったーっ! 国際武闘大会、優勝は
旧帝派のエース、司馬和弥!』
『大会前はほとんど注目されていなかった
選手です。出場選手の中でも最も小柄、
力も一番弱いと言われていました。
その司馬和弥が、これが初の国際タイトル!
今年の世界一です!』
会場の歓声が、居間いっぱいに広がった。
画面の中で、司馬という選手が両手を上げている。
すごい人がいるんだな。
総士は、ぼんやりとそう思った。
小さくて、力も弱いのに、世界で一番。
すごいとは思う。
でも、テレビの向こうの話だった。
自分とは、まるで関係のない世界の人だ。
父は、最後まで黙って画面を見ていた。
それでも、一つだけ引っかかることがあった。
司馬の動きは、総士が道場で習っている技と、形が少し違っていた。
どこが、とははっきり言えない。
でも、何かが違う。
そして、その形には見覚えがあった。
総士は部屋に戻って、本を開いた。
ページをめくっていく。
半分を過ぎたあたりで、手が止まった。
二人の男の人が組み合っている写真。
片方が仕掛け、もう片方が受けている。
さっきテレビで見た、司馬の姿に似ていた。
ページの見出しには、大きく一文字だけが書かれていた。
『烈』
れつ……?
魔力の属性のことかと思った。
火とか、土とか、そういうものの仲間なのかもしれない。
でも、前のほうのページには、ちゃんと基本属性の説明らしい章があった。
火、水、風、土、雷。
そんなことは、小学生になれば誰でも知っている。
烈は、そのどれでもなかった。
説明の字は、かすれてほとんど読めない。
何が違うんだろう。
庄野先生も、形が少し違うだけだと言っていた。
先生にも、よくわからないのかもしれない。
*
次の練習日、総士は一応、庄野先生に聞いてみた。
先生は本のページをしばらく眺めてから、首を振った。
「烈、ねえ……。聞いたことないな」
その日の後半も、総士は道場の隅に座っていた。
乱取りの音と掛け声が、遠くに聞こえる。
膝の上で本を開き、烈のページを何度も眺めた。
ふと、本の上に影が落ちた。
顔を上げると、道着を着た男の人が、総士の肩越しに本を覗き込んでいた。
見慣れない顔だった。
道場の大人たちよりずっと若い。
「へえ、今どきこんな本を読んでる子どもが
いるのかぁ」
誰だ、このおじさん。
道場で見たことはない。
でも、道着を着ているし、
この本のことを知っていそうな口ぶりだった。
「おじさん、この烈って、何か知ってる?」
総士は、開いたページを男の人に向けた。
「あー、烈な」
男はあっさりうなずくと、道場の中を見回した。
少年部の手伝いに、珍しく顔を出していた中学生の一人を見つけて、手招きする。
「おーい、ちょっといいか。そこに立ってくれ」
中学生は首をかしげながら、男の前に立った。
「俺に向かって、思い切り襟車を
仕掛けてみろ」
「え、いいんですか」
「いいよ。手加減すんなよ」
総士は、膝の上の本を抱えた。
どうせ、大人の方が強いから効かないんだろうな。
庄野先生のときと同じだ。
力の差があれば、どんな技だって通じない。
中学生が、右手で男の襟をつかんだ。
火の魔力を込めたのが、総士にもわかった。
勢いよく体を反転させ、右腕を男の脇の下に差し入れる。
背中を男の胸に密着させ、膝を曲げて腰を落とす。
男の体が、中学生の背中に乗った。
担ぎ上げた。
そう見えた、その瞬間。
男の体が、一瞬ずしりと沈んだ気がした。
次の瞬間、中学生は弾かれるように後ろへよろけ、畳に尻もちをついていた。
何が起きたのかわからない顔で、中学生は目をぱちぱちさせている。
総士も、わからなかった。
投げたのは中学生のほうだった。
男は、何もしていないように見えた。
テレビの、あれと同じだ。
「お前らは、攻めるときは火をイメージしろ、
受けるときは土をイメージしろって
教わるだろ?」
男は、まだ畳に座り込んでいる中学生に手を貸しながら言った。
「……うん」
「それで正解だ。魔力をしっかり効かせるには、
まず一つのイメージに専念する。
攻めるときは火だけ、守るときは土で受ける。
それが基本だ」
中学生を立たせて、男は総士のほうへ向き直った。
「でもな、体と魔力をコントロールできるように
鍛えていくと、その二つを一瞬で
使い分けられるようになる」
「じゃあ、今のは……」
「土の魔力で受け止めて、瞬時に火で
弾き返したんだ」
男は、総士の抱えている本をあごで指した。
「それを昔の爺さんたちは、烈火のごとき技だとか
言って『烈』って呼んだらしい。まあ、今は
カウンターって言うけどな。そっちのほうが
わかりやすいだろ」
男は肩をすくめた。
「武闘技だけじゃない。サッカーにもバスケにも、
似たような技術はある。どの競技でも、
身につけるのが難しい技の一つだ」
総士は、本を抱えたまま動けなかった。
かすれて読めなかったページの意味が、目の前で起きたことと、少しずつ重なっていく。
なんなんだ、このおじさん。
男は、総士の顔を見て、にやっと笑った。
「それと、俺はおじさんじゃなくて、
お兄さん、な?」




