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【第1篇】第4話 『クソみたいなシナリオ(1)』

午後3時41分――カーテン紀元1889年8月4日


アルヴィナは、目の前に立つ少年の返答を待つように、読みにくい穏やかな表情でヴァレンをじっと見つめていた。


一方、ヴァレン・エインハイルは未だにその場で固まっていた。彼の頭脳は状況を考慮しようとフル回転している。


(うわぁ、どうしようかな……。とりあえず今は、彼女の思い通りにしておくか。これはまだ最初の試みだし、確かめておきたいことも山ほどあるからな)


ヴァレンは心の中で諦め、深いため息をついた。


「分かったよ、アルヴィナ様」


「それなら、行きましょう」


アルヴィナは表情を一つも変えることなく、すぐさま体を翻すと、ヴァレンの左手首を引っぱった。


「っ、ちょっと待ってくれ!」


ヴァレンは驚いて声を上げた。右手で図書館の分厚くてかなり重い本を5冊もぎゅっと抱えていたため、もう少しでバランスを崩しそうになったのだ。


アルヴィナは足を止め、ゆっくりと振り返った。その瞳は相変わらず穏やかで、申し訳なさそうな様子は微塵も感じられない。


「何でしょう?」


「本だよ」


ヴァレンは抱え込んだ5冊の分厚い本の山を、少し情けないような視線で指さした。


「俺、まだこの本を元の棚に戻さなきゃいけないんだ」


アルヴィナは五冊の分厚い本へ視線を落とすと、再びヴァレンの目を見つめ返した。二人の間に、数秒間の気まずい静寂が漂う。


「あ。ごめんなさい」


アルヴィナは短く、淡々と言った。


学院の制服に身を包んだ雪髪の少女は、ヴァレンの手首からゆっくりと手を離すと、優雅に両手を背の後ろで組んだ。


「それなら、外で待っているわ」


彼女は平然と続け、そのまま体を翻して図書館の外へとしなやかに歩み出た――まるで、たった今ヴァレンを机にぶつけそうにさせたことなど、何もなかったかのように。


ヴァレンは閉じられた木製の扉をただ呆然と見つめたまま立ち尽くし、右手で抱えた五冊の分厚い本を抱え直すと、左の手首を撫でた。


(無表情のくせに、強引に引っ張るんじゃないよ……)


ヴァレンは心の中で静かにうめいた。


アルヴィナの姿が図書館の木製の扉の向こうへ消えた後、ヴァレンは小さくため息をついた。腕の中に抱え込まれたままの五冊の分厚い本を見つめる。


(まったく……また時間に余裕ができたら、続きを読もう)


ヴァレンは首を軽く横に振ると、心の中で呟いた。


時間を無駄にすることなく、ヴァレンは高い書架が並ぶ通路を歩き始めた。


一冊、また一冊と、彼は分類に従って五冊の本をそれぞれの元の位置へと戻していった。


すべての本が元通り整然と並べられたのを確認すると、彼は外へと続く扉の閾(しきい)に向かって歩き出した。

重い扉を押し開き、図書館の静寂から一歩外へ踏み出すと、ヴァレンの視線は自分を待っていた人物へと即座に向けられた。


その雪髪の少女は、優雅な立ち姿のまま外扉の脇に寄りかかり、穏やかな表情を浮かべていた――まるで、先ほど図書館の中で繰り広げられた強引な引っ張り劇など、最初から何もなかったかのように。


「終わりましたか、ヴァレン?」


少年の気配に気づいたアルヴィナは、淡々とした声で尋ねた。


【第1篇】第4話 『クソみたいなシナリオ(1)』


図書館を後にしたヴァレンとアルヴィナは、学院の敷地内に伸びる石畳の小道を並んで歩いていた。


二人の間にはしばらくの間、気まずい静寂が漂っていたが、やがてヴァレンは意を決して隣を歩く少女へと視線を滑らせた。


「あの……どこでお話ししますか、アルヴィナ様?」


ヴァレンは場を包む気まずさを払うように尋ねた。


アルヴィナはゆっくりと顔を向け、その穏やかな瞳でヴァレンの瞳を静かに射ぬいた。


「そうですね……あちらの中庭にしませんか? その方が、人目を気にせず話せますから」


「分かりました」


ヴァレンは頷きながら答えた。


しかし、彼は突如として言葉を詰まらせ、その声に躊躇(ためら)いを滲ませた。


「ですが……」 アルヴィナは軽く彼に視線を向けた。「何でしょう?」


「その……お迎えが来ているのではないですか?」


ヴァレンは慎重に尋ねた。


「普通、貴族の方なら馬車でお迎えが来るのでは? 別に変な意味はありません、ただ確認したかっただけです」


アルヴィナは静かに一度だけまばたきをして答えた。


「ああ、それなら……お迎えが来るまで、まだあと数分ありますわ。ですから、時間なら十分にあります」


(思ったより冷たい奴じゃないんだな……)


アルヴィナの案外あっさりとした返答に、ヴァレンは心の中で少し胸を撫でおろした。


二人は再び石畳の小道を歩き出し、やがてエバーガーデン学院の中庭の前にある広場へと到着した。


ヴァレンは、未だに何人かの生徒が行き交う周囲の様子へ視線を巡らせた。


「意外と、まだ新入生がたくさん残っているんだな」


「当然ですわ。彼らはまだ学院の環境に興味津々なのでしょうから、無理もありません」


アルヴィナは淡々としつつも、筋の通った調子で返した。


二人はそのまま、中庭の奥へと足を進めた。周囲には青々と茂る木々が歩道を覆い、咲き誇る花々が美しい色合いを添えながら、みずみずしい香りを漂わせている。


目の前に広がるのどかな光景に、ヴァレンの瞳は感嘆の色で輝いた。「うわぁ……」


「きれいでしょう?」


アルヴィナは静かに問いかけた。


彼女は雪髪を揺らす心地よい微風を感じながら続けた。「私は幼い頃から、何度もここへ来ているの」


ヴァレンは素早く振り返り、彼女の言葉からキーワードを拾い上げた。「幼い頃からですか、アルヴィナ様?」


「ええ」アルヴィナは静かに頷いた。


「お父様がよくこの庭へ連れてきてくれたのよ。私達にとって、夕焼けや夜空の景色を楽しむなら、ここが一番美しい場所だったから」


アルヴィナは周囲に広がる花々へ視線を向けた。その眼差しは柔らかく和らぎ、遠い過去の記憶を辿るように見つめていた。


「今でも、お父様が初めて見せてくれたあの景色を、鮮明に覚えているわ」


彼女は、滅多に見せることのないかすかな温もりを声に宿らせて続けた。


ヴァレンは隣に立つ雪髪の少女を見つめたまま、呆然と固まった。その口からは、抑える間もなく言葉がこぼれ落ちていた。


「すごいな……」


アルヴィナは小さく顔を向け、そのつぶやきに気づいた。「どうしました、ヴァレン?」


「あ、いえ……」ヴァレンは少し気まずそうに首の後ろを掻いた。「ただ、思いもしなくて……。アルヴィナ様はいつも冷たい印象がありましたけど、そんな風に温かい想いを大切に秘めていらしたんですね」


アルヴィナは一瞬、呆気に取られた。平民の口から、これほど素直な言葉がさらりと飛び出すとは思ってもみなかったのだ。しかし、気分を害するどころか、彼女の唇には――目立たないほど小さな――愛らしい微笑みが浮かんでいた。


「私、そんなに冷たく見えていましたか?」


彼女の問いかけは、いつもより少しだけフランクな響きを帯びていた。


「はい」ヴァレンは正直に認め、小さく苦笑した。「……そういえば、よくよく考えてみたら、俺達ってまだちゃんと自己紹介をしていませんでしたよね、アルヴィナ様?」


アルヴィナは静かに目をパチクリさせると、くすりと小さく笑った。「ああ、ええ……あなたの言う通りね」


その肯定的な返答を聞くと、ヴァレンは姿勢を正そうとした。彼は少し背筋を伸ばすと、どこかぎこちないフォーマルな仕草で右手を差し出した。


「それじゃあ、改めまして……俺の名前はヴァレン。ヴァレン・エインハイルです」


アルヴィナは躊躇うことなく、その差し出された手を取った。しかし、あまりにも完璧で洗練された彼女の貴族的な立ち振る舞いは、学院の中庭という穏やかな状況に対して、かえって堅苦しすぎるものだった。


「私も改めまして、アルヴィナと申します。アルヴィナ・レインバーグです」


二人の手がしばし重なり合う。互いの視線が交差した直後、木漏れ日の下で繰り広げられた自分たちの挨拶が、どれほど妙で滑稽なものだったかに二人は同時に気づいた。


「プッ……ふふっ、あははっ!」


澄んだ笑い声が二人の間に弾け飛び、漂っていた気まずさの残骸を綺麗に吹き飛ばした。


「くすっ……何ですか、今のポーズは?」


アルヴィナは軽く胸に手を当て、口元からこぼれ出る小さな笑いを堪えきれずにいた。


やがて笑い声が静かに収まると、ヴァレンはアルヴィナの方へと視線を向けた。まるで凍りついた海のようにいつも冷ややかで無表情だった彼女の顔に、今は美しく温かな微笑みが彩られていた。


「あー……少し立ち疲れてしまいましたわ」


アルヴィナはぽつりと呟いた。


雪髪の少女はゆっくりと近くのベンチへ歩み寄ると、学院の制服のスカートを優雅に整えてから腰を下ろした。そしてすぐにヴァレンを見上げ、隣の空いているスペースを軽やかにぽんぽんと叩いた。


「ヴァレン、あなたもここに座りなさいな」


「あ、はい……ありがとうございます、アルヴィナ様」


ヴァレンはお礼を言いながら、彼女の隣に腰掛けた。


アルヴィナは小さく息を吐き出し、横目でちらりと彼を見た。「さっきから……」


ヴァレンは首をかしげ、言葉の続きを待つようにその整った美貌を間近で見つめた。


「……ずっと、私に対して堅苦しい話し方ばかりしていますわね」


アルヴィナは言葉を続けた。彼女は再び目の前に広がる庭園へと視線を戻し、ベンチの背もたれにゆったりと体を預けた。


「これからは、もっと普通に話してちょうだい」


「えっと……分かりました、アルヴィナ様――」


アルヴィナは少し首をかしげた。細い眉をひそめ、どこか悪戯っぽく探るような視線を彼に向ける。


「ん?」


ヴァレンは軽く咳払いをして、気まずさを残したまま滑りかけた言葉を慌てて訂正した。


「コホン……じゃなくて……アルヴィナ」


アルヴィナは満足そうに頷いた。その唇には、再び魅惑的で小さな微笑みが美しく刻まれていた。


「ええ、それでいいのよ」


(直接、こんな間近で彼女の笑顔を見たのは……これが初めてだ。今まではただ、小説の紙面に並ぶ文字を通してしか、彼女という存在を知らなかった。昔は頭の中で想像することしかできなかったキャラクター。それが、今は……)


ヴァレンは胸に去来する妙な高鳴りを感じながら、呆然と息をのんだ。


「アルヴィナ」


ヴァレンは静かに彼女の名を呼んだ。


アルヴィナは顔を向け、不思議そうに首を少し傾げた。「ん? どうしたの?」


ヴァレンはしばし口をつぐんだ。彼女の澄んだ瞳をじっと見つめ、やがて胸の奥にずっと引っかかっていた問い――この世界の『異邦人』としての根本的な疑問を、意を決して口にした。


「どうして……俺みたいな奴と話そうと思ってくれたんだ?」


突如投げかけられたその問いに、アルヴィナはかなり驚いた様子だった。彼女の視線はヴァレンの顔に留まり、その表情の真意を探ろうとしていた。


「全部が急すぎたんだ」ヴァレンは戸惑いを言葉にした。「一度も会ったことがないはずなのに、君は突然僕の名前を知っていて、こうして当たり前のように親しく話しかけてくれた……。どうしても、奇妙に思えてしまって」


アルヴィナは静かに目をパチクリさせると、一瞬だけ夕空に視線を漂わせ、再びヴァレンへと視線を戻した。


「幼い頃から……あなたのこと、よく見かけていたのよ」


ヴァレンは首をかしげ、疑問を隠しきれずに眉をひそめた。「僕を見かけていた……?」


「昔、執事に連れられて散歩によく出かけていたの。時にはお父様に連れられて、レインバーグ領内を巡ることもあったわ」


アルヴィナは穏やかで落ち着いた声で明かした。


「執事と一緒に歩いていた時だったかしら……確か、それがあなたを初めて見かけた時だと思うわ。もう何年も前のことだけどね」


午前8時47分――カーテン紀元1878年12月2日


当時まだ六歳だったアルヴィナは、レインバーグ領の立ち並ぶ建物たちの間を進む小道を、小刻みな足取りで歩いていた。小さな両脚は、街を覆い尽くす分厚い積雪をかき分けるのに苦戦している。両手には分厚い手袋をはめているものの、小さく華奢な身体は、突き刺すような冷たい風を受けるたびに身震いしていた。しかし、その寒さも彼女の愛らしい歩みを止めるには至らなかった。


「うぅ……すごく寒い……」


幼いアルヴィナは、少し唇を震わせながらぽつりと呟いた。


「お嬢様、追加のジャケットをお召しになりますか?」


執事のケインが優しく身体をかがめ、声をかけた。


「うん! 着せて!」


アルヴィナは元気よく答えた。


ケインは手元に抱えていた分厚いジャケットを手際よく取り出すと、アルヴィナの身体へ優しく、温もりを込めて着せかけた。


「はい、これで完璧ですわ、アルヴィナお嬢様」


ジャケットのボタンを丁寧に留め終えると、ケインは微笑みながら言った。


アルヴィナは見上げ、瞳を嬉しそうに輝かせた。「ありがとう、ケイン!」


「どういたしまして、お嬢様」


アルヴィナは何も言わず、可愛らしく右手を空中へと差し出した。その小さな仕草の意味を熟知しているケインは優しく微笑むと、アルヴィナの小さな指をそっと包み込むようにして握りしめた。


「申し訳ありません、お嬢様」ケインは静かに囁いた。「せっかく一生懸命にお願いされたというのに、本日もお館様とお散歩に出かけることができず……」


「ううん、いいの!」幼いアルヴィナは明るい声で返した。「よく考えてみたら、私、わがまま言ってたなって。お父様がどれだけお忙しいか、もっと理解してあげなきゃダメだよね」


アルヴィナは愛らしく微笑み、ケインの指を握る手に少しだけ力を込めた。


「それにね……私、ケインとお散歩できるのもすごく嬉しいよ!」


過去のケインの温もりある手から伝わっていた感触がゆっくりと薄れ、今のアルヴィナの頬を優しく撫でる夕暮れの風の音だけが残された。


アルヴィナは話の途中で一度、言葉を区切った。彼女は深呼吸をし、かすかな白い息を吐き出すと、先ほどから熱心に耳を傾けていたヴァレンへと視線を向けた。その瞳は柔らかく輝き、胸の奥に大切に仕舞い込まれていた記憶の欠片を呼び覚ましていた。


「あの日、ケインは道中ずっと私を慰めてくれたの……そして、私達がとある洋菓子店(ケーキ屋)の前に差し掛かった方向に、私の目にあなたの姿が飛び込んできたのよ」


ヴァレンは不思議そうに眉をひそめた。「洋菓子店(ケーキ屋)……?」


「ええ」アルヴィナは静かに頷いた。「店の中から漂う甘い香りはとても温かかったはずなのに……私の意識は、その近くに立っていたあなたに釘付けになってしまったの」


午前8時55分――カーテン紀元1878年12月2日


レインバーグ領の中心街、立ち並ぶ建物たちの間を歩いていた幼いアルヴィナの足取りが、ふと緩やかになった。高層の建物に挟まれた『ローワン・ケーキ』という名の洋菓子店の扉から、焼き立てのパンとキャラメルの甘い香りが漂い出し、雪の積もる小道を優しく包み込んでいた。


アルヴィナの歩調の変化に気づいたケインも足を止め、優しく身体をかがめた。「どうされましたか、アルヴィナお嬢様? こちらのお店でケーキをお買い求めになりますか?」


しかし、幼いアルヴィナは答えなかった。ケインの手を固く握りしめていた小さな指が、ゆっくりと緩んでいく。彼女の澄んだ瞳は、ローワン・ケーキのショーウィンドウに飾られた可愛らしいケーキたちには見向きもせず、その店の前に立っていた一人の少年の姿をじっと見つめていた。


突然、ヴァレンの背後にある木製の扉が開いた。ヴァレンは振り向き、中に立つ誰かと短く言葉を交わしているようだったが、アルヴィナの視線からはその扉の奥にいる人物の姿を見ることはできなかった。


木製の扉が再び静かに閉じられると、ヴァレンは身体を翻し、その視線がアルヴィナの瞳と真っ直ぐに重なり合った。


「あの……いらっしゃいませ、お買い物ですか……?」ヴァレンは少し気まずそうに声をかけた。


【第1篇】第4話 『クソみたいなシナリオ(1)』 - 完 -

次回:第1篇 第5話 『クソみたいなシナリオ(2)』



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