【第1篇】第3章 『ほんの少しだけ』
『英雄の最後の舞踏』。
それが、今やヴァレンにとっての新たな現実となった小説原稿のタイトルだ。
サイラス・メルヴィアン。
自身が強く握りしめた絶対的な『愚かさ』だけを糧に、周囲のすべてを救うために戦い続ける一人の英雄。
その『愚かさ』を抱きしめることを決して諦めない彼の姿を見つめ、『時間』そのものが幾度となく泣き叫び、悲鳴を上げたとしても。
すべてが『不可能』だと完全に理解していながらも、彼は前へと突き進み続ける。
だが……なぜだ? なぜ彼は耐え続けられるのか?
それは……
午前6時20分――カーテン紀元1889年8月4日
「……うぐっ」
途切れかけていた意識がゆっくりと浮上するとともに、口元から小さな呻き声が漏れた。重いまぶたを少しずつ開く。窓の隙間から差し込む朝の光が視界を直撃し、眩しさに反射的に瞳孔が収縮した。
身体を起こし、ゆっくりとベッドの上に腰を下ろす。
「……今、何時だ?」
視線を、一定の周期で時を刻む真鍮製の掛け時計へと向けた。
[午前6時20分]
「あぁ……」ヴァレンは重々しい溜め息を吐き出した。 「まだそんな時間か」
頭を垂れ、明確な理由もないまま急に激しく鼓動し始めた胸を押さえる。胸の奥深くに、刺すような奇妙な違和感が広がっていく。
「だけど……なんでデジャヴを感じてるんだ?」
冷ややかな静寂が瞬く間に広がり、そのミニマルな部屋を包み込んだ。ベッドのすぐ脇には整然と整頓された勉強机が立ち、控えめな彫刻が施された木製の衣装タンスと並んでいる。壁に規則正しく飾られた四枚の抽象画は、突如として奇妙に回り始めた時間の残響を静かに見守る無言の証人のようだった。
ヴァレンは自分の両手のひらを見つめた。指をゆっくりと開き、握りしめると微かに震え、肌の質感と筋肉の感覚を確かめるように——この身体が間違いなく現実のものであると噛み締めながら。
部屋のドアのすぐ脇にある真鍮製の掛け時計が、一定の周期で時を刻み続けている。
[午前6時25分]
「……」
(何かが……おかしい……)ヴァレンは胸の内に広がる不安に苛まれていた。
(早く準備を済ませた方がよさそうだ)
午前6時41分――カーテン紀元1889年8月4日
制服に身を包み身だしなみを整えると、ヴァレンはゆうべ用意しておいた革の鞄を手にとった。時間を無駄にすることなく部屋を出て、木製の階段を下りて階下へと向かう。足音が、朝の温もりに包まれた空間に静かに響いた。
「おはよう、父さん」
玄関脇の靴箱へ急ぎ足で向かいながら声をかける。 食卓についていたローワン・エインハイルが振り返った。鋭い面持ちの顔に、中年男性特有の温かな笑みが浮かぶ。
「おはよう、ヴァレン」
(やっぱりおかしい……)ヴァレンは心の中で怪しむように呟いた。
ヴァレンは膝をつき、靴を取り出した。
「父さん、母さん、行ってくるよ」
(俺の予想通りなら、母さんは奥から出てきてこう言うはずだ……)ヴァレンは探るように思考を巡らせる。
間もなくして、厨房からアンナ・エインハイルが腰に巻いたエプロンで手を拭きながら姿を現した。
「忘れ物はないかい、ヴァレン?」
ヴァレンは靴紐の結び目を整えながら軽く頷いた。「うん、全部揃ってるよ、母さん」
「それならよかったわ」
靴を履き終えたのを確認し、ヴァレンは立ち上がって鞄を肩にかけた。「行ってきます」
アンナが優しく微笑む。「ええ、気をつけてね」
二歩ほどドアの外へ踏み出したところで、ヴァレンはふと足を止めた。そして家の中へと振り返る。
「あ、そうだ、母さん」
アンナが動きを止めた。「ん?」
「ケーキの配達、帰ってきたら僕がやるよ。母さんは家で休んでて」ヴァレンは静かに告げた。
アンナは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに感極まったような笑みを浮かべた。「あらあら……学院で一日中過ごして疲れるんじゃないの?」
ヴァレンは首を横に振った。「平気だよ。それに、初日の今日は早く帰れる予定だから」
息子の凛とした言葉を聞き、アンナはついに頷いた。「それじゃあ……お願いしようかしら」
「うん」
ヴァレンの唇に微かな笑みが浮かぶ。直後、身体を翻して外のドアを開け、自宅の庭を後にして軽やかに走り出した。
「……」
敷地から離れるにつれ、口元の笑みは跡形もなく消え去った。ヴァレンの表情は一転して、極めて冷ややかで厳粛なものへと変わる。
「くそっ」
吸い込んだ朝の空気がひんやりと肺を満たす。帝国のメインストリートは、一日の活動を始める人々の行き交いで賑わい始めていた。夜明けとともに露店を並べる商人たち、交易品を運んで通り過ぎる馬車。飛び交う話し声と足音が重なり合い、街をゆっくりと起こしていく。
しかし、ヴァレンはそのすべてを無視した。彼の頭の中は、己の内に渦巻く焦燥の声で満たされていた。
(一体何が起きているんだ……?)
(なぜ俺は、またこの日に戻ってきた?)
(俺を一日の始まりへと引き戻した原因が、何かあるのか?)
(だが……それは一体何だ?)
(もしかして……あの[登場人物]たちと関係があるのか?)
(だが……アルヴィナのイベントは、本来ならここから三日後に起きるはずじゃないのか?)
(俺が眠っている間に、制御不能な何かが起きたとでも言うのか?)
「はぁ……」
ヴァレンは短く息を吐き出し、込み上げる挫折感を押さえつけるように顔を覆った。
(考慮すべき変数が多すぎる)
(それに……まだメインの[登場人物]たちが動く時期でもないのに)
(とにかく、今は……)
(昨日おこなった行動と完全に同じ振る舞いをして、展開を合わせるしかない)
(昨日……?)
歩みの途中で、ヴァレンは自嘲気味に口元を歪めた。その瞳には、深い疑念と虚無感が宿っている。
「……そもそも『昨日』なんてものが、本当にあったのか……?」
午後1時47分――カーテン紀元1889年8月4日
ヴァレンは『マニフェスト学科』本館のメインエントランスを抜け、重厚な扉のすぐ脇に静かに佇んだ。
(これでひとまず、昨日やった行動を一通り再現することには成功した。次はどう動くべきか……んー……)
(まずは仮説をひとつ検証してみよう。第一に、この時間のループは特定のイベントが原因で起きている可能性がある。[登場人物]たちに、本来起きるはずのない異常なイベントが干渉しているとしたら? それを確かめるには、陰からアルヴィナの後を追うしかない)
(けど……アルヴィナは今どこにいる?)ヴァレンは内心で焦りを募らせた。
まさにその時、ノワール・ノーチュンがマニフェスト学科の本館から軽やかな足取りで出てきた。
(しまっ……ノワールだ!)
ヴァレンは反射的に近くの支柱の陰へと身を隠した。ノワールはいつもの親しみやすい笑みを浮かべたままで、怪しむ様子もなくその前を通り過ぎていく。その背中が十分に遠ざかったのを確認すると、ヴァレンは壁裏から姿を現し、安堵の溜め息を深く吐き出した。
(助かった……よし、早く見つけないと――)
思考を完結させる間もなく、視界の先で、あの特徴的な雪色の髪をなびかせたアルヴィナのシルエットが、エヴァーガーデン学院の図書館に向かって静かに歩いているのが見えた。
(あ、見つけた!)
ヴァレンは安全な距離を保ちながら、さりげない足取りでアルヴィナの後を追った。彼女の後方から平行して歩みを進めていると、すれ違いざまに向かいから歩いてきた二人の女子生徒が、ヴァレンのすぐ近くでぴたりと足を止めた。
「ちょっと」女子生徒Aが声をひそめる。
「なぁに?」女子生徒Bが耳を寄せる。
「あの人、すごく怪しくない?」女子生徒Aは不機嫌そうな視線をヴァレンへと向けた。
「ほんとだ……なんでアルヴィナ様の後をずっと追いかけてるの?」
「変質者みたい……」
「ね、絶対そうだよ。うわっ、気味悪い……離れよ?」
「うん、そうしよ」
二人の女子生徒は心底蔑むような目を向けながら、急ぎ足で立ち去っていった。
歩みを止めないまま、ヴァレンは沸き立つ胸の苛立ちを抑え込もうと、そっと自分の胸元を押さえた。
(全部聞こえてんだよ、くそが)
図書館の入口に差し掛かろうとしたその時、アルヴィナがふと足を止めた。数歩後ろを歩いていたヴァレンも、反射的にその場に踏みとどまる。
(まずい、止まりやがった!)ヴァレンの全身に緊張が走る。
(このまま立ち止まったら余計に怪しまれる……自然なフリをしてそのまま中に入ろう)
ヴァレンは歩みを止めず、平静を装って図書館の扉をくぐった。外ではアルヴィナが佇んだまま、扉の奥へ消えていくヴァレンの背中を無言で見つめている。しかし、館内へ足を踏み入れた瞬間、ヴァレンは入口脇の窓ガラスの陰へと身を滑り込ませ、外の様子を伺った。
(中に入ってくるか……? それとも……どこかへ行き去るか?)ヴァレンは探るように外を見つめる。
間もなくして、アルヴィナが開放された扉へと歩みを進め始めた。それを見たヴァレンは瞬時にパニックに陥り、一瞬で近くの書架へと向きを変えると、棚に並ぶ背表紙を熱心に眺めるフリをした。
ガチャ……。
アルヴィナが扉を押し開き、静寂に包まれた図書館の中へと足を踏み入れる。雪髪の少女は、ヴァレンが立っている書架の通路を通り過ぎていく。正面から見る勇気のないヴァレンは、横目を軽く滑らせ、自分の脇を何事もなく通り過ぎていく彼女の姿を目で追った。
ヴァレンは押し殺していた息を、ゆっくりと吐き出した。
(ふぅ……助かった。どうやら長居するつもりみたいだな。なら、俺もここで本を読むとしよう。この世界について、学びたいことは山ほどあるからな)
時間を無駄にすることなく、ヴァレンは異なる棚から五冊の書籍を選び取ると、それらを腕の中にしっかりと抱え込んだ。
(どこに座るのがベストだ……?)広々とした豪華な室内を見渡す。
(ん?)
視線の先で、アルヴィナがすでに一つのテーブルに腰を下ろし、ヴァレンに背を向ける形で座っているのが見えた。三つほど離れた前方の中央テーブルだ。
(よし、ここにしよう)
ヴァレンは木製のデスクの上に山積みになった書籍を置き、鞄を椅子の背もたれに掛けると、ノートを取り出しながら席に着いた。
(よし……まずはこの本から読み進めるとするか)
手にとったのは、『パーティシストの基礎――ナイラ・セフィラト著』と題された一冊だった。
(早く第二段階へ到達できればいいんだが)
ヴァレンは頭を垂れ、目の前の文章に意識を集中させた。一方、前方にあるテーブルでは、アルヴィナがページの上の視線を外し、わずかに後ろを振り返っていた。彼女の透き通るような瞳が、一心不乱に本と向き合うヴァレンの姿を捉える。
(ふーん……)アルヴィナは心の中で呟いた。
静寂に包まれた図書館の中で、一時間五十三分の時間が静かに流れていった。
午後3時40分――カーテン紀元1889年8月4日
ヴァレンは両目を優しく擦り、何度やまばたきをして疲労を払うと、凝り固まった身体の筋肉をぐっと伸ばした。ストレッチを終えると、図書館の中央の柱に飾られた巨大な真鍮製の掛け時計へと視線を向けた。
(一時間以上経ったか……あっという間に二冊読み終わっちまったな)ヴァレンは満足そうに口元を緩めた。
(ん?)
ヴァレンが顔を上げると、アルヴィナが席から立ち上がるのが見えた。
(怪しまれないように、少し時間をおいてから動くか)ヴァレンは焦らず待つことにした。
しばらくして、アルヴィナが書架の通路から姿を現した。
(よし、俺も本を戻して――)
しかし、アルヴィナの足取りは出口へと向かわず、ヴァレンの動線を遮るように曲がった。そのまま真っ直ぐ、ヴァレンが座っているテーブルへと歩み寄ってくる。
(げっ……)ヴァレンは内心で頭を抱えた。
アルヴィナはヴァレンのテーブルのすぐ脇で足を止め、感情の読み取れない冷ややかな視線を彼へと投げかけた。
「あ、ハロー、アルヴィナ様。何かご用でしょうか……?」ヴァレンは声が震えないよう、必死にトーンをコントロールしながら声をかけた。
「少し、話をさせてくれないかしら……ヴァレン・エインハイル」
ヴァレンは席を立ち、慌ただしくノートを鞄へ押し込むと、デスクの上に山積みになった五冊の書籍を手にとった。
「あ、すみません、アルヴィナ様。この後急用を思い出してしまって……それでは、失礼――」
ヴァレンが歩み出そうとした瞬間、アルヴィナは彼の手首を咄嗟に掴み、その場に引き留めた。
「少しだけよ、ヴァレン」
「本当に……ほんの少しだけだから」
第3章 『ほんの少しだけ』 - 完 -
次回:第4章 『クソみたいなシナリオ』




