第一章「子供ができたの殺人事件」第一話「桜の下で、死体転がしてどないすんねん」(一)
第一話「桜の下で、死体転がしてどないすんねん」
(一)
京都府八幡市、背割堤――。
中州の奥で、柴田修一は何のためらいもなく、花束を川へ投げた。
ビシャンと、水の音がした。
白と薄桃の混じった、どこにでもありそうな花だった。
花束は水面に落ち、小さく揺れた。すぐに流されるでもなく、その場で頼りなく回っている。
柴田はその様子を黙って見下ろしていた。
明日から四月だというのに、早朝の桂川はまだ冷たい。堤に沿って並ぶ桜も、咲いているのはほんのわずかだった。
先走って咲いた花の色だけが、うっすら水面に溶け込んでいる。満開にはまだ早い。それでも桜がほころび始めると、川べりには春の気配だけが先に訪れる。
「……もう戻れん」
いや、戻る必要もない。
柴田修一という名前も、これまでの人生も、すべて捨てる。
《俺のすべては、ゆかりが死んだあの日で終わってる》
柴田は流れる花束に向かい、静かに手を合わせた。
*
俺の名前は宇賀田桔平二十九歳。
京都府警本部・捜査一課第七班 警部補や。
四月一日の朝、「コン、コン、コン」という、普段聞き慣れない音と、みそ汁の良い香りで俺は目を覚ました。非番の日に何事や、と思い、寝癖のついた髪を掻きながら、布団を這い出して台所へ向かった。
そしたら、幼馴染で京都府警本部捜査一課第七班・警部の、大月神楽様が、さも当たり前みたいな顔で料理を作っていた。
肩に触れるほどの艶やかな黒髪を後ろで束ね、白いシャツの上から花柄のエプロンを着けている。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。黙って立っとったら、昔から無駄に目を引く女や。
ただし、俺にとっては五歳の頃から人の家へ勝手に上がり込んでくる、ただの幼馴染でしかない。
「何しとんねん」
昨日まで嫌というほど、一緒におったのに、朝から何でおんねんと相当ムカついたが、俺はそういう心とは裏腹に、優しく訊ねた。
「おはようございます」
神楽はこちらを見ることなく包丁でネギを切っていた。まるで、『朝ごはん作ってますけど、何か?』と言いたげな背中のように俺には見えた。
「挨拶は、ええねん。俺が聞いてんのは、『何でお前がここにおんねん』ということや」
「そのことですか。お婆様から、桔平ちゃんの事をよろしくと、合鍵を頂いています」
「いや、そういうことやないねん」
《婆ぁから合鍵を貰うて、お前、どこまでうちに喰い込んどんねん》
そういう俺の心の声は、神楽には届くことは、一度もなかった。
「さ、もうすぐ朝ごはんが出来ますので、早く顔を洗ってきてください」
《さっきから、俺の質問になんも答えてへんな、こいつ》
「何やねん」
と、ブツブツ言いながら洗面所へ行こうとした。
「あ、桔平ちゃん」
神楽が包丁を置いて、改まった顔でこちらを向いた。
「それと、後で大事なお話があります」
と、真顔で言ったので、俺は立ちすくんだ。こういう改まった話があるというときは、いい話ではないことの方が多いからや。
その時、朝を告げる山寺の鐘がゴーンと鳴って、俺の腹に「ズドーン」と響いてきた。
うちの家は京都市北区上ノ杜町の鎮守さんで、由緒正しい「宇賀田神社」や。
京都といえば寺の町みたいなことをいわれてるけど、神社かてようけある。上賀茂や下鴨などの、観光客がわざわざ来るような大層な社はないが、敷地面積だけは山一個分あり、かなり広い。毎年、春と秋のお祭りの時は、大勢の氏子さんや地元の人が集まってくるという、そういうアットホームな神社や。
その本殿裏の離れの小屋。それが今、俺がおる家や。この家の真後ろには洞窟があって、異様な雰囲気があると言うて、都市伝説界隈では有名らしいが、俺の目からしたら、ただの洞窟やった。そやけど、ここは俺にとっては、静かで、誰にも邪魔されへん気楽な空間。
季節ごとに違う〈清々しい朝の空気〉だけが取り柄やった。
しかし、春の花の香りが漂う朝の空気は、神楽の一言で、一瞬で消えた。
顔を洗って戻ると、目の前には、卵焼きに納豆、鮭というこれぞ昭和の朝飯やと言わんばかりの料理が並んでいた。《忙しい最中、いつ料理を覚えたんやろ》と俺は、不思議に思っいながら俺は、神楽と向かい合い、落ち着かないまま箸を取った。
「赤ちゃんが出来たかもしれません」
嬉しそうに告げられた神楽の言葉とは裏腹に、俺は「くらぁ」と意識が遠のいて、箸を落とした。
「いつも遅れることはないのですが、まだ来てません」
目を伏せて、下腹部にそっと手を置く。
そういう仕草をされるだけで、こっちの腹が痛くなる。
「ど……どれくらい」
神楽に動揺していることを悟らせまいとしたが、やはり声は震えている。
「一週間です」
「そ、そうか。ま、大丈夫や」
「何が大丈夫なんですか」
「来る。きっと来る。自分を信じるんや」
その言葉を、俺は神楽にではなく、俺自身に言い聞かせていた。




