ライラ 2
カウンターの奥で、ルミアは粉々に砕けた分厚いレンズの破片をそっと拾い集めていた。
普通ならここまで粉砕されたガラスを元通りにするのは不可能だが、ルミアの修復魔法にかかれば難しいことではない。パズルのピースを合わせるように破片を並べ、指先から淡い光を流し込むと、亀裂は跡形もなく塞がり、一枚の滑らかなレンズへと戻っていく。
直していく過程で、ルミアはこのゴーグルがひどく丁寧に作られていることに気がついた。
フレームの金属は軽く、それでいて頑丈だ。顔に当たる部分の革も上質なものが使われており、長時間着けていても痛くならないように工夫されている。きっと、あの女の子が働いている配達会社の社長さんが、社員の安全を第一に考えて特注で作ってあげたものなのだろう。
ルミアは柔らかい布を手に取り、一つに繋がったレンズの表面をキュッキュッと丁寧に磨き始めた。
空を飛んで荷物を届ける仕事は、きっと私が想像する以上に過酷だ。突然の雨に降られることもあるだろうし、分厚い雲の中を飛ばなければならない日もあるはずだ。強風の中で目が見えなくなれば、どれほど怖いだろうか。
あの小さな女の子が、もう二度とあんな風に暗闇の中で怯えて泣くことがないように。
ルミアはレンズの曇りを指先で拭い去りながら、まるで神様にお願いをするような、ささやかな祈りの言葉を口にした。
「霧の中でも、綺麗な空がちゃんと見えますように」
ルミアのその純粋な言葉に呼応するように、指先からこぼれ落ちた温かいオレンジ色の光が、磨き上げられたレンズの奥深くにスゥッと吸い込まれていった。
それは、ただのガラスを磨く行為ではなかった。ルミアの修復魔法が対象の時間を巻き戻すだけでなく、彼女の祈りが物理的な概念を超越して、道具そのものに新たな理を刻み込んだ瞬間だった。
どんな暗闇や魔法の瘴気の中であっても決して視界を奪われない暗視の力。
そして、見据えた対象を絶対に逃さず、放った攻撃が必ず命中する絶対必中の力。
王国の天才錬金術師たちが一生をかけても到達できない規格外の魔導機能が、街の修理屋のカウンターの上で、たった数分のうちにあっさりと付与されてしまったのだ。
しかし、ルミア本人はそんな恐ろしい奇跡が起きていることなど知る由もない。
彼女はピカピカになったゴーグルを満足げに太陽の光に透かすと、切れかかっていた革のベルトを新しいものに付け替え始めた。
その頃、ふかふかのソファに座っていたライラは、ルミアが出してくれた星型のクッキーを両手で大切に抱えるようにしてかじっていた。
サクッとした軽い歯触りの後に、バターと砂糖の甘い香りが口いっぱいに広がる。
それは王宮で出されるような、複雑な細工が施された高級な洋菓子ではなかった。だが、素朴で優しいその味は、冷え切って縮こまっていたライラの心を根元から解きほぐしていくようだった。
一口食べるごとに、脳裏に焼き付いていた魔竜の黒い瘴気や、部下たちの悲鳴が薄れていく。代わりに、さっき自分の頭を撫でてくれたルミアの温かい手の感触が蘇ってくる。
私はまだ子供で、配達中に迷子になって泣きじゃくっているだけの、ただの女の子なんだ。
ルミアの平和すぎる勘違いに巻き込まれているうちに、ライラは自分が背負っていた竜騎士部隊長という重圧から解放され、すっかり元気を取り戻していた。
もう、空を飛ぶのは怖くない。
ライラが最後の一口を飲み込み、ミルクで喉を潤した絶妙なタイミングで、カウンターからルミアが戻ってきた。
「お待たせしました。レンズも革のベルトも、綺麗に直りましたよ」
ルミアの手に握られているものを見て、ライラは大きく目を見開いた。
粉々に砕け散っていたはずの千里眼のゴーグルが、傷ひとつない完璧な姿でそこにあった。いや、元通りになっただけではない。レンズは以前よりも遥かに高い透明度を保ち、見る角度によって虹色に輝く不思議な魔力を内包しているのがわかる。
「空の上は風が冷たいでしょうから、隙間風が入らないようにベルトの革も少しだけ丈夫なものに変えておきました。お顔にフィットするか、一度着けてみてね」
促されるままに、ライラは震える手でゴーグルを受け取り、自分の頭に装着した。
その瞬間、ライラの視界に広がる世界が劇的に変貌した。
信じられないほど、何もかもがはっきりと見える。
木製のドアの表面にある微細な木目。空中を漂う微小な埃の粒。そして、窓の外を吹き抜ける風の魔力の流れまでが、まるで手に取るように鮮明に視覚化されている。
試しに、窓の外の遠くに見える時計塔の先端に意識を集中してみる。すると、視界の中心にピタリと不可視の照準が合い、今手元から魔法を放てば、百発百中でその一点を撃ち抜けるという絶対的な確信が脳内に直接流れ込んできた。
千里眼のゴーグルの機能が、以前とは次元の違うレベルにまで引き上げられている。
これがあれば、魔竜が吐き出すどんなに濃密な黒い瘴気の中であっても、真昼のように周囲を見渡すことができる。敵の急所を的確に捉え、部下たちに完璧な指示を出すことができる。
この人は、一体何者なのだ。
王家が管理する国宝級の魔導具を、いとも簡単に修復しただけでなく、神具の領域にまで進化させてしまうなんて。
ライラはゴーグル越しにルミアを見上げた。
しかしルミアは、ライラが世界を覆すほどの力を手に入れたことなど微塵も気付かず、空になったクッキーの皿を見てニコニコと微笑んでいるだけだった。
「クッキー、全部食べてくれたのね。美味しかった?」
その無防備で優しい笑顔を見た瞬間、ライラの中で渦巻いていた疑問や警戒心は、春の雪のようにあっさりと溶けて消えてしまった。
この人が何者であろうと関係ない。彼女は自分が困っている時に助けてくれて、甘いお菓子で慰めてくれて、そして再び空を飛ぶ勇気をくれたのだ。
ライラはゴーグルをおでこの上にずり上げると、ソファから勢いよく立ち上がった。
「ありがとう、お姉ちゃん。クッキー、すっごく美味しかった。私、もう一度飛べるよ。今度こそ、荷物をちゃんと届けてみせる」
「うん、その意気よ。でも、無理はしちゃダメだからね。危ないと思ったら、すぐに安全なところに降りるのよ」
ルミアの言葉に、ライラは満面の笑みで大きく頷いた。
胸の奥から、熱い闘志と自信がとめどなく湧き上がってくる。今の自分とこのゴーグルがあれば、魔竜の軍勢など恐れるに足らない。必ず部下たちを救い出し、王国の空を守り抜いてみせる。
店を出ようとドアノブに手をかけたライラは、ふと振り返ってルミアを見た。
「あのね、お姉ちゃん。私、決めた」
「ん? 何を決めたの?」
「お姉ちゃん、ここは私の秘密基地にする」
ライラの無邪気な宣言に、ルミアは目を丸くした後、ふふっと楽しそうに笑い声を上げた。
「秘密基地ね。いいわよ、いつでも休憩しにおいで。今度は違う味のクッキーを焼いて待ってるからね」
「うん。約束だよ」
ライラは力強く手を振ると、勢いよく店の外へと飛び出していった。
ルミアが店の窓から外を覗くと、路地裏の空き地に立っていたライラが、指を咥えて鋭い指笛を鳴らすのが見えた。
空の彼方から、凄まじい風圧と共に巨大な影が舞い降りてくる。
青黒い鱗に覆われた、見上げるほど巨大な空飛ぶトカゲ。王国最強の航空戦力である飛竜だ。
しかし、ルミアはそれを見てのんきに感心していた。
配達の会社で飼っている鳥って、すっごく大きいのね。あれなら重い荷物でも遠くまで運べそうだわ。爬虫類みたいでちょっと怖い顔をしてるけど、働き者なんだろうな。
ライラは飛竜の背に軽やかに飛び乗ると、おでこに乗せていたゴーグルをスッと下ろした。
絶対必中と暗視の力を得たレンズの奥で、若き竜騎士の瞳が鋭く光る。
「行くよ。私たちの空を取り戻しに」
ライラの掛け声と共に、飛竜が力強く大地を蹴った。
凄まじい突風が路地裏のゴミ箱を吹き飛ばし、巨大な影はあっという間に上空の分厚い雲の中へと吸い込まれていった。
残されたルミアは、空の彼方へ消えていく小さな配達員の姿を見送りながら、彼女の仕事が無事に終わることを祈って、優しく手を振っていた。




