ライラ 1
王都の東区、星屑のお直し工房の平和な昼下がりは、鼓膜を劈くような凄まじい轟音によって突如として破られた。
ズドーン、という地響きと共に、店内の棚がガタガタと揺れ、天井からパラパラと細かな埃が落ちてくる。
ルミアは手元にあった修理中のオルゴールを慌てて抱え込むと、目を丸くして立ち上がった。
地震だろうか。いや、それにしては揺れが一瞬で収まった。まるですぐ近くの空き地に、巨大な隕石でも落ちてきたような衝撃だった。
ルミアが恐る恐る工房の木の扉を開けて外を覗き込むと、路地裏の突き当たりにある古い空き地に、もうもうと土煙が上がっているのが見えた。
その土煙の中から、ふらふらとした足取りで歩いてくる小さな影があった。
「うっ、ひぐっ……うわぁぁぁん」
子供の泣き声だった。
ルミアが駆け寄ると、そこには頭からすっぽりと分厚い革のコートを被った、十代半ばほどの小柄な少女が立ち尽くしていた。
彼女の顔や服は真っ黒な泥と煤にまみれ、あちこちに痛々しい擦り傷ができている。そしてその両手には、レンズが粉々に砕け散り、革のベルトが千切れた大きなゴーグルが、まるで宝物のように大切に抱きしめられていた。
「どうしたの。高いところから落ちちゃったの。お怪我は」
ルミアがハンカチを取り出しながら目線を合わせると、少女はルミアの顔を見て、さらに大粒の涙をボロボロとこぼし始めた。
「私の、私のせいで……。前が、見えなくて……みんなが……」
過呼吸気味に泣きじゃくる少女の背中を、ルミアは優しくさすってやった。
少女の名は、ライラ。
彼女はただの迷子でも、不幸な事故に遭った子供でもない。王国が誇る最強の航空戦力、飛竜部隊を率いる若き天才竜騎士である。
つい先ほどまで、彼女ははるか上空の分厚い雲の中で、魔竜が放った無数の飛行型魔物と死闘を繰り広げていた。
敵が吐き出す濃密な黒い瘴気の中では、視界は完全に奪われる。
そんな絶望的な空の戦場において、ライラたち竜騎士の命綱となっているのが、王家の宝物庫から特別に支給された魔法の魔導具、千里眼のゴーグルだった。
濃霧や瘴気を透視し、遠く離れた敵の魔力反応を正確に捉えることができる規格外のアーティファクト。これがあるからこそ、ライラは部隊の先頭を飛び、完璧な指示を出して空の防衛線を死守することができていたのだ。
しかし、先ほどの戦闘で悲劇は起きた。
瘴気の死角から放たれた敵の不意打ちの魔法弾が、ライラの顔面を直撃したのだ。
間一髪で飛竜が首を振って庇ってくれたおかげで命は取り留めたものの、顔を覆っていた千里眼のゴーグルは魔力回路ごと無惨に砕け散ってしまった。
視界を完全に奪われ、方向感覚すら失ったライラは、黒い雲の中で完全に孤立した。パニックに陥る相棒の飛竜。彼女を庇うために陣形を崩した部下たちが、次々と敵の鋭い爪に切り裂かれ、悲鳴を上げて墜落していく音が無線越しに響いた。
なんとか命からがら撤退の指示を出し、自身も王都のはずれへと不時着したライラだったが、部隊は壊滅状態に陥ってしまった。
若くして部隊長を任された最強の天才という重圧。
そして、自分のたった一度のミスで、信頼する部下たちを死の危険に晒してしまったという取り返しのつかない罪悪感。
砕け散った千里眼のゴーグルは、もう二度と直らない。王国の空は、明日にも魔竜の軍勢に覆い尽くされてしまうだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私が未熟なばかりに……」
泣き崩れるライラの耳に、ひどく穏やかな、春の陽だまりのような優しい声が届いた。
「よしよし、痛かったね。怖かったね」
頭の上に、ふわりと温かい手が乗せられた。
ライラが驚いて顔を上げると、そこには自分を責める上官でも、失望の目を向ける部下でもない、エプロン姿の見知らぬ女性が優しい微笑みを浮かべて立っていた。
「高いところを飛ぶお仕事って、本当に大変だよね。きっと大きな鳥に乗って、毎日いろんなところに配達に行ってるんでしょう」
「……えっ。はいたつ、鳥」
ライラはしゃくり上げながら、ぱちぱちと瞬きをした。
目の前の女性はどうやら、自分が着ている厚手の防風コートとゴーグルを見て、巨大な鳥に乗って荷物を運ぶ、民間の空輸配達員だと勘違いしているらしい。空中でバランスを崩して、荷物ごと不時着してしまったドジな女の子だと。
「風が強いと目を開けていられないし、ゴーグルが割れちゃったら、前が見えなくて怖かったよね。周りの鳥さんたちとぶつかりそうになっちゃうもんね」
その的外れで、あまりにも平和すぎる勘違いに、ライラは言葉を失った。
自分は王国最強の竜騎士で、今まさに空の防衛線が崩壊したというのに。この女性は、配達ルートを外れて迷子になった子供をあやすように、ライラの頭をポンポンと撫で続けている。
「さあ、こんなところで泣いてないで、お店の中に入って。泥を拭いて、温かいものでも飲みましょう」
ルミアはライラの手を引き、半ば強引に星屑のお直し工房の中へと連れ込んだ。
カランコロンとベルが鳴り、静かで温かい空気がライラを包み込む。先ほどまでの血と瘴気の匂いが嘘のように、店内にはハーブティーと甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
ルミアはふかふかのソファにライラを座らせると、温かく湿らせた柔らかいタオルを持ってきて、ライラの顔の泥や煤を丁寧に拭き取り始めた。
「痛くない? 擦り傷には後でお薬を塗っておくからね。それにしても、配達の会社も無茶をさせるわね。こんな小さな女の子に、あんなボロボロになるまで飛ばせるなんて。ちゃんと組合に文句を言ったほうがいいわよ」
ぷんぷんと怒りながら泥を拭いてくれるルミアの手つきは、ひどく優しかった。
軍隊に入ってから、ただ最強の駒として扱われ、誰かに頭を撫でられたり、怪我を心配されたりすることなど一度もなかったライラにとって、その無償の優しさはあまりにも強烈だった。
気がつけば、ライラの目から再び大粒の涙が溢れ出していた。
今度は絶望の涙ではない。張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、張りボテの天才竜騎士から、ただの弱い女の子に戻ってしまったことによる安堵の涙だった。
「ひぐっ、ううっ……」
「あらあら、まだ痛かった? ごめんね、もう拭き終わるからね。そうだ、今朝焼いたクッキーがあるの。甘いものを食べたら、きっと元気が出るわ」
ルミアが小皿に乗せて出してくれたのは、星の形をした手作りのクッキーと、たっぷりのミルクが入ったマグカップだった。
ライラは震える両手でマグカップを受け取り、一口飲んだ。じんわりとした甘さが、冷え切っていた胃の腑から全身へと染み渡っていく。
本当に、不思議な空間だった。
さっきまで王国の危機を背負って死にかけていたというのに、このエプロン姿のお姉さんの前にいると、自分の悩みがただの配達中の小さなトラブルのように思えてくる。
「さてと。それじゃあ、お姉さんはその壊れちゃったゴーグルを直そうかな」
ルミアはライラがテーブルの上に置いていた、粉々に砕けた千里眼のゴーグルをヒョイと持ち上げた。
「あ、ダメ……それは」
ライラは慌てて手を伸ばした。
それはただのガラスのゴーグルではない。古代の錬金術の粋を集めた、国宝級の魔導具なのだ。一度レンズの魔力回路が砕け散ってしまえば、王宮の筆頭魔法使いを集めても二度と元には戻せない。
下手に素人が触れば、残った魔力が暴走して怪我をするかもしれない。
しかし、ルミアは割れたゴーグルをまじまじと見つめながら、ふうむと小さく首を傾げた。
「随分と分厚いガラスを使ってたのね。これじゃあ、ちょっとでもヒビが入ったら前が見えなくて危ないわ。配達の途中でまた割れちゃったら大変だし、絶対に割れないように、お姉さんが特別に丈夫にしてあげるね」
ルミアはそう言うと、カウンターの奥へとゴーグルを持っていってしまった。
ライラは呆然とソファに座ったまま、クッキーをかじることしかできなかった。
絶対に割れないようにする。
そんなことができるはずがない。そもそも、あのゴーグルはガラスではなく、希少な魔石を削り出して作られたものなのだ。街の修理屋の少女に直せるような代物ではない。
でも。
不思議と、ライラはルミアを止める気にはなれなかった。
この温かくて優しいお姉さんが、自分のために一生懸命何かをしてくれようとしている。その事実だけで、空を飛ぶのが怖くなって暗闇に怯えていたライラの心が、少しだけ救われたような気がしたからだ。
カウンターの奥から、トントンという小さな音と共に、淡いオレンジ色の優しい光が漏れ始めていた。




