第八話 妹が返事をする番
「嘘だ。」
田中さんが、報告書を握ったまま一歩踏み出した。
「嘘だ、そんなの。あんたみたいなガキに、何ができたっていうんだい。」
父が、私の前に立った。母がその隣に並び、菫が私の腕を引いて、自分の背中の後ろに入れようとする。
妹にかばわれるのは、たぶん生まれて初めてだ。
私は菫の肩越しに、床に座りこんだままの芹奈さんを見た。
「父も母もA型。A型とA型からB型は生まれない。」
「両親の血液型は、母子手帳と献血カードで確認してある。取り替えに成功していても、血液型までは隠せない。」
芹奈さんの唇が動いた。
「……Bです、って。」
自分の声を、確かめるみたいに繰り返す。
「私、車の中で……。」
その先は続かなかった。3日前、後部座席で、自分の口で答えたことだ。
私は、田中さんに視線を移した。
報告書は、まだ彼女の手の中にある。握りしめすぎて、紙の端がよれていた。
「あなたが20年憎んで育てたのは、あなた自身の娘。」
田中さんの顔が、白くなった。
「20年前の連れ去りは、もう罪に問えない。だからあなたは、自分の娘に裁かれる。」
時効は、とうに過ぎている。菫が5歳になった2011年に、刑事の時効は完成していた。
昨夜のうちに、弁護士に確かめてある。
田中さんは何か言おうとして、口を開けたまま、娘のほうを見た。
芹奈さんは、母親を見ていなかった。
「芹奈さん。」
私が呼ぶと、ようやく顔が上がった。
「別宅は今日中に。荷物の運び出しと鍵の返却は、うちの弁護士が立ち会います。」
芹奈さんは、父と母のほうを見た。
何かを待つ目。昨日までなら、母はきっと何か言っていた。
母は、父の袖を握ったまま黙っていた。父は、ゆっくりと首を横に振った。
「……荷物は、弁護士さんと一緒に。鍵は、そちらに返してください。」
父の敬語は、他人に向ける種類のものだ。
「……分かりました。」
芹奈さんは、私のほうを見なかった。お姉さん、とも呼ばなかった。
「それから、この数日で菫について流れた話は、一つずつ清算する。」
雅臣が、びくりと肩を揺らす。私は彼には何も言わず、菫の手を取って説明室を出た。
*
帰りの車の中で、母が後部座席から身を乗り出してくる。
「薫子。あなた、どうして今まで言わなかったの。」
「夢だと思ってたの。」
私は前を見たまま答えた。
「五歳の子が見た夢。大人になるころには、自分でもそう思ってた。指輪を見るまで。」
「……そんな大事なこと、夢にしちゃだめでしょう。」
母の声が、途中で湿った。
運転席の父は、しばらく黙ってハンドルを握っていた。赤信号で止まったとき、ぽつりと言う。
「あのとき、俺は、お前を叱ったな。」
「叱られた。余計なことをするな、って。」
「……。」
信号が青に変わる。父は、アクセルを踏みながら笑った。
「さすが俺の娘だ。五歳でそれか。」
「あなた、今それ言う?」
母が呆れた声を出す。菫が、私の隣で小さく吹き出した。
本邸に着くと、父は書斎から一通の封筒を持ってきた。
「本当は来月渡すつもりだったんだがな。」
中身は辞令だった。鷲尾ホテルマネジメント株式会社、代表取締役社長。
取締役会の決議は、先週のうちに済んでいたらしい。
「グループのホテル事業、全部だ。従業員640人。お前に任せる。」
「……ご褒美が仕事なのね。お父さん、休暇って知ってる?」
「本社の仕事も、今までどおり頼むぞ。」
「聞いてない。」
母が、父の手から辞令をすっと抜き取った。
「はい、薫子。おめでとう。この人の話は長くなるから、ここまで。」
父は何か言いかけて、口を閉じる。
その週のうちに、両親は菫に、服やら旅行のパンフレットやらを山のように買ってきた。菫は困った顔で、それを全部リビングに積み上げている。
私は両親をダイニングに座らせた。
「一つだけ、お願いがあるの。」
「なんだ。」
「確かめる前に、家に人を入れないで。娘かもしれない、と言われても。まず私に電話して。」
父と母は、顔を見合わせた。
それから、二人そろって頷く。
芹奈さんの荷物が弁護士の手で運び出され、別宅の暗証番号が変わった夜、母は自分のスマホから、芹奈さんの連絡先を消した。
*
鑑定の結果を受け取ってから、1週間後。
澄丘大学の経済学部棟は、朝から雨だった。
学部長室の入口の傘立てには、誰かの傘の雫が溜まって、受け皿の縁まで水が張っていた。
「鷲尾菫さん。」
学部長は、白髪の穏やかな男性だった。私ではなく、菫の正面に立った。
「本学の学生によって、あなたの名誉を傷つける投稿がなされ、学内外に広まりました。事実確認に時間を要し、その間あなたを守れなかったことを、大学としてお詫びいたします。」
そう言って、深く頭を下げた。
菫は、どうしていいか分からない顔で私を見た。
「菫が答えていいのよ。」
「……あ、あの。頭、上げてください。」
学部長が顔を上げる。机の上のタブレットを、菫のほうへ向けた。
大学の公式サイトのお知らせ欄。同じ文面が、大学の公式アカウントからも出ている。
【本学学生に関する匿名アカウントでの一連の投稿について、本学は必要な事実確認を行いました。当該投稿は事実無根であり、当該学生の名誉を著しく損なうものです。】
名前も、鑑定の中身も書かれていない。書かれているのは、あの投稿が嘘だという一点だけ。
「元の投稿を見た人数より、多くの人に届くように出しています。」
学部長が言った。
「関係した学生については、今後、学則に基づいて個別に手続きを進めます。」
菫は、タブレットの画面を長いこと見ていた。
*
半年後。
大学の小さな会議室に、弁護士と学生課の職員さん、そして菫と私が並んだ。
「発信者情報の開示を経て、投稿、転載、ダイレクトメッセージや電話による嫌がらせについて、行為者を特定しました。」
弁護士が、書類を一枚ずつめくる。
「学生12人、学外の者7人です。」
学生課の職員さんが、続けて口を開いた。
「学生については、本人からの聴き取りを経て、学則により処分が決定しました。停学3人、訓告9人です。最初に投稿を持ちこんだ学生は、停学の中に含まれます。」
「学外の7件は、行為ごとに刑事告訴と民事の請求を行っています。そのうち示談が成立したものは、計240万円です。」
菫は、膝の上で指を組んだまま聞いていた。
「それから、本日、学生のうちの一人が、直接お詫びをしたいと申し出ています。ご両親も同席を希望されています。菫さんがお会いになるかどうかは、菫さんが決めてください。」
菫は、少しだけ考えた。
「……会います。」
扉が開いて、同い年くらいの女の子が入ってきた。後ろに、スーツの父親と、ハンカチを握った母親。
女の子は、菫の前で頭を下げた。
「鷲尾さん。」
声が震えていた。
「私、何も確かめないで、鷲尾さんのこと、偽者って書きました。本当のことみたいに書いて、みんなに回しました。」
顔を上げない。
「友達が、そう言ってたから、って、思ってました。でも、確かめなかったのは私です。本当に、すみませんでした。」
両親も、娘の後ろで深く頭を下げた。
菫は、しばらく女の子のつむじを見ていた。
「……受け取る。」
女の子の肩が、小さく揺れた。
「謝ってくれたことは、受け取る。」
菫は、それ以上は何も言わなかった。
親子三人が出ていくと、学生課の職員さんが菫に向き直った。
「菫さん、それで、今後のことですが。休学や、他大学への転学のご相談も、お受けできます。」
「辞めません。」
菫の答えは早かった。
「サークルもあるし、ゼミも決まったし。私、何も悪いことしてないから。」
会議室を出ると、廊下の先の学生課の窓口に、見覚えのある背中が立っていた。
芹奈さんだった。
窓口の職員に、書類を一枚差し出している。
「退学届です。」
それだけ聞こえた。芹奈さんは、こちらに気づかなかった。
気づかないふりをしたのかもしれない。
菫は、その背中を一度だけ見て、それから自分の鞄を開けた。
来期の履修資料の束を取り出し、角をそろえて、クリアファイルに挟み直す。
それを、鞄のいちばん奥にしまった。




