終話 お姉ちゃんの隣
一条家の三人が本邸を訪ねてきたのは、あの謝罪の席から2週間ほど経った、土曜の午前だった。
インターホンの画面に、スーツ姿の雅臣と、その両親が並んで映っている。
「私が出る。」
菫が、私より先に玄関へ向かった。
私は、玄関ホールの奥の柱のそばで足を止めた。そこからなら、開いた扉の向こうまで見える。
扉が開く。
一条のお父様とお母様が、そろって頭を下げた。その少し後ろで、雅臣も腰を折る。
「このたびは、息子が大変なご迷惑を。」
「菫さん。警察署でのことも、そのあとのことも、本人から聞きました。申し訳ない。」
「……ご丁寧に、ありがとうございます。」
菫は、背筋を伸ばして答えた。新歓でしか使わない、よそ行きの声だった。
「菫……さん。」
雅臣が、顔を上げかけた。
「お姉さんに、直接、お詫びをさせてもらえないかな。」
「姉は会いません。用件は私が聞きます。」
雅臣の目が、菫の肩越しに奥を探した。柱のそばの私と、視線がぶつかる。
私は動かない。
雅臣が、もう一度頭を下げた。
一条のお母様が、口を開いた。
「ご報告もございます。雅臣は、鷲尾さんとの共同事業の担当から外れました。」
「一条の後継についても、当主が正式に決めました。雅臣は候補から外して、今後は甥と、雅臣の妹に任せることになります。」
雅臣は、母親の隣で、ずっと床を見ていた。
「……分かりました。姉と、両親に伝えます。」
菫が一礼して、扉を閉めた。
ロックの落ちる音がして、菫がくるりと振り返る。
「お姉ちゃん、今の、ちゃんとできてた?」
「完璧。」
菫は、ふう、と長い息を吐いて、少しだけ胸を張った。
*
雅臣から電話がかかってきたのは、それからひと月ほどあとの夜だ。
汐庭レジデンスの私の部屋で、伊織がソファの半分を占領していた。
同じ建物に自分の部屋を持っているくせに、この人は、ここ何か月か帰らない。私が、それを許している。
テーブルの上で、私のスマホが震えた。知らない番号。
私は画面を伊織に向けて、顎で示した。伊織が、代わりに出る。
「はい。」
『……あの、夜分にすみません。鷲尾薫子さんに、代わっていただけますか。』
雅臣の声だった。
伊織が、私を見た。私は首を横に振る。
伊織はスピーカーのボタンを押して、スマホをテーブルに置いた。
「本人は、今は出られない。伝言なら聞く。」
『……二階堂か。』
「そう。どうぞ。」
『そこにいるなら、聞いてほしい。』
『冷血だなんて言って、悪かった。まだ君が好きなんだ。もう一度、やり直せないか。』
伊織は、最後まで黙って聞いていた。それから、私のほうを見た。
「お断りします。」
私は、スマホに向かって言った。一度だけ。
伊織が、スマホを取り上げた。
「だそうです。それと、うちのお嬢様の隣、競争率高いんで。」
返事を待たずに通話を切る。そのまま、慣れた手つきで番号を着信拒否の一覧に放りこんだ。
「……妬いてる?」
「妬く? あれに?」
伊織は鼻で笑って、私の肩を抱いた。
「毎回、自分の都合のいいときだけ謝る顔してる。見てるだけで疲れる。」
この人の口は、上下を閉じるだけで自分に毒が回りそうだ。
「なあ、薫子。いつ、ご両親にちゃんと挨拶させてくれる?」
「知らない仲じゃないでしょう。自分で行けば。」
「お前に連れてってもらわないと、意味がない。」
伊織の指が、私の頬をつまんだ。
*
伊織が大阪に出張した週の水曜、菫が私のマンションにやってきた。
授業が休講になったから、と言いながら、両手にスーパーの袋を下げている。
菫は、私がほとんど使っていないキッチンで、手際よく火をつけた。
1時間後、テーブルには五品が並んでいた。肉じゃが、だし巻き、ほうれん草のおひたし、鮭の塩焼き、豆腐の味噌汁。
「お姉ちゃん、また冷蔵庫に炭酸水しか入ってなかった。」
菫は、盛りつけに使った菜箸を置いた。片方だけ、柄の模様が薄くなっている。
「伊織が入れてるのよ、炭酸水。」
「……あの人が。」
菫が、ふん、と鼻を鳴らした。
「お姉ちゃんの面倒見るのは、私が一番なんだからね。あの人には負けないから。」
「勝ち負けなの?」
「勝ち負けだよ。」
菫は、私の茶碗にご飯をよそいながら言った。
「あの人、昔、お姉ちゃんのこと泣かせたでしょ。」
「泣いてない。」
「泣いてた。夜中に、部屋で。私、知ってるもん。」
私は、何も言い返さなかった。
伊織とよりを戻したのは、あの鑑定の年の暮れだ。このマンションの暗証番号を教えたのは、春になってから。
「……結婚しても、義兄さんとは呼びたくない。」
「まだ、そんな話は出てない。」
「出たら、の話。」
菫が、テーブル越しに身を乗り出して、私の湯呑みにお茶を足した。
胸元で、細い鎖に通したリングが揺れる。おばあちゃんが誂え直してくれた、二本目の指輪。
私は手を伸ばして、それを指先でつまんだ。
「なに?」
「なんでもない。」
指を離すと、リングは菫の胸元に戻った。菫は首を傾げて、それから、肉じゃがの皿を私のほうへ押しやった。
*
ホテル翠庭の会員制ラウンジへは、打ち合わせで週に一度は通っている。
その日、エレベーターを降りた廊下の先、ラウンジの入口の手前で、言い争う声がする。
女の人が、若い女性の手首をつかんでいた。
田中さんだった。
あの日よりずっと痩せて、コートの肩が余っている。頬がこけて、目だけが大きく見えた。
手首をつかまれているのは、芹奈さんだった。髪を明るく染めて、耳に大ぶりのピアスが光っている。
私は、廊下の柱の陰で足を止めた。
「芹奈、帰っといで。」
田中さんの声には、あの日の尖りがなかった。
「まだ若いんだから、浪人して受け直せばいいじゃないか。大学、行きたかったんだろ。」
「大学なら辞めた。奨学金も、それで終わり。」
芹奈さんは、母親の手を振りほどこうとしていた。
「一条って人の愛人やってたけど、先月捨てられた。連絡しても、もう出ない。」
芹奈さんの声が、廊下に響いた。
「全部聞いたからね。あの日のあと、あんたが酔っ払って電話してきたときに。」
田中さんの手が、ふっとゆるんだ。
「あんた、あの白杜産院で看護師やってたんでしょ。妊婦健診の記録を見て、お金持ちの奥さんの予定日を調べて。自分も同じ日に産めるように、計画分娩にして。」
「芹奈。」
「次の朝、自分で両方の部屋を見回って、名札が元のままなのを見て、うまくいったって思いこんで。」
芹奈さんの声は震えていなかった。
「それから20年、あの子の卒業式も入学式も、遠くから写真撮って。一回も声かけられなかったくせに。私のことは、毎日叩いたくせに。」
田中さんの体が、ふらりと沈んだ。
廊下の床に膝をついて、娘の手首にすがりつく。
「お母さんが悪かった。帰ってきてよ。」
芹奈さんは、見下ろしたまま動かなかった。
「あたし、病気でさ。長くないって、医者に言われたんだよ。」
芹奈さんの手が、母親の指を一本ずつ外した。
最後の一本を外して、その手を振り払う。
「報いよ、あんたの。」
芹奈さんは踵を返して、エレベーターのほうへ歩いていく。ヒールの音は、一度も乱れなかった。
廊下に、田中さんだけが残った。床に膝をついたまま、振り払われた手を、もう片方の手で包んでいる。
私は柱の陰から出て、どちらにも声はかけなかった。どちらが正しいかを決める役は、私のものではない。
ラウンジの受付で名前を告げ、いつもの席に通される。
*
それから、2年が経った。
夢の中で、私は五歳だった。
白杜産院の、薄暗い個室。母のコートの下で、私はぐっすり眠っている。
ドアが開いても、閉まっても、目を覚まさない。
場面が飛んで、本邸の食卓。
椅子が一つ、足りなかった。
誰も、それをおかしいと思っていない。母が、知らない女の子の皿に肉じゃがを取り分けている。
目が覚めたとき、背中が汗で冷えていた。
「……薫子?」
隣で、夫が身じろぎした。
伊織は私の背中に手を回して、ゆっくりさすった。
「どうした。お兄さんに話してみる?」
「……誰がお兄さんよ。」
私は、その胸に額を押しつけた。
「菫が、本当に取り替えられてた夢。」
伊織の手が一度止まって、また動きはじめる。
「夢だよ。菫ちゃんは、今ごろ自分の部屋で寝てる。」
「……うん。」
「明日、妹を呼ぶ。晩飯、一緒に食おう。」
伊織が、小さくため息をついた。
「結婚しても、俺は妻の妹より下か。」
「知ってて結婚したんでしょう。」
「知ってた。」
伊織は、ずれた掛け布団を私の肩まで引き上げて、その上からもう一度、背中をぽんと叩いた。




