第七話 否定、否定。それから、私
羽澄DNA鑑定センターの説明室は、思っていたより狭かった。
長机が一つと、椅子が八脚。壁際の給水機には、ふつうより一回り小さい紙コップが重ねてある。
父と母が並んで座り、その隣に私と菫。向かい側に芹奈さんと、付き添いを名乗ってついてきた雅臣。
菫は来るまでの車の中で、一言も喋らなかった。今は膝の上で、私の上着の裾をつまんでいる。
「お待たせいたしました。」
係の女性が、封のされた白い封筒を二通、机の上に置いた。
「先日採取させていただいた検体の、鑑定結果でございます。受検者ご本人様の同意にもとづき、ご家族様、お付き添いの方の立会いのもとで開封いたします。」
封筒の口には、採取の日に本人たちが署名した封印紙が、そのまま貼られている。
「芹奈さん。」
私は、向かいの席に声をかけた。
「これは、あなたが自分で身分証を出して、係の人の前で口の中をこすって、自分で署名して封をした検体の結果。裁判にも出せる、法的鑑定。それは分かってる?」
芹奈さんは、少し不思議そうに私を見た。
「はい。分かってます。」
「いいから、早く開けてよ。」
雅臣が、机を指で叩いた。
「ここまで来て、もったいぶる意味ある?」
芹奈さんの結果が出れば、自分の次の婚約者が決まる。そういう顔。
私は、一通目の封筒に手を伸ばした。
*
廊下のほうで、誰かが怒鳴っている。
「ちょっと、お客様、困ります。」
係員の制止を振り切るように、説明室の扉が開く。
入ってきたのは、中年の女性。
白髪の交じった髪をひとつに束ね損ねて、ほつれた毛が頬に張りついている。安物のダウンのファスナーが、半分開いたまま。
女は部屋の中を一度見回し、芹奈さんの上で目を止める。
そのまま机を回りこみ、振り上げた手で、芹奈さんの頬を張った。
乾いた音が、狭い部屋に響く。
「帰りな。」
「……っ。」
芹奈さんが、頬を押さえて女を見上げた。
「実の親を捨てて、よその家の子になろうってのかい。いい度胸だね。」
「なんで、ここに……。」
「あんたが送ってきたんだろうが。今日ここで、あたしたちとは縁が切れるって、ご丁寧に時間まで。」
雅臣が、慌てて立ち上がった。芹奈さんと女の間に、体を割りこませる。
「ちょっと、あなた誰ですか。いきなり手を上げるなんて。」
「この子の母親だよ。」
「母親……じゃあ、あなたが。」
雅臣は、女を上から下まで眺め回した。
「あなたが、赤ん坊を取り替えた人か。」
「何の話だい。」
女は鼻で笑った。
「この子は、あたしが腹を痛めて産んだ子だよ。」
父と母が、女の顔をじっと見ていた。二人とも、記憶のどこかを探す目をしている。
やがて母が、小さく首を振った。知らない人、という意味だ。
私にも、見覚えはない。あの夜の廊下で見たのは、入院着の背中だけだった。
「あの……指輪は。」
母が、かすれた声で聞いた。
「芹奈さんが持ってきた、うちの母が菫に誂えた指輪です。あれは、どうしてあなたの家に。」
「帰りな。その指輪は、あたしが拾ったんだよ。」
女は、母のほうを見もしなかった。
「昔、道で拾って、偽物だと思って引き出しに放りこんどいたのさ。それをこの子が盗んだ。」
「嘘。」
芹奈さんが、頬を押さえたまま声を張った。
「酔っ払って言ってたじゃない。産院で、金持ちの家の赤ちゃんと取り替えたって。予定日より前なのに、無理やりその日に産んだって。」
「酔っ払いの寝言を真に受けてんじゃないよ。」
「寝言なら、なんであんな写真持ってるのよ。」
「うるさいね。」
「あんたの子じゃないから、20年、私をこき使ったんでしょ。」
「あたしの子じゃなかったら、20年も食わせてやるもんかい。とっくにどっかに捨ててるよ。」
「捨てなかったのは、老後の面倒を見る人間が欲しかったからでしょ。」
田中さんの手が、もう一度上がりかけた。父が、その腕の前に立った。
「ここでは、やめていただきたい。」
父の声は低かった。田中さんは舌打ちをして、手を下ろした。
「田中さん。」
私が呼ぶと、女は初めてこちらを見た。
「芹奈さんの話だと、あなたの実のお嬢さんは、うちの妹ということになりますけど。」
私は、隣の菫を目で示した。
女の視線が、菫の上に移る。
とたんに、その顔から何かが抜けた。
眉間の皺がほどけ、突き出していた顎が引っこむ。目が、菫の顔から首元の細い鎖へ降りて、そこでしばらく止まった。
菫が、私の袖を強くつかんで半歩下がる。
「……その子は、関係ないよ。」
さっきまでとは別人のような、低くて柔らかい声だった。
*
「そんな紙、見なくていい。」
女が、私の手元の封筒に手を伸ばしてきた。私は封筒ごと体を引いて、それをかわした。
「この子はあたしの子だって言ってるだろ。何を調べる必要があるんだい。」
女が必死になるほど、芹奈さんと雅臣の顔には余裕が戻っていった。
逆に、両親と菫の顔からは、色が引いていく。
私は、係の女性に目で確認を取った。女性が、小さく頷く。
二通の封を、順に切った。
中の書類を、まず両親の前に置く。
父が一枚目を、母が二枚目を手に取った。
父の目が、紙の下のほうで止まる。母は読み終えると、書類を胸に当てて目を閉じた。
二人とも、何も言わなかった。
「ちょっと、貸してください。」
芹奈さんが身を乗り出して、父の手から一枚目を受け取った。雅臣が、母の手元から二枚目を引き寄せる。
芹奈さんの目が、紙の上を走る。いちばん下の、太字の一行で止まった。
【鑑定結果:鷲尾氏(父)と田中芹奈氏との生物学的親子関係を否定する。】
雅臣の持つ二枚目にも、同じ形の一行があった。
【鑑定結果:鷲尾氏(母)と田中芹奈氏との生物学的親子関係を否定する。】
芹奈さんは、しばらく瞬きもしなかった。
それから、紙から顔を上げて、私を見た。
「そんな、ありえない。あなたが書き換えたんでしょう。」
「ありえない。もう一度、ちゃんと見て。」
雅臣が、二枚の紙を並べて見比べる。何度見比べても、否定の二文字は動かない。
「検体が入れ替わったんじゃないですか。こんなの、何かの間違いでしょう。」
雅臣が、係の女性を振り返った。
「採取から封緘、本日の開封まで、すべて記録がございます。ご本人様の署名も、こちらに。」
係の女性は、封印紙を指で示した。芹奈さん自身の字で、名前が書いてある。
「封を切ったのは今よ。あなたの目の前で。」
私が言っても、芹奈さんは首を振った。
振りながら、視線が私の隣へ滑った。
「……あなたでしょう。」
菫を見ていた。
「私が戻ってきたら、全部なくなるから。あなたが、何かしたんでしょう。」
「……え?」
菫が、ぽかんと口を開けた。
芹奈さんの手から、一枚目の報告書が滑り落ちた。
床に落ちた紙を、荒れた手が拾い上げる。
田中さんだった。
鼻先に紙を近づけて、目を細めて、太字の一行を読む。唇が、声にならない形で同じ文字を二度なぞった。
紙を握る指に、力がこもる。
「……嘘だろ。」
田中さんが、ゆっくりと芹奈さんのほうを向いた。
「あんたが、私の娘のわけがない。」
芹奈さんの膝が、かくんと折れた。
椅子の脚にぶつかりながら、床に座りこむ。
誰も手を差し出さない。雅臣でさえ、半歩下がっていた。
*
雅臣の手を離れた二枚目を、菫が拾った。
両手で持って、何度も上から下まで読む。紙の端が、小さく震えている。
それから、紙を持ったまま私に抱きついてきた。
「じゃあ、私はうちの子だよね。お姉ちゃん!」
「当たり前。」
菫の頭を撫でる。髪から、本邸のシャンプーの匂いがした。
父が、長い息を吐いた。母は、目元を押さえている。
部屋の反対側では、誰も動けずにいた。
田中さんは、握りしめた報告書に目を落としたまま動かない。雅臣は、空になった両手を机の上で持て余していた。
私は菫の背中を一度叩いて、腕の中から離す。
それから、田中さんのほうへ向き直った。
「田中さん。あの夜、あの病室には、もう一人いたんです。母のコートの下に。」
田中さんの目が、私の顔の上で止まった。
「取り替え直したのは私。」
給水機のモーターが、低く唸って止まった。
父が、口を半分開けたまま私を見ている。母の手から、ハンカチが落ちる。
菫は私の袖をつかんだまま、瞬きを忘れていた。
床の芹奈さんが、椅子の脚につかまったまま顔を上げる。雅臣は、何か言いかけた形で口を止めている。
田中さんだけが、私を見ていなかった。
報告書を握ったまま、首だけを回して、隣に立つ自分の娘を見ていた。




