第六話 その暗証番号、誰に教えたの
入ってきたのは、雅臣だった。
合鍵のない扉を、慣れた手つきで押し開けて。靴を脱ぎながら顔を上げ、リビングの顔ぶれを見て、動きが止まる。
止まったのは一拍だけだった。床にしゃがみこんだ芹奈さんを見つけると、雅臣は大股でリビングを横切った。
「芹奈。どうしたの、大丈夫?」
腕を取って立たせ、親指で頬の涙を拭う。カーテンの裾を、芹奈さんのスリッパが踏んでいた。
それから雅臣は、両親のほうへ向き直った。
「おじさん、おばさん。いくらご両親でも、これはないんじゃないですか。」
父の眉が動いた。
「芹奈がどれだけ苦労してきたか、聞いてますよね。やっと本当の家族に会えたのに、血のつながってない子のことで責められて。僕は、芹奈が泣いてるのを見過ごせないだけですよ。」
芹奈さんが、雅臣の袖をつかむ。
私は、その手ではなく、玄関の扉を見ていた。
「芹奈さん。」
「……はい。」
「この部屋の暗証番号、雅臣に教えた?」
部屋の空気が、そこで向きを変えた。
母が、はっとした顔で雅臣を見る。父もだ。
二人とも、ようやく同じことに気づいた顔をしていた。この部屋の番号を、両親は芹奈さんにしか教えていない。
「……俺たちは、芹奈さんにしか番号を伝えていない。」
父が、低く言った。雅臣ではなく、芹奈さんに向けて。
「雅臣くん。あなた、どうやって入ってきたの。」
母の声は小さかった。
「わ、私が、教えました。」
芹奈さんが、雅臣の前に半歩出た。
「慣れない部屋で、一人で心細くて。雅臣さんは、お姉さんの婚約者だから、いずれは家族になる人だし、って……。」
「そうね。私の婚約者。」
私は頷いた。
「その婚約者は、私のマンションの暗証番号を知らない。一度も教えたことがないから。なのに、あなたの部屋の番号は知ってる。」
芹奈さんの口が、小さく開いて閉じた。
「薫子、変な言い方しないでよ。」
雅臣が、芹奈さんの肩に手を置いたまま言った。
「僕は様子を見に来ただけだよ。芹奈が一人で泣いてたら可哀想だろ。やましいことなんて何もない。」
「それなら。」
私は、はっきり名前を呼び直した。
「一条さん。二人のトーク履歴、見せてもらえる?」
雅臣の手が、芹奈さんの肩の上で固まった。
芹奈さんは、自分のスマホをワンピースのポケットの上から押さえた。
誰も、スマホを出さない。
壁の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
「……へえ。」
雅臣が、笑うような顔を作った。
「僕、そこまで信用されてないんだ。それとも何、薫子は婚約を解消したいってこと?」
言ってしまってから、自分で少し驚いた顔をしている。脅しのつもりで出したカードだったのだろう。
「はい、今日。」
*
雅臣が、瞬きをした。
「……え?」
「解消したいかと聞かれたから、答えたの。はい。今日中に。」
私は両親を振り返った。
「お父さん、お母さん。一条のご両親に連絡してもらえる?」
いつもの父なら、ここで止めただろう。
共同事業は、あと半年残っている。せめて契約が終わるまで待て、と。
父は、雅臣の手がまだ芹奈さんの肩にあるのを見ていた。
それから、黙ってスマホを取り出した。母も、自分の電話を耳に当てる。
「一条さん。鷲尾です。急で申し訳ないが、今夜、お時間をいただきたい。」
父の声は、落ち着いている。
雅臣は何か言おうとして、芹奈さんのほうを見た。
芹奈さんは、雅臣の袖をつかんだまま私を見ている。濡れていた目の奥に、さっきまでなかった光があった。
空いた席の形を、もう測っている目。
「薫子、ちょっと待ってよ。僕はそういう意味で言ったんじゃ……。」
「じゃあ、どういう意味?」
雅臣は、答えなかった。芹奈さんの肩に置いた手も、最後まで下ろさなかった。
*
一条家のご両親が本邸に着いたのは、その夜の8時過ぎ。
応接室のテーブルを挟んで、一条家の三人と、鷲尾家の三人が向かい合った。菫は二階の自室にいる。
一条のお父様は、最初、渋い顔をしていた。
「若い者同士、多少の行き違いはあるでしょう。何も今日の今日で……。」
「僕が、そう言ったんだよ。」
雅臣が、父親の袖を引いた。耳元で何か囁く。
一条のお父様の顔から、渋さが少しずつ抜けていく。
何を囁いたのかは、だいたい想像がつく。鷲尾の娘は、もう一人いるかもしれない、とでも。
「……そうですか。本人同士が合わないというなら、仕方がない。」
「薫子さんは、それでよろしいのね?」
一条のお母様が、私に聞いた。
「はい。私から、お受けしました。」
「お受けした?」
「解消したいのかと、ご子息に聞かれましたので。」
お母様の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
息子のほうを見る。雅臣は、膝の上で指を組み替えていた。
婚約は、両家の合意で解消。
共同事業は契約どおりに続ける。結納はまだ交わしていなかったから、返すものもない。
弁護士が用意した一枚の確認書に、雅臣と私、両家の父親が署名した。
一条のお母様が、ペンを置いてにこやかに顔を上げた。
「残念ですけれど、ご縁がなかったのでしょうね。」
上品な声だった。
「薫子さんのような方なら、きっとすぐ良いお話が来ますわ。両家のお付き合いは、どうかこれまでどおりに。いずれ、もっと近いご縁があるかもしれませんし。」
最後の一言だけ、視線が雅臣のほうへ流れた。
もっと近いご縁、の中身も、だいたい想像がつく。
「ええ。これまでどおりに。」
私はそれだけ返して、確認書を封筒にしまった。最後の一言を、取りに行く必要はない。
玄関で一条家を見送る。元婚約者は、車に乗る前に一度だけ振り返った。
私はもう、扉に手をかけている。
*
その夜、自室で仕事のメールを片付けていると、スマホが鳴った。
「鷲尾のお嬢様。ご婚約解消、おめでとう。」
「……情報が早いのね。」
「業界が狭いからな。」
伊織の声の後ろで、グラスに氷の当たる音がした。
「で、単刀直入に言うけど。」
「どうぞ。」
「席が空いたので立候補します。」
思わず、スマホを耳から離して画面を見た。本物の伊織からだった。
「選挙の予定はないけど。」
「じゃあ、受付が開いたら一番に並ぶ。家のこと、まだ片付いてないんだろ。」
「……まあね。」
「片付いたら、飯くらい付き合って。」
少しだけ間があった。
「ずっと、会いたかったから。」
「……。」
昔は、こういうことを死んでも言わない男だった。どこで覚えてきたのだろう。
「おやすみ、伊織。」
返事を待たずに、電話を切った。
廊下に出て、菫の部屋をノックする。
「菫、起きてる?」
「……起きてる。」
ドアを開けると、菫はベッドの上で膝を抱えていた。うさぎのぬいぐるみは、枕の横に座っている。
「明日の10時、鑑定の結果を受け取りに行く。」
菫の肩が、びくりと上がった。
「菫も、一緒に来て。」
「……私も、行っていいの?」
「家族だから。」
私は、部屋の入口に立ったまま言った。
「結果は、家族みんなで受け取る。あなたも、その中に入ってる。」
菫は膝を抱えたまま、しばらく私を見ていた。
「……お姉ちゃん、婚約、なくなったんでしょ。お母さんから聞いた。」
「うん。」
「大丈夫?」
「むしろ、肩が軽い。」
菫が、ようやく少し笑った。
「じゃあ、行く。明日、ちゃんと起きる。」
「目覚まし、二つかけて。」
「かける。」
菫は枕元のスマホを取って、アラームを二つ並べた。




