第五話 『盗まれた20年』
花梨ちゃんの控え室で、菫は目を真っ赤にしてソファに沈んでいた。
「ごめんなさい、薫子さん。私がちゃんと見てればよかった。」
「花梨ちゃんのせいじゃない。今日の主役に、子守りまでさせてごめんね。」
振袖の花梨ちゃんに頭を下げて、菫を車に乗せる。助手席の菫は、シートベルトを握ったまま前を見ていた。
「……一条さんと芹奈さん、絶対付き合ってる。」
「そうかもね。」
「そうかもね、じゃないよ。」
菫がこちらを向いた。
「芹奈さんが本当にうちの子になったら、一条さん、絶対あの子をお姉ちゃんと揉めさせるよ。会社のこととか、家のこととか。あの子、何も分かってないのに。」
心配の向き先が、自分ではなく私だった。
「菫。うちの財産はね、二人で分けても余るの。」
「でも。」
「三人でも余る。だから、あなたが遠慮して出ていけば片付く話は、一つもない。」
菫は何か言いかけて、やめた。赤信号のあいだ、首元のリングを指で転がしている。
*
翌朝、菫は大学に戻った。
休んだら負けた気がする、というのが本人の言い分。私も止めなかった。
昼前、会議の合間にスマホが震えた。澄丘大学で教えている、学生時代からの友人から。
「薫子、今いい? これ、菫ちゃんのことだよね。」
送られてきたのは、スクリーンショットが一枚。
匿名アカウント「澄丘大・裏告白」の投稿だった。学生から寄せられた話を、名前を伏せて代わりに流すアカウントらしい。
【経済学部2年、某サークルの部長。全身ブランドで通学してるけど、実は産院で取り替えられた偽者のお嬢様なんだって。本物の子は同じ学部で奨学金もらって苦労してるのに、よく平気な顔で授業出られるね。20年分、返しなよ。】
「サークル名と学年で、もう特定されてる。リプ欄に、菫ちゃんのアカウント貼ってる人もいた。」
「大学に削除をお願いできる?」
「菫ちゃんがいいって言えば、私から学生課に回す。学生課からアカウントの管理人に削除の申し入れをして、サービス側にも通報。ただね。」
友人は、少しだけ声を落とした。
「消しても、スクショは消えないよ。もう学外にも回ってる。」
「分かってる。消す前に、全部保存しておいて。」
会議を抜けて、顧問の弁護士に電話をかけた。
「投稿のURL、表示時刻、アカウント、スクリーンショット。消される前に、全部お願いします。」
「承知しました。菫さんご本人の同意書も、あとでいただけますか。」
「今日中に。」
大学に着いたのは、午後一番だった。
学生課の小部屋で、菫はスマホを両手で握っていた。サークルの連絡用に持っている、二台目の携帯だ。
画面の上で、通知が止まらない。
メッセージアプリにも写真共有SNSにも、見知らぬアカウントからの通知。合間に、非通知の着信が割りこむ。
【偽者のくせに】
【本物の子に謝れよ】
番号は、サークルの新入生募集ページに載せていたもの。ページには連絡先の下に、来週の見学会の日時も並んでいる。
「菫。これ、預かっていい?」
菫は、しばらく画面を見つめていた。
「……いいよ。」
「中身は全部、弁護士さんに見せる。消さない。返信もしない。あなたの代わりに、見る人を決めるだけ。」
「うん。」
菫が差し出した携帯は、手のひらの中でまだ震えていた。
電源を切らずに、弁護士事務所から来た人の用意した封筒に入れる。学生課の職員さんが、欠席の届けの用紙を出してくれた。
「しばらく、本邸から出なくていい。授業の資料は、友達に頼みなさい。」
「……休んだら、負けたみたいじゃん。」
「負けてない。相手が反則してるだけ。」
*
別宅のマンションに着いたのは、夕方の4時だった。
両親と三人で、エレベーターに乗る。部屋の前で、父が暗証番号を押した。
「お父さん、お母さん。……お姉さんも。」
芹奈さんは、ぱっと顔を明るくして私たちを迎えた。リビングのカーテンは、この部屋の窓には少し長いらしく、裾が床に余って溜まっている。
両親は、その呼ばれ方にまだ慣れない顔をしていた。
「芹奈さん。澄丘大の、裏告白っていうアカウント、見た?」
私は玄関の扉を閉め、リビングの入口で聞いた。
「え? ……いいえ。何か、あったんですか。」
「あなたと菫のことが投稿されてる。菫のほうを、名指し同然で。」
芹奈さんは瞬きをした。それから、目にみるみる涙が溜まっていく。
「お姉さん、私が書いたって、思ってるんですか。」
「誰が書いたかは知らない。だから聞いてるの。」
「芹奈さん。」
母が、ソファから身を乗り出した。
「責めてるんじゃないのよ。誰かに、このお話をしたことはある?」
芹奈さんの視線が、床のカーテンの裾に落ちた。
「……寮の、同じ部屋の子に、少しだけ。きっと、私のために怒ってくれたんだと思います。」
「結果が出る前に広めるのは、軽率だったな。」
父は、声を荒らげたわけではなかった。事実を言っただけだ。
それが、芹奈さんのどこかに刺さった。
「軽率、ですか。」
涙が、頬を伝って落ちる。
「お父さんまで、私を疑うんですね。私、20年を盗まれたんですよ。」
「芹奈さん。」
「菫さんは、私の20年で得をしたじゃないですか。私が叩かれて、ご飯を作って、お見合いまでさせられそうになってた間、あの人はお嬢様で。今だって、みんなに守られて。」
芹奈さんは、ソファの前にしゃがみこんだ。
「それでも、あの人を恨んじゃいけないんですか。」
父が、首を振った。
「恨むなら、赤ん坊を取り替えた人間を恨みなさい。生まれたばかりの菫に、何が選べた。」
「……。」
「それに、あなたを守れなかったのは、もし本当なら、俺たち親のほうだ。菫じゃない。」
芹奈さんの肩が、小さく跳ねた。
私は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「芹奈さん。菫と同じ大学なのは、偶然?」
長い沈黙だった。
「……写真を見て、決めました。」
「入試の前に?」
「はい。同じ大学に行けば、会えると思って。本当のお父さんとお母さんに、つながる人に。」
「雅臣と知り合ったのも?」
「雅臣さんに声をかけたのも、私です。お姉さんの婚約者だって、経済誌の記事で見て。雅臣さんがよく行くカフェで、何度か隣の席に座りました。」
母が、口元を手で押さえた。
雅臣は、偶然知り合って助けてやった、と言っていた。本人はそう信じているのだろう。
「殴られてきたことは、疑ってない。」
私は言った。
「でも、寮の子に話したのも、菫の大学を選んだのも、あなたが決めたこと。そこは、分けて話して。」
「分けられるわけ、ないじゃないですか。」
芹奈さんが顔を上げる。
「全部、あの取り替えから始まってるのに。」
*
そのとき、玄関のほうで電子音が鳴った。
ピ、ピ、ピ、と、外側のテンキーを押す音。
私は振り返った。さっき、この手で扉を閉めた。
閉まったときの、ロックの落ちる音も聞いている。
ピー、と長い確認音。
「……業者さん?」
母が、中途半端に腰を浮かせた。
芹奈さんが、濡れた目のまま玄関のほうを見る。その顔から、涙より先に血の気が引いていった。
シリンダーが回る、乾いた音。
リビングの誰も立ち上がらないうちに、玄関の扉が、外から開きはじめた。




