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第四話 休憩室の向こう側

ホテル翠庭(すいてい)の宴会場は、白と金の花で埋まっていた。


二階堂家の末娘、花梨(かりん)ちゃんの成人のお祝い。18歳で成人になってから、この手のお祝いは20歳を待たずに回ってくる。


「菫、こっち空いてるよ。何飲む?」


受付を済ませたとたん、振袖姿の花梨ちゃんが菫の腕を取った。


「えっと……花梨と同じの。」


「ノンアルのカシス。おいしいよ。」


花梨ちゃんが持っていたグラスには、太いストローが一本挿してあった。先が少し噛まれて平たくなっている。


菫は一度だけこちらを振り返った。


「お姉ちゃん。あの人、帰ってきてるって。花梨が。」


「そう。」


「……そう、って。」


「薫子さん、菫は私と一緒にいるから。」


花梨ちゃんはにっこり笑って、菫を人の輪の外へ連れていった。18歳の主役にしては、客のあしらいがうまい。


両親は二階堂家のご両親に挨拶に行き、私はシャンパンを一杯だけもらった。


歩くたびに、会話の切れ端が耳に入る。


「鷲尾さんのところの、下のお嬢さん。」


「本物の娘さんが、見つかったんですって。」


「じゃあ、あちらが偽者? まあ。」


振り向くと、誰も私を見ていなかった。見ていなかったことにする早さだけは、この業界の人たちはみんな一流だ。


一人だけ、顔見知りの奥様がグラスを持って寄ってきた。


「薫子さん、大変ねえ。妹さんのこと、聞いたわ。」


「妹なら、あちらで花梨ちゃんと楽しくやっていますけれど。」


「あら、そう? でも、ほら、本当のお嬢さんが……。」


「鑑定の結果は、まだ出ていないんです。出たら、いちばんにお知らせしましょうか。」


奥様は曖昧に笑って、別の輪へ逃げていった。いちばんに知らせる予定はない。


入口のほうで、小さなざわめきが起きた。


雅臣が入ってくるところだった。紺のスーツに、昨日と同じ女の子を連れて。


芹奈さんは、借り物らしい淡いピンクのワンピースを着ていた。


    *


人の多いところを避けて、テラスに出た。


11月の風が、グラスの縁を冷やす。手すりにもたれて、ホテルの中庭を見下ろした。


「薫子。」


背後から、懐かしい声がした。


振り返る前に、両側から腕が伸びてきて、私の前の手すりをつかんだ。背中に、体温が触れない程度の距離。


「……伊織。」


二階堂(にかいどう)伊織(いおり)、28歳。花梨ちゃんの兄で、二階堂総合商事の次期経営者候補。


それから、私の大学時代の、最初の恋人。


「久しぶり。」


「離れて。」


「お前の婚約者、女の子連れて来てたぞ。さっき、エレベーターの前で手つないでた。」


「あなたに関係ある?」


「昔は、俺が他の女に二回見られただけで機嫌悪くしてたのにな。独占欲、どこに置いてきた。」


いい元恋人というのは、死んだように静かにしているものだ。この人はそのルールを知らない。


二人とも負けず嫌いで、頭を下げるのが下手だった。つまらない喧嘩で別れたあと、伊織は留学し、私は連絡をしなかった。


一度だけ、電話が来たことがある。去年、私が婚約した夜だ。


出ても、どちらも何も言わない。長い沈黙のあとで、伊織が聞いた。


「そいつのこと、好きなのか。」


「あなたに関係ない。」


「好きじゃないだろ。長くは持たないよ。」


私は電話を切った。自分より自信のある男は嫌いだ。


「いつ帰ってきたの。」


「今朝。花梨の祝いだけは外せないからな。」


「それで、菫を花梨ちゃんに預けたのね。」


「頼んだだけだよ。菫ちゃんに何か言うやつがいたら、花梨が相手する。俺のぶんまで。」


私は手すりの間で、体を反転させた。至近距離で、伊織と向き合う形になる。


「で、何のつもり? 愛人ポジション志望?」


「愛人ポジション? 俺は本命に戻る気で来てるけど。」


「……留学先で何を勉強してきたの。」


「MBA。」


そういう意味で聞いたのではない。


「花梨の祝いが済んだら、しばらく日本にいる。親父の会社に入るから。」


「おめでとう。」


「心がこもってないな。」


「込める理由がないもの。」


中庭の向こうで、ガラス越しに宴会場の中が見える。人の輪がほどけて、何人かが同じ方向を振り返っていた。


「離れて。下の様子を見てくる。」


    *


宴会場に戻ったときには、騒ぎはもう収まっていた。


周りの視線だけが、さっきより露骨になっている。声をかけたそうで、かけられない顔。


両親の姿が見当たらない。菫はきっと、花梨ちゃんの控え室だ。


私は休憩室の並ぶ廊下へ向かった。厚い絨毯がヒールの音を吸いこんで、自分の足音さえ聞こえない。


いちばん奥の扉が、細く開いていた。


「――だから、結果が出たら、菫には何も残らないんだよ。」


雅臣の声だった。


私は足を止めた。


「鷲尾の家の子じゃないんだから。株も、家も、全部。君が本来受け取るはずだったものが、君に戻ってくるだけだよ。」


「でも私、会社のことなんて、何も分からないです。」


芹奈さんの声。昨日の車の中より、少しだけ明るい。


「僕が手伝うよ。」


「雅臣さんは、お姉さんの婚約者じゃないですか。」


「婚約なんて、家同士の都合だよ。薫子とは形だけ。君が鷲尾の娘になるなら、相手を替えればいいだけの話だ。一条と鷲尾の縁は、それで続く。」


扉の向こうが、少し静かになった。何が起きているのかは、見なくても想像がつく。


「……私は、何がもらえるんですか。」


「全部だよ。君がもらうはずだったもの、全部。薫子は菫の味方なんだから、気をつかう必要なんてないだろ。」


「雅臣さんは、それで、私と……?」


「僕は、君のほうがいい。薫子と違って、ちゃんと笑ってくれるから。」


婚約したばかりのころを思い出す。


雅臣は毎朝、私のオフィスに花を届けさせた。夕方には迎えの車を寄越して、週に三回は食事の誘い。


こういうのは要らない、と私が言ったのは2週目だ。感情で結んだ婚約じゃないのだから、お互いの時間を無駄にしなくていい、と。


それから、花は届かなくなった。


「薫子って、ほんとに可愛げがないよね。」


最後の食事の帰り際、雅臣は笑いながらそう言った。冗談の顔で。


あのとき私は、彼が一条の後継争いの手札として私を選んだのだと思っていた。


違う。


彼が欲しかったのは、鷲尾の家のほうだ。婿に入って、家ごと食べる。


いわゆる、乗っ取り。


「――大丈夫。芹奈は、僕に任せておけばいいだけだよ。」


扉の隙間から、雅臣の声がまた漏れてくる。


うちの両親は、娘たちに「男の人に頼りなさい」と教えたことが一度もない。おかげで、この言葉を自分の家に当てはめて考えたのは、今夜が初めてだった。


扉の向こうでは、芹奈さんが雅臣の描く未来の話を、うっとりと聞いている。


私はスマホを取り出さなかった。録音をするつもりもない。


音を立てずに、その場を離れた。


    *


廊下の角を曲がったところに、伊織が壁にもたれて立っていた。


目だけが笑っている。


「賑やかだな、お前の家。」


「見世物が見たいなら、劇場へどうぞ。」


「見たくて見たんじゃない。あいつが女の子の手を引いて、あの部屋に入ってくのが見えただけ。」


伊織は、中の話を聞いたとは言わなかった。聞いていないのだろう。


この人は、見たものしか言わない。


「一条の跡取り、向こうの業界じゃもう従兄で決まりって言われてる。あいつの妹のほうが、まだ見込みがあるってさ。」


「知ってる。」


「知ってて選んだのか。」


「家の釣り合いは取れてたから。」


「で、釣り合いの取れた婚約者が、よその女の子と休憩室にいる。」


伊織が、壁から背中を離した。


「なあ、お嬢様。あいつ、お前の隣に立つような男か?」


答える前に、左手を取られた。


手の甲に、軽く唇が触れる。1秒もなかった。


「……海外で、倫理観まで置いてきたの。」


「置いてきてない。ちゃんと順番を守ってる。」


伊織は私の手を離さずに、顔を上げた。


「で、婚約はいつ解消する?」


私は手を引き抜いて、グラスの縁についた口紅を、親指で拭った。

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