第三話 ぬいぐるみを抱いた妹
「両親から、話は聞いてる。」
先に結論を言った。菫が相手なら、そのほうがいい。
「明日、鑑定をする。結果が出るまで、私は何も信じない。」
菫の目が揺れた。安心していいのか、怖がればいいのか、決めかねている顔だった。
「お姉さんは、妹は一人でいいんですね。」
芹奈さんの声は細いのに、廊下の端までよく通った。
「結果が出るまで、あなたを妹とは呼ばない。それだけ。」
「偽者をかばって、実の妹は認めないんだ。薫子って、そこまで冷血だった?」
雅臣が立ち上がる。頬の手形が、蛍光灯の下でいっそう赤い。
「一つ聞いていい?」
「なに。」
「あなた、自分の妹さんのこと、最後にいつ心配した?」
雅臣の口が、半開きのまま止まった。
一条家では、彼の妹のほうが仕事ができる。本人がいちばんよく知っていることだ。
「人の妹の心配は、そのあとでいいでしょう。菫、帰るよ。」
「……うん。」
学生課の職員さんに頭を下げて、廊下を出る。長椅子の上では、被害届の用紙が白紙のまま置き去りになっていた。
駐車場で、父に電話をかけた。
「明日の朝、予定どおり採取。それと、菫には知られた。」
電話の向こうで、父が長く息を吐いた。
*
その夜の本邸の食卓は、やけに皿が多かった。
母は菫の好物ばかり並べて、菫の取り皿が空くたびに何かを載せる。父は新聞を読むふりをして、同じ面を三回めくった。
「お母さん、もう入らない。」
「そう? じゃあ、デザートは?」
「……食べる。」
菫が小さく笑って、母がほっとした顔をする。誰も、今日の話をしなかった。
寝る前に洗面所へ行くと、歯磨き粉のキャップの縁に、白いのが乾いてこびりついていた。
爪でこすって落とし、自分の部屋に戻る。
ノックの音がしたのは、日付が変わる少し前だった。
「……お姉ちゃん、起きてる?」
ドアの隙間に、パジャマの菫が立っていた。胸に、色のあせたうさぎのぬいぐるみを抱えている。
私が中学生のころ、菫の誕生日に贈ったものだ。耳の片方は、何度も縫い直されて形が変わっている。
「今日、一緒に寝ていい?」
「どうぞ。」
菫はするりとベッドにもぐりこんだ。二人で寝るのは、菫が高校に上がって以来だ。
電気を消す。
小さいころの菫は、布団の中でもずっと喋っていた。今日の給食の話の途中で、寝落ちするような子だった。
今夜は静かだ。静かなのに、寝息にはならない。
寝返りも打たない。菫は、こんなに寝相のいい子じゃない。
「お姉ちゃん。」
「ん。」
「ねえ、お姉ちゃん。」
暗闇の中で、菫の指が首元の細い鎖をいじる音がした。先に小さなリングが揺れている。
「これね、おばあちゃんがくれたの、二本目なんだって。最初のは、私が生まれてすぐ、なくなったって。」
「知ってる。」
「……私、ここの子じゃなかったら。」
言いかけて、止まる。
「もし、本当に違ったら、どうしよう。」
「違わない。」
「もしもの話だってば。」
「もしもはない。」
菫が、ぬいぐるみごと私の腕に額を押しつけてきた。
「お姉ちゃん、なんでそんなに言い切れるの。」
「私が、お姉ちゃんだから。」
答えになっていないのは分かっていた。菫はしばらく黙って、それから鼻をすすった。
「……ずるい。」
「ずるくない。お姉ちゃんの特権。」
「お姉ちゃんの特権、多すぎ。」
「年功序列。」
菫が、布団の中で私の脇腹を小突く。力はほとんど入っていない。
5分もしないうちに、寝息が聞こえてきた。うさぎの耳が、私の頬に当たっている。
*
翌朝8時、別宅のマンション。
エントランスで部屋番号を呼び出すと、応答まで、少し間があく。
玄関のドアを開けたのは芹奈さんで、その奥のリビングに、雅臣が立っていた。
二人の距離は、私の顔を見るなり、一歩ぶん開いた。芹奈さんの腰のあたりにあった雅臣の手が、ポケットに戻る。
「……おはよう、薫子。芹奈が心細いって言うから、様子を見に来ただけだよ。」
「そう。」
朝の8時に、どうやってこの部屋まで入ったのか。聞きたいことはあったが、今日の用事はそれではない。
「じゃあ、運転をお願いできる? どうせ一緒に来るんでしょう。」
*
雅臣の車の後部座席に、私と芹奈さんが並んで座った。
婚約者を運転手にする日が来るとは思わなかった。本人もそう思っているらしく、ルームミラーの角度を三回直している。
走り出して5分ほどで、芹奈さんが口を開いた。
「私、小学校に上がったころから、家のことは全部私の仕事でした。」
窓の外を見たまま、ぽつりぽつりと話す。
「朝ごはんと洗濯は、毎日です。養母のお弁当まで。できてないと叩かれました。物差しとか、ハンガーとか。」
芹奈さんが、膝の上で左手を裏返した。手の甲に、古い白い線が一本走っている。
「養父はお酒を飲むと、物に当たって、物がないと私に当たる人で。高校のときには、お見合いの話を持ってこられました。」
「お見合い。」
「近所の工場の社長さんの息子さんです。私より20も上の。結納金をたくさん出してくれるからって。」
運転席で、雅臣がハンドルを握り直した。
「断って、勉強して、給付の奨学金をもらって、寮に入りました。20年、私はあの家で、ずっとお手伝いさんでした。」
作り話にしては、細部が乾いていた。泣いて語る人は多いけれど、ハンガーの種類まで覚えている人は少ない。
「どうして、自分が取り替えられたと思ったの。」
「去年の、入試の前です。2025年の1月。」
芹奈さんは、指を折るように言葉を並べた。
「養母のスマホを借りたら、アルバムに『いい子』っていうフォルダがあって。知らない女の子の写真ばかりでした。卒業式とか、入学式とか、遠くから撮ったのが何枚も。」
「その子が、菫だと。」
「首に、小さな指輪を下げてたんです。養母の引き出しの奥にあった、箱の中の指輪と同じ形の。」
「それで、箱を持ち出した。」
芹奈さんは、少しだけ顎を引いた。
「そのあと、養母が酔っ払って言ったんです。『あたしの娘は金持ちの家でお嬢様やってんだ。金持ちの娘が、あたしに仕えてんだよ』って。」
車内が静かになった。雅臣がウインカーを出す音だけが、かちかちと鳴っている。
「養父にも聞きました。私が生まれたとき、予定日はまだ先だったのに、養母がどうしてもその日に産むって決めてたって。」
「そう。」
私は膝の上で、スマホのメモを閉じた。
「芹奈さん。血液型は?」
「え? ……Bです。」
「そう。」
それだけ言って、私は次の質問に移った。
「鑑定を、先に田中さんのご両親とやろうとは思わなかったの。親子かどうか調べるなら、そっちのほうが早いでしょう。」
「そ、それは……。」
芹奈さんの目が、左右に泳いだ。
「思いつかなくて。わ、私、とにかく、本当のお父さんとお母さんに会いたくて……。」
「薫子。」
ルームミラーの中で、雅臣が眉をひそめていた。
「さっきから何なんだよ、その聞き方。芹奈は被害者だろ。親子かどうかなんて、血で決まることなんだから。」
「ええ。血で決まる。」
私はミラー越しに、雅臣と目を合わせた。
「だから、今から調べに行くのよ。」
*
羽澄DNA鑑定センターの受付は、オフィスビルの5階。
両親は先に着いて、待合のソファに並んでいた。
母は芹奈さんを見ると、腰を浮かせかけて、また座る。芹奈さんは両親に深く頭を下げて、それから、少し離れた椅子に腰かけた。
「薫子、昨日は……。」
「あとで話す。今日は、これを済ませるだけ。」
父が頷いて、膝の上で手を組んだ。
係の人が一人ずつ名前を呼び、写真付きの身分証を確かめ、同意書に署名をもらう。父、母、芹奈さん。
別室で、係員の立会いのもと、綿棒で頬の内側をこする。それを袋に入れて封をし、番号を振って、本人の前で封印の上に署名させる。
菫は来ていない。今朝、ぬいぐるみを抱えたまま、まだ眠っていた。
「結果は3日後、こちらでお渡しします。ご本人様と、ご同意いただいたご家族様の立会いで開封となります。」
受付の女性が、受取票を二枚差し出した。
一枚を父が受け取り、もう一枚を私が受け取る。
私はそれを二つに折って、手帳の革カバーのポケットに差し込んだ。




