第二話 私の妹は、ここにいる
「鑑定、しなかったのはどうして。」
責めるつもりはなかった。声が平らすぎたのか、母の肩がびくりと跳ねた。
「……怖かったのよ。」
「どっちが?」
「どっちも。」
母は膝の上で、ハンカチを四つにたたみ直した。
「菫がよその子だったら、って思うのも怖い。あの子が本当にうちの子で、20年もひどい家にいたんだったら、って思うのも怖い。」
父は何も言わない。言わないのが、同じ答えだった。
私はスマホを出して、検索窓に打ち込む。
民間のDNA鑑定機関で、裁判にも出せる「法的鑑定」を受け付けているところ。本人確認と立会いの採取があって、特急なら3日。
「羽澄DNA鑑定センター。明後日の朝、枠が空いてる。」
「明後日……。」
「早いほうがいいでしょう。受けるのはお父さんとお母さんと、その芹奈さん。写真付きの身分証が要るから、準備しておいて。」
父が財布から免許証を抜いた。一緒に、くたびれた献血カードが滑り出てテーブルに落ちる。
A型。父は拾い上げて、財布に戻した。
母はサイドボードから、角の丸くなった母子手帳を出してきた。菫が生まれたときのものだ。
表紙をめくった最初のページに、母の字で「A型」とある。
「生まれた時間、ここに書いてあるの。あの子が言ったのと、同じだった。」
「同じなのは当たり前よ。菫の生まれた時間なんだから。」
母は手帳を閉じて、胸に抱えた。
「それと、別宅の鍵ね。暗証番号の。一時的なのを、あの子に教えてあるから。」
「分かった。」
分かったとは言ったが、感心はしていない。1週間いなかっただけで、別宅に知らない人が住んでいる。
「薫子。もし、本当だったら。」
「そのときは、その子に償うものを償う。それだけよ。」
「菫は……。」
「菫は私と住む。」
両親が顔を上げた。
「結果がどうでも、菫は私の妹。私のマンション、部屋は余ってるし。」
「結果が出るまで、菫には言わないでね。」
「言わない。」
私はスマホを伏せて、チョコレートの紙袋を母のほうへ押しやった。
「茶番だと思うけどね、私は。」
*
翌日の日曜、昼過ぎ。
書斎で出張の報告書を片付けていると、知らない番号から着信があった。
「あの、薫子さん、ですか。菫の、サークルの者です。」
震えた、若い女の子の声。
「事件です。菫が、警察署に……。」
「怪我は?」
「してません。菫は、叩いたほうで。」
「……叩いた?」
「菫、ご両親には言わないでって。でも、お姉さんにだけは、って。」
私は報告書を保存して、車の鍵を取った。
*
警察署の二階、事情聴取を終えた人たちが待たされる長椅子の並び。
廊下の自動販売機は、ココアのボタンにだけ「売切」の赤い札が出ていた。
「お姉ちゃん!」
長椅子から、菫が弾けるように立ち上がった。そのまま体当たりで抱きついてくる。
目が赤い。泣いたのではなく、怒った赤さだ。
「怪我は。」
「ない。」
手首を取って確かめる。右の手のひらだけが、うっすら赤かった。
「で、誰を叩いたの。」
菫は答えずに、廊下の反対側を顎で指した。
長椅子の端に、私の婚約者がいた。
一条雅臣、27歳。一条都市開発の長男で、うちとの共同事業の担当者だ。
左の頬に、きれいな手形が浮いている。
その隣に、若い女の子がぴたりと座っていた。男物のジャケットを肩にかけて。
見覚えのあるジャケットだ。先月、雅臣が「イタリアで仕立てた」と三回言っていたやつ。
「……雅臣。これ、どういうこと?」
「薫子、誤解しないで。僕は、知り合いを大学まで送っただけだよ。」
「腕組んで歩いてたじゃない。自分の上着まで着せて。」
菫が私の背中から身を乗り出す。
「送っただけの人に、あんなにくっつく? お姉ちゃんと婚約してるくせに。」
「菫。」
「だって!」
肩を押さえると、菫は唇を噛んで黙った。
雅臣は家柄で選んだ相手だ。能力は従兄にも妹にも劣るが、家同士の釣り合いは取れていて、両家の親も喜んだ。
両社の共同事業は2年契約で、残りは半年。結婚するかどうかは、そのあとで考えればいいと思っていた。
恋をしたことのない婚約だから、菫が思っているほど私は傷ついていない。菫はそれを知らない。
「すみません、鷲尾さんのお姉さまですか。」
スーツ姿の若い女性が立ち上がった。首から大学の職員証を下げている。
「澄丘大学、学生課の者です。大学構内でのことでしたので、同行しております。」
「妹がご迷惑を。」
「いえ。菫さんは成人ですので、ご本人の意思を確認しながら、です。ご家族がいらしてくださって助かりました。」
職員さんは、ちらりと雅臣のほうを見た。
「一条さんは、被害届を出すとおっしゃっていて。」
「出すよ。」
雅臣が足を組み替えた。頬の手形が、喋るたびに引きつる。
本気で出すつもりなら、とうに書類を書いているはずの時間だ。
「先に手を出したのは、そっちだろ。僕は殴られただけだよ。菫が謝るなら、考えてもいいけど。」
「謝らない。」
菫が即答した。
「謝ってほしいなら、先にお姉ちゃんに謝って。」
「菫。」
もう一度名前を呼ぶと、今度は黙らなかった。
「お姉ちゃんが優しいからって、なめられてるんだよ。」
*
「あの……。」
ジャケットの女の子が、おずおずと立ち上がった。
細い肩に、泣きはらしたような目元。ジャケットの袖口から覗く手首が、驚くほど細い。
「お姉さん、誤解しないでください。雅臣さんとは、そういう関係じゃないんです。」
お姉さん。
背中で、菫の呼吸が止まるのが分かった。
「あなたにお姉さんと呼ばれる覚えはないけれど。」
「あ……ごめんなさい。」
「私の妹は、ここにいるので。」
女の子は俯いた。泣きそうな顔で、上目遣いにこちらを見る。
「お姉さんは、やっぱり菫さんの味方なんですね。私の話なんて、聞く前から。」
「話なら、聞く場所と順番があるでしょう。警察署の廊下じゃなくて。」
「芹奈、いいよ。薫子はいつもこうなんだ。」
雅臣が彼女の背に手を添える。婚約者の前で、ずいぶん慣れた手つきだった。
「薫子。いつまでその偽者を妹って呼ぶつもり?」
雅臣の声が、廊下に響いた。
菫の友達が、はっと顔を上げる。学生課の職員さんが、書類を持つ手を止めた。
「ご両親から聞いてないの? 菫は鷲尾家の子じゃない。本物はこっちの、芹奈だよ。」
雅臣が、隣の女の子の肩に手を置いた。
田中芹奈。昨夜、母の口から聞いたばかりの名前。
なるほど。どうやって両親の前までたどり着いたのか、これで分かった。
「……は?」
菫の声が裏返る。
「なに言ってんの。浮気ごまかすのに、そんな話まで作るの?」
「作ってないよ。芹奈と菫は、生まれた日に取り替えられたんだ。菫の本当のお母さんにね。」
「意味分かんない。私がお姉ちゃんの妹じゃなくて、その人が妹?」
「嘘だと思うなら、お姉さんに聞いてみなよ。ご両親が、薫子に言わないわけないだろ。」
菫が、ゆっくり振り返った。
長椅子には菫の友達が何人かと、学生課の職員さん。廊下の奥では、書類を抱えた警察官が足を止めている。
全員に聞こえていた。結果が出るまでは誰にも言わないと、昨夜両親と決めたばかりの話が。
「お姉ちゃん。」
小さいころから、菫は私の顔色を読むのがいちばん上手かった。
口を開く。言葉を選ぶ、その半秒を菫は待たなかった。
「お姉ちゃん、本当?」




