素直ね
洞窟の奥へ進むほど、空気が冷たくなっていった。
壁には水滴が伝い、三人の足音が暗闇の中へ吸い込まれていく。
レナが先頭を歩く。
その後ろをミア。
最後尾をアレンが歩いていた。
「……静かですね」
ミアが小さな声で言った。
「そうね」
レナも周囲を警戒している。
「さっきまで魔物がいたのに、急に気配がなくなった」
「逃げたのか?」
「分からない」
アレンが前を見る。
「まだいる」
「え?」
ミアが聞き返す。
「この先だ」
三人は足を止めた。
レナが槍を構える。
「何体?」
「一体」
「一体だけ?」
「ああ」
レナが少しだけ眉を寄せる。
「妙ね」
そのとき。
洞窟の奥から、低い唸り声が響いた。
地面が僅かに震える。
ミアが杖を握り直した。
「……今の、何ですか?」
「分からない」
アレンが答える。
「でも、近い」
三人はゆっくりと進んだ。
やがて、通路の先に広い空間が現れた。
天井は高く、巨大な地下空洞になっている。
その中央に。
巨大な石の台座があった。
そして、その上に――
黒い結晶が浮かんでいた。
「……綺麗」
ミアが思わず呟く。
黒い結晶。
しかし、ただ黒いわけではない。
内部には紫色とも青色ともつかない光が揺らめいている。
まるで、夜空を閉じ込めたようだった。
レナが周囲を見る。
「これが原因?」
「可能性はある」
アレンは結晶を見つめた。
その瞬間。
胸の奥に、かすかな違和感が走った。
「……」
アレンが立ち止まる。
ミアが振り返った。
「どうしました?」
「いや」
アレンは結晶から目を離さない。
妙な感覚だった。
この魔力。
どこかで感じたことがある。
けれど。
「……おかしい」
「何が?」
レナが尋ねる。
アレンは答えなかった。
ただ、結晶を見つめる。
かつて自分が世界中を旅していた頃。
このようなものは見たことがない。
少なくとも、記憶にはなかった。
「アレンさん?」
ミアがもう一度呼ぶ。
「……何でもない」
アレンは歩き出した。
そのときだった。
結晶の奥で、何かが動いた。
「……!」
レナが槍を構える。
「下がって!」
地面が大きく揺れた。
台座の後ろ。
暗闇の中から、巨大な影が立ち上がる。
四本の脚。
長い尾。
全身を黒い甲殻が覆っている。
頭部には、二本の角。
だが。
何より異様だったのは、その身体から溢れ出している魔力だった。
「……何、あれ」
ミアが震える。
レナは答えなかった。
魔物の動きを見ながら、二人へ指示を出す。
「ミア、私の後ろから離れないで」
「はい!」
「アレンは右側へ。魔物の正面には立たないで」
「ああ」
アレンが短く答える。
レナが一瞬だけ振り返った。
「……素直ね」
「何が?」
「いつもなら勝手に動くと思ってた」
「必要なら動く」
「そう。なら、今は私の指示に合わせて」
「ああ」
魔物が咆哮した。
洞窟全体が震える。
「来る!」
レナが叫ぶ。
魔物が地面を蹴った。
巨体とは思えない速度だった。
「アレン、右!」
レナの声と同時に、アレンが右へ跳ぶ。
魔物の爪が、先ほどまでアレンが立っていた場所を抉った。
そのまま魔物は勢いを止めず、レナへ向かって突っ込んでいく。
「私が受ける!」
レナが槍を構えた。
正面から迫る爪を、槍の柄で受け流す。
衝撃で足元の石が砕け、足が地面にめり込む。
「重い……!」
魔物が続けて二撃目を放つ。
レナは一歩下がり、槍の穂先で爪の軌道を逸らした。
三撃目。
今度は尾が横薙ぎに振られる。
「ミア、伏せて!」
「はい!」
ミアが身を低くする。
尾が頭上を通り過ぎた。
その直後。
「アレン、今!」
アレンが踏み込んだ。
魔物の背後へ回り、剣を振り抜く。
黒い甲殻が斬り裂かれ、黒い血が飛び散った。
だが、傷は浅い。
魔物は痛みに怯むどころか、身体を大きく捻った。
「下がって!」
レナの声。
アレンが後ろへ跳ぶ。
次の瞬間、魔物の爪が地面を叩いた。
砕けた石片が弾丸のように飛んでくる。
ミアが杖を掲げた。
「――守りの光よ!」
淡い光の壁が三人の前に展開される。
石片が光の壁にぶつかり、次々と弾かれた。
「助かった」
アレンが言う。
「いえ、まだです!」
ミアは魔物を見つめていた。
「アレンさん、さっき斬った場所……魔力が漏れています!」
「……ああ」
「でも、すぐに塞がってます」
レナが魔物の身体を観察する。
「再生している?」
「たぶん、あの黒い魔力が傷を塞いでるんです」
ミアが結晶へ目を向けた。
「もしかして、あの結晶から魔力が流れているんじゃ……」
アレンも結晶を見る。
魔物の傷口から漏れた黒い光が、細い糸のように結晶へ伸びていた。
「繋がっているな」
レナが即座に判断する。
「なら、結晶との繋がりを断てばいい」
「簡単に言ってくれる」
アレンが魔物を見る。
「魔物が邪魔をしている」
「だから、私たちで隙を作る」
レナは槍を握り直した。
「ミア、魔物の動きを止められる?」
「完全には無理です。でも、ほんの一瞬なら!」
「それで十分」
レナがアレンを見る。
「アレンは、私が合図するまで攻撃しないで」
「分かった」
「……本当に?」
「必要な指示なら従う」
レナは僅かに目を見開いた。
それから、口元を上げる。
「頼もしいわね」
魔物が再び地面を蹴った。
今度はレナではなく、ミアへ向かっている。
「ミア、左へ!」
ミアが走る。
だが、魔物の動きは速い。
逃げ道を塞ぐように、尾が振り下ろされた。
「――っ!」
ミアが足を止める。
その瞬間。
「ミア、伏せて!」
レナが叫びながら飛び込んだ。
槍で尾を受け止める。
しかし、完全には止められない。
レナの身体が押し込まれ、地面に深い跡が刻まれる。
「レナさん!」
「まだよ!」
レナは槍を滑らせ、尾の勢いを横へ逃がした。
その隙にミアが転がるようにして距離を取る。
魔物がレナへ向き直った。
「今度は私ね……!」
レナが槍を構える。
魔物が爪を振り下ろす。
レナは一歩踏み込み、爪の内側へ入った。
「そこ!」
槍の石突きで魔物の脚を払う。
巨体が僅かに傾いた。
だが、魔物は倒れない。
逆に、身体を回転させながら尾を振り回した。
「レナ、下がれ!」
アレンの声。
レナはすぐに後退した。
尾が空を切る。
その直後。
「ミア!」
「はい!」
ミアが杖を掲げる。
「光よ、絡みついて!」
淡い光の帯が魔物の脚へ伸びた。
一瞬だけ。
魔物の動きが止まる。
しかし、光の帯はすぐに軋み始めた。
「長くは持ちません!」
「十分よ!」
レナが魔物の側面へ回り込む。
槍の穂先で、先ほどアレンが斬った甲殻の隙間を狙った。
「ここね!」
槍が傷口へ突き込まれる。
魔物が大きく身をよじった。
黒い魔力が傷口から噴き出す。
「アレン!今!」
レナの一言でアレンは即座に動き出す。
魔物の正面ではなく、レナが作った側面の隙間へ入り込む。
剣を振り上げる。
そのとき。
魔物の頭部がアレンへ向いた。
光の帯が千切れる。
魔物の爪がアレンへ迫った。
「アレン、右!」
レナの声。
アレンは迷わず右へ踏み込んだ。
爪が頬を掠める。
そのまま身体を回転させ、魔物の懐へ潜り込んだ。
「そこです!」
ミアが叫ぶ。
杖から放たれた光が、魔物の目を覆った。
魔物が一瞬、視界を失う。
「アレン、胸の中央!」
レナが槍で魔物の身体を押さえ込む。
「今度は外さないで!」
「分かった」
アレンが剣を突き出した。
甲殻の隙間。
黒い光が漏れる場所。
剣が深く突き刺さった。
魔物が咆哮する。
洞窟の天井から岩が落ちてくる。
「全員、下がって!」
レナが叫んだ。
ミアがすぐに防御魔法を展開する。
アレンは剣を引き抜きながら後退した。
落石が光の壁にぶつかり、砕け散る。
魔物はなおも立っていた。
胸の傷から、黒い魔力が溢れている。
「まだ倒れない……!」
ミアが息を切らす。
レナは魔物を見据えた。
「違う」
「え?」
「あれは、立っているんじゃない」
レナもアレンに続き気づいた。
魔物の脚が震えている。
胸の傷から漏れた黒い魔力が、無理やり身体を動かしていた。
「結晶が、あいつを動かしている」
アレンが結晶を見る。
「なら、先に結晶を壊す」
「でも、魔物が邪魔を……」
ミアが言いかけたとき。
レナが槍を握り直した。
「私が止める」
「一人では無理だ」
アレンが言う。
「ええ。だから、二人とも手を貸して」
レナはミアを見る。
「ミア、私に強化を」
「分かりました!」
「アレンは、私が魔物の動きを止めたら結晶へ向かって」
「ああ」
「ただし、結晶を壊す前に魔物が動いたら、すぐに戻って」
「分かった」
「……本当に、頼んだわよ」
アレンはレナを見る。
「ああ。任せろ」
ミアが杖を掲げた。
「力を与え、足を支え、傷を守って――!」
淡い光がレナの身体を包む。
レナの槍が光を帯びた。
「行きます!」
レナが駆け出した。
魔物が咆哮し、爪を振るう。
レナは正面から受けず、斜めに踏み込んだ。
「右!」
アレンが叫ぶ。
レナが即座に右へ跳ぶ。
爪が空を切った。
「左!」
今度はレナが叫ぶ。
アレンが左へ動く。
そのすぐ横を尾が通り抜けた。
二人の動きが、少しずつ噛み合っていく。
レナが魔物の正面を引き受ける。
アレンはその死角を走る。
魔物がアレンへ向きを変えようとするたび、レナが槍を叩き込んで注意を引き戻した。
「アレン、三歩下がって!」
アレンが三歩下がる。
魔物の爪が目の前を通過した。
「今度は前!」
アレンが踏み込む。
レナが槍で魔物の脚を払った。
巨体が崩れかける。
「ミア!」
「はい!」
ミアが杖を振る。
光の矢が魔物の周囲へ突き刺さり、逃げ道を塞いだ。
魔物が身動きを取れなくなる。
「今です!」
アレンが結晶へ向かって走る。
しかし。
魔物が無理やり身体を起こした。
「アレン、止まって!」
レナの声。
アレンは即座に足を止めた。
次の瞬間、魔物の尾が目の前を薙ぎ払った。
レナが魔物の脚へ槍を突き立てる。
「まだ、行かせない!」
「レナさん!」
ミアが叫ぶ。
「あと少しです!」
レナは歯を食いしばった。
「分かってる!」
魔物がレナへ爪を振り下ろす。
レナは槍を引き抜き、ぎりぎりでかわした。
だが、体勢が崩れる。
「レナ!」
アレンが駆け戻ろうとする。
「来ないで!」
レナが叫んだ。
「結晶を!」
アレンが足を止める。
レナは魔物の爪を槍の柄で受けた。
衝撃で膝が沈む。
「ミア!」
「はい!」
ミアの光がレナの身体を包む。
同時に、レナの足元へ光の輪が広がった。
「動きを、少しだけ止めます!」
光の輪が魔物の脚を縛る。
レナはその一瞬を逃さなかった。
槍を地面に突き立て、身体を支えながら魔物の懐へ潜り込む。
「アレン!」
レナが叫ぶ。
「今度こそ、行って!」
アレンが走った。
黒い結晶へ向かって一直線に駆ける。
結晶の表面に、亀裂が走っていた。
アレンが剣を振り上げる。
「--終わりだ」
剣が結晶を斬り裂いた。
黒い結晶が砕ける。
内部から溢れ出した魔力が、洞窟全体を覆った。
魔物の身体が大きく震える。
「アレンさん!」
ミアが叫ぶ。
「戻って!」
アレンが振り返る。
魔物が最後の力を振り絞り、レナへ向かって突進していた。
「レナ!」
アレンが走る。
レナは槍を構え直した。
「ミア、私にもう一度!」
「でも、魔力が……!」
「一瞬でいい!」
ミアは杖を両手で握りしめた。
「……分かりました!」
最後の光がレナを包む。
レナは魔物の突進を真正面から受け止めた。
槍の穂先が魔物の胸へ突き刺さる。
だが、止まらない。
「ぐっ……!」
レナの身体が押し込まれる。
その横を、アレンが駆け抜けた。
「レナ、伏せろ!」
「分かった!」
レナが身を低くする。
アレンが跳んだ。
魔物の頭上を越え、胸元へ剣を振り下ろす。
結晶との繋がりを失った黒い魔力が、傷口から噴き出した。
アレンの剣が甲殻を砕く。
魔物の動きが止まった。
そして。
巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
地面が大きく揺れる。
三人はそれぞれ距離を取り、魔物が完全に動かなくなるのを見届けた。
しばらく。
誰も口を開かなかった。
やがてミアが、震える声で尋ねる。
「……勝った?」
「ああ」
アレンが答えた。
レナは槍を支えにして、荒い息を吐いた。
「……疲れた」
「レナさん、大丈夫ですか?」
ミアが駆け寄る。
「平気よ。ミアの支援がなかったら、最後の一撃は受け止められなかった」
「私も、二人が時間を作ってくれたから……」
ミアはアレンとレナを見た。
「三人で戦ったから、勝てたんですよね」
レナがアレンを見る。
「そうね」
アレンは少しだけ考えた。
「……そうだな」
その言葉を聞いて、レナは小さく笑った。
「意外ね」
「何が?」
「あなたが、素直に認めるなんて」
「事実だからな」
三人の間に、短い沈黙が流れた。
けれど。
嫌な沈黙ではなかった。
魔物が倒れたことで、洞窟の奥にある黒い結晶が露わになった。
正確には。
結晶は、アレンの一撃によって砕け散っていた。
台座の上には、黒い欠片だけが残っている。
「これ……」
ミアが近づく。
「さっきより、魔力が弱くなってます」
レナが台座の周囲を調べる。
「文字がある」
「読める?」
アレンが近づく。
古い文字。
削れている部分も多い。
それでも。
アレンには読めた。
「……」
ミアが覗き込む。
「何て書いてあるんですか?」
アレンはしばらく黙っていた。
「ここから先へ進むな」
「え?」
レナが眉をひそめる。
「それだけ?」
「……そうだ」
嘘だった。
本当は、もっと長い。
『封じられしものに近づくな』
『力を求める者よ、決して触れるな』
そして。
最後に刻まれていた言葉。
アレンはそこだけを見つめていた。
「……」
「アレンさん?」
「なんでもない」
アレンは視線を逸らした。
自分が知っているかつての文字と似ている。
だが、少しだけ違う。
つまり。
この場所は。
彼の知らない時代の文字なのかもしれない。
そのとき。
砕けた結晶の欠片が、かすかに光った。
「……?」
アレンが右手を見る。
胸の奥に、再び熱が走った。
右手に、見覚えのない紋様が浮かんでいる。
「アレンさん?」
ミアが心配そうに声をかける。
アレンは右手を握り込んだ。
紋様が消える。
「……何でもない」
「本当に?」
「ああ」
レナもアレンを見ていた。
だが、何も聞かなかった。
「とりあえず、ここを出ましょう」
「そうだな」
三人は来た道を戻り始めた。
村へ戻ると、村人たちが駆け寄ってきた。
「無事だったか!」
「魔物は?」
「もう大丈夫です」
ミアが答える。
「洞窟にいた魔物は倒しました」
村人たちから安堵の声が上がる。
レナは村人たちを見渡した。
そして。
「……今回は、私一人じゃないわ」
そう言って、アレンとミアを見る。
ミアが笑った。
「はい」
アレンは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ、二人の方を見た。
その夜。
村の宿で三人は食事を共にしていた。
「明日はどうする?」
レナが尋ねる。
「俺たちは西へ行く」
アレンが答える。
「そう」
レナは少し考えた。
「私も、しばらく西へ行くわ」
ミアが顔を上げる。
「一緒に?」
「ええ」
レナは焚き火を見る。
「魔物の異変が、この山だけとは思えないから」
アレンは頷いた。
「分かった」
それだけだった。
三人は、また同じ道を歩く。
誰も。
仲間になったとは言わなかった。
ただ。
次の目的地が同じだった。
だから、一緒に行く。
それだけだった。
アレンは二人を見た。
隣にはミア。
向かいにはレナ。
旅を続けてこんな景色を見たことはなかった。
「……」
アレンは何も言わず、目の前の肉を頬張る。
アレンはほんの少しだけ。
昔よりも、この時間が嫌いではなくなっていることに気づいていた。




