誰のせいで
港町を出る船は、朝日が昇る頃に出航した。
白い帆が風を受け、ゆっくりと港から離れていく。
甲板の上では船員たちが忙しそうに動き回り、港に残る人々が手を振っていた。
ミアは船縁に両手を置き、遠ざかっていく町を眺めていた。
「わあ……! 本当に出発しましたね!」
「ああ」
「また船で違う国に行くんですね!」
「そうだな」
「アレンさん、もう少し感動しません?」
「している」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん!?」
ミアが振り返る。
アレンはいつも通りの顔で、遠くの水平線を眺めていた。
その隣では、レナが海風を受けながら帆の様子を確認している。
「今のところ、風も波も問題なさそうね」
「そういうの分かるんですね!」
「それなりに旅をしていれば分かるわよ」
「へえ……!」
ミアは感心したように頷いた。
「アレンさんも?」
「当然だ」
「ですよね……」
五千年もの間、世界中を旅してきた男である。
船に乗った回数は数えきれないほど。
その経験値は計り知れないものだ。
ミアは再び海を眺めた。
青い海。
白い波。
頬を撫でる風。
遠くを飛ぶ海鳥。
どこまでも続く水平線。
「……最高ですね」
そう言って、ミアは胸を張った。
前回の船旅では、出航から一時間もしないうちに船酔いで動けなくなった。
その苦しさは、今でもよく覚えている。
だから今回は、乗る前から十分に準備をしてきた。
船員に酔い止めの薬を分けてもらった。
出航前に食べすぎないようにもした。
船室で横になれるよう、寝台の場所も確認してある。
これだけ準備したのだ。
前回のような失敗はしない。
ミアはそう信じていた。
――それから、一時間後。
「…………」
ミアは甲板の隅で、手すりにしがみついていた。
「……気持ち悪いです」
「またか」
アレンが言った。
「またです……」
ミアの声には、悔しさすら滲んでいた。
顔色は悪く、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「薬は飲んだのか?」
「飲みました……」
「横になったか?」
「なりました……」
「それで?」
「駄目でした……」
「そうか」
「そうか、じゃないです……!」
ミアは力なく顔を上げた。
「私、今回は大丈夫だと思ったんです……!」
「そうか」
「だから、その返事!」
レナが苦笑しながら、ミアの背中をさすった。
「無理しないで。前回もひどかったでしょう?」
「……はい」
「船室に戻って休みましょう。せっかくの景色だけど、今は楽しめそうにないわね」
「……海、見たかったのに」
「また元気になったら見ればいいわ」
ミアはしょんぼりと頷いた。
そして、アレンを恨めしそうに見上げる。
「……アレンさんは平気なんですか?」
「ああ」
「どうして……」
「慣れているからな」
「私も慣れたいです……」
「そのうち慣れる」
「本当ですか……?」
「知らない」
「ひどい……」
ミアは再び手すりに突っ伏した。
レナが呆れたように息を吐く。
「少しは励ましてあげたら?」
「励ましている」
「どこが?」
「そのうち慣れると言った」
「……あなたね」
レナは額に手を当てた。
「ミア、肩を貸すから。ゆっくり歩きましょう」
「ありがとうございます……」
ミアはレナに支えられながら、船室へ向かった。
数歩進んだところで、足を止める。
「……レナさん」
「何?」
「床が揺れてます……」
「船だからね」
「……そうでした」
ミアは今にも泣きそうな顔で、再び歩き出した。
その背中を見送って、アレンが呟く。
「大変だな」
「誰のせいでああなってると思ってるの?」
「船」
「……本当に、あなたって人は」
レナは深くため息をつき、ミアの後を追った。
昼過ぎ。
ミアは船室の寝台で横になっていた。
「……もう、海なんて嫌です」
毛布を頭まで引き上げる。
前回も同じことを言った気がする。
そして、前回も陸に着く頃にはすっかり元気になり、次の船旅では大丈夫だと思っていた。
どうやら、自分は学習能力が足りないらしい。
「……次こそは」
小さく呟いた、そのとき。
扉が軽く叩かれた。
「ミア、入るわよ」
「……どうぞ」
レナが入ってきた。
手には水と、薄く切った果物がある。
「少し食べられそう?」
「……分かりません」
「じゃあ、水だけでも飲みなさい」
レナは寝台の横に腰を下ろした。
ミアはゆっくり身体を起こし、水を受け取る。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
少しだけ水を飲む。
それだけでも、気分が落ち着いた気がした。
「アレンさんは?」
「甲板よ。船員と話していたわ」
「何を?」
「航路について」
「……アレンさんが?」
「ええ。船のことはよく知っているみたい。風の変化にも、波の動きにも詳しいわ」
「昔、たくさん乗ったんでしょうね」
「そうでしょうね」
レナは窓の外を見た。
青い海が広がっている。
「……それにしても、静かね」
「海ですか?」
「ええ。波も穏やかだし、風も一定。船旅としては理想的だけど」
レナは少し眉を寄せた。
「妙に引っかかるのよ」
「何がですか?」
「うまく言えないわ。ただ……」
そのとき、船が小さく揺れた。
ミアが顔をしかめる。
「うっ……」
「大丈夫?」
「……はい」
レナは立ち上がった。
「少し甲板を見てくるわ。何かあったら船員を呼んで」
「分かりました」
扉が閉じる。
ミアは再び横になった。
目を閉じる。
早く陸に着いてほしい。
そう願いながら、深く息を吸った。
けれど。
ふと、奇妙な感覚が胸をよぎった。
「……あれ?」
気持ち悪さとは違う。
身体が揺れている感覚とも違う。
何かが、遠くから呼びかけているような。
地の原初を受け継いでから、時折感じるようになった、大地の奥に流れる力。
それに似ている。
けれど、今感じるものはもっと深く、冷たい。
ミアはゆっくりと目を開けた。
「……海の向こう?」
答える者はいなかった。
夕方。
アレンとレナは甲板に立っていた。
船員たちは普段通りに仕事をしている。
風もある。
波もある。
だが、レナの表情は晴れなかった。
「船長は、問題ないと言っていたわ」
「ああ」
「風向きも潮の流れも正常。なのに、予定より進んでいないらしいの」
「……そうか」
「どう思う?」
アレンは海を見つめた。
遠くに島影が見える。
低い岩山。
その手前に、細長い砂浜。
「……妙だな」
「何か分かる?」
「そうだな」
アレンは目を細めた。
「さっきから同じ島が見えている」
「同じ島?」
「ああ」
レナが周囲を見回す。
「どこ?」
「船の右側。あの岩山だ」
レナは目を凝らした。
確かに、遠くに島が見える。
「でも、島なんていくつもあるでしょう?」
「形が同じだ」
「……」
レナの表情が変わった。
「まさか、同じ場所を回っているの?」
「その可能性がある」
そこへ、船長が足早に近づいてきた。
「すみません、少しよろしいですか」
「どうした?」
アレンが尋ねる。
船長は困惑した顔で海図を広げた。
「おかしいんです。先ほどから、どう計算しても位置が合わない」
「どういうこと?」
レナが海図を覗き込む。
「風も潮も正常です。船の速度にも問題はない。なのに、目印になる島が何度も現れる」
「方位磁針は?」
「それも正常です」
アレンは海図を見た。
航路はまっすぐ伸びている。
だが、現在位置を示す印は、進んだ距離と合わない場所にあった。
「……船が迷っているわけじゃないな」
「え?」
船長が顔を上げる。
アレンは海の向こうを見た。
「海の方が、変わっている」
レナが眉を寄せた。
「海域そのものが変わっているってこと?」
「分からない」
アレンは海図から目を離した。
「だが、普通の現象じゃない」
船長は不安そうに唇を引き結んだ。
「このまま進んで大丈夫でしょうか」
「今すぐ引き返せるか?」
「それが……」
船長は海図を握りしめた。
「引き返そうとしても、港へ向かう方角が安定しないんです」
風が吹いた。
帆が大きく膨らむ。
船は進み続けていた。
それなのに、遠くの島影は離れなかった。
夜。
ミアは少しだけ体調を取り戻し、甲板へ出てきた。
「……まだ、気持ち悪いです」
「戻ればいいだろ」
アレンが言う。
「でも、何かあったんですよね?」
「どうしてそう思う?」
「船員さんたちが、みんな落ち着かないので」
ミアは手すりにつかまり、海を見た。
「それに……」
声が少し小さくなる。
「海の向こうから、何かを感じるんです」
アレンが振り返った。
「何か?」
「よく分かりません。でも、地の原初に触れたときと似ているんです。もっと遠くて、もっと深いところから……」
レナがミアの隣に立った。
「私も、さっきから妙な感じがしているわ」
「レナさんも?」
「ええ。ただ、私の場合は……」
レナは言葉を切った。
右目の奥が、かすかに痛んだ。
闇の原初を受け継いでから、時折、視界の端に何かがちらつくことがあった。
だが、今は何も見えない。
ただ、胸騒ぎだけが強くなっていた。
「……何か来る」
レナが呟く。
アレンは海を見つめたまま答えた。
「ああ」
「分かるの?」
「気配がある」
その瞬間。
風が止まった。
帆が力を失い、ばさりと垂れ下がる。
波の音が消えた。
船体の揺れも、ゆっくりと収まっていく。
「……え?」
ミアが海を見る。
水面が、鏡のように静かになっていた。
星空が映っている。
だが、その並びは空にあるものと違っていた。
「……あれ?」
ミアが空を見上げる。
星がある。
もう一度、海を見る。
海面にも星がある。
けれど、そこに映っている星は、空の星とはまるで違う位置にあった。
レナが息を呑む。
「……空と海が、違う」
アレンは海面を見つめた。
その奥で、何かが光った。
青白い光。
深い海の底から、ゆっくりと浮かび上がってくる。
「全員、船の中央へ!」
船長が叫んだ。
船員たちが慌てて動き出す。
その直後。
船の下で、巨大な影が動いた。
水面が盛り上がる。
船体が大きく傾いた。
「きゃあっ!」
ミアが手すりを掴む。
レナがその腕を支えた。
「ミア、こっちへ!」
アレンは剣の柄に手をかけた。
水面の下で、青白い光が広がっていく。
そして。
レナの視界が、突然、黒紫色に染まった。
「――っ!」
頭の奥に鋭い痛みが走る。
目の前の景色が、いくつにも重なった。
船が右へ傾く。
船員が転ぶ。
ミアが手すりから手を離す。
アレンが剣を抜く。
その光景が、同時に見えた。
次の瞬間。
別の光景が重なる。
船の左側から、巨大な水柱が噴き上がる。
甲板が砕ける。
ミアの身体が宙へ投げ出される。
そして――。
「……右!」
レナは考えるより先に叫んでいた。
「全員、右側へ避けて!」
「えっ!?」
ミアが振り向く。
「早く!」
レナの声に、アレンが反応した。
「船長、右舷へ!」
「な、何を――」
「早く!」
船長が叫び返す。
「全員、右舷へ移動しろ!」
船員たちが一斉に動く。
次の瞬間。
船の左側から、巨大な水柱が噴き上がった。
轟音。
水しぶきが夜空へ弾ける。
甲板の一部が砕け、木片が飛び散った。
だが、船は転覆しなかった。
ミアはアレンに腕を引かれ、甲板へ伏せていた。
「……い、今の……」
レナは手すりを握りしめていた。
頭が痛い。
視界が揺れる。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、自分が叫んだこと。
その直後に、見た光景と同じことが起きたこと。
それだけは分かった。
「レナ」
アレンが近づいてくる。
「大丈夫か?」
「……ええ」
「本当か?」
「少し、頭が痛いだけ」
レナは目を閉じ、こめかみを押さえた。
ミアが不安そうに顔を覗き込む。
「レナさん、今の……」
「分からない」
レナはゆっくりと目を開けた。
「でも……」
海を見る。
水面の下では、青白い光がまだ揺らめいていた。
「五秒くらい先が、見えた気がする」
アレンの目が細くなる。
「……魔眼か」
「たぶん」
レナは苦笑した。
「まさか、こんなところで使うことになるとは思わなかったわ」
「使いこなせていないな」
「分かってるわよ」
レナは頭を押さえながら、ため息をついた。
「でも、見えなかったら船がどうなっていたか分からない」
「そうだな」
ミアが二人の間に割って入る。
「感心してる場合じゃありません! まだ海の中に何かいるんですよ!」
「そうだったな」
アレンは海へ向き直った。
水面が再び揺れ始める。
青白い光が、船の真下へ移動していた。
その光は、まるで何かを探しているようだった。
やがて、海の底から低い音が響いた。
――ドン。
――ドン。
――ドン。
アレンの右手が熱を帯びた。
「……っ」
彼は手を握りしめる。
世界へ散っていった力。
黒い結晶。
そして今、海の底から感じるこの気配。
「……まさか」
アレンは海面を見つめた。
「……この海を、知らない」
五千年。
世界中を旅してきた。
海も渡った。
大陸も越えた。
地図にない土地さえ歩いた。
それなのに。
目の前の海だけは、記憶のどこにもなかった。
船の下で、青白い光が強く輝く。
水面が大きく盛り上がった。
何かが、海底から目を覚まそうとしている。
ミアは杖を握りしめた。
レナは痛む頭を押さえながら、もう一度海を見据える。
アレンは剣を抜いた。
「……来るぞ」
次の瞬間。
海が、割れた。
青白い光が、夜空を貫いた。
そして三人の乗る船は――
誰も知らない海域へと、引きずり込まれていった。
船の周囲には、見渡す限りの霧が立ち込めていた。
船員たちの声が、かすかに聞こえる。
「……どこだ、ここは」
誰かが呟いた。
海図は、何の役にも立たなかった。
方位磁針の針は、ゆっくりと回り続けている。
風は吹いている。
波もある。
それなのに、どちらへ進んでも同じ霧の中へ戻ってくる。
ミアは甲板に立ち、海を見つめていた。
船酔いは、いつの間にか治まっていた。
代わりに、胸の奥にある感覚が強くなっている。
海の底から、何かが呼びかけている。
レナが隣に立った。
「……体調は?」
「もう大丈夫です」
「そう。よかった」
レナは海を見る。
「でも、状況は最悪ね」
「ですね……」
アレンは船首に立っていた。
霧の向こうを、じっと見つめている。
やがて、遠くに影が見えた。
島だった。
切り立った崖。
黒い岩肌。
その中央に、巨大な石造りの門が立っている。
門の表面には、五つの紋章が刻まれていた。
そして、その中央に――
見覚えのある剣の紋章があった。
アレンの右手が、再び熱を帯びる。
「……そうか」
彼は静かに呟いた。
「これが原因か」
「アレンさん?」
ミアが振り返る。
アレンは答えなかった。
ただ、島を見つめていた。
五千年前。
世界へ散っていった、自分の力。
その一つが、ここで眠っている。




