あなたに似てるわね
船が霧を抜けた。
それまで周囲を覆っていた濃い霧が、嘘のように薄れていく。
白く霞んでいた海面に朝日が差し込み、その向こうに、巨大な島が姿を現した。
「……見えました!」
船首に立っていたミアが声を上げた。
黒い岩壁が海面からそびえ立ち、切り立った崖の上には、緑の少ない荒涼とした大地が広がっている。島の中央には、山というにはあまりにも不自然な、鋭く尖った岩山が見えた。
その頂上付近だけが、朝日を浴びてもなお暗く沈んでいた。
「ようやく着いたわね」
レナが隣に並ぶ。
右目には、もう未来の光は浮かんでいない。
だが、その表情には緊張が残っていた。
「普通の島には見えないわ」
「ああ」
アレンは短く答えた。
視線は島の中央へ向けられている。
島を視界に捉えた瞬間から、右手に微かな違和感があった。
痛みではない。
熱でもない。
もっと深い場所から、何かに呼ばれているような感覚だった。
「アレンさん?」
ミアが顔を覗き込む。
「どうしました?」
「……いや」
アレンは右手を軽く握った。
「何でもない」
「本当ですか?」
「ああ」
ミアは少しだけ疑わしそうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
船が島の岸へ近づいていく。
波は不自然なほど穏やかだった。
さっきまで船を取り囲んでいた霧も、島の周囲だけがぽっかりと切り取られたように消えている。
まるで、船がここへ来るのを待っていたかのようだった。
船を降りると、三人は黒い砂浜に足をつけた。
砂は細かく、踏みしめるたびに靴底へ沈み込む。
周囲には漂着物すらほとんどない。
長い年月、人が訪れていない場所なのだろう。
「……静かですね」
ミアが小さく呟いた。
「鳥もいないわね」
レナが空を見上げる。
海鳥の姿はなく、岩場にも生き物の気配がない。
風だけが吹いていた。
アレンは砂浜を離れ、島の内陸へ続く岩道を見つめた。
そこには、かすかに人工的な痕跡があった。
自然に崩れた岩とは違う、平らな石の並び。
砂に埋もれた階段。
苔に覆われた石柱。
「こっちだ」
アレンが歩き始める。
「道があるんですか?」
「そうだ。見ればわかる」
「そうですか……」
ミアが呆れたように息を吐いた。
レナが小さく笑う。
「いつものことよ」
「レナさんまで……」
三人は岩道を進んでいった。
進むほどに、周囲の景色が変わっていく。
黒い岩の間から、古びた石造りの構造物が顔を覗かせる。
崩れた柱。
半分埋まった壁。
地面に倒れた、何かの像。
どれも、ただ古いというだけでは説明できないものだった。
風化の仕方が不自然なのだ。
表面が削れているのに、刻まれた模様だけは妙に鮮明に残っている。
まるで、何かの力によって保存されているようだった。
「これも、古代遺跡なんでしょうか?」
ミアが倒れた石像を覗き込む。
「そうでしょうね」
レナが答えた。
「でも、どの時代のものか分からないわ」
アレンは石像を一瞥した。
そこに刻まれているのは、人の姿だった。
剣を持ち、前方を見据えている。
顔の部分は削れていたが、その構えには見覚えがあった。
「……」
「アレンさん?」
「いや」
彼は石像から視線を外した。
「先へ進もう」
それ以上、何も言わなかった。
岩山の麓に、大きな門があった。
黒い石で造られた、巨大な門。
両側には柱のように太い石壁がそびえ立っている。
門の表面には、無数の古代文字が刻まれていた。
そして中央には、剣を模した紋章がある。
ミアが息を呑んだ。
「……大きい」
門の高さは、見上げなければ全体が視界に収まらないほどだった。
レナは周囲を警戒しながら、ゆっくりと近づく。
「入口はここだけみたいね」
「ああ」
「でも、どうやって開けるのかしら」
門には取っ手も、鍵穴もない。
隙間すら見当たらなかった。
レナは刻まれた文字を調べる。
「……読めないわね」
「私もです」
ミアが首を横に振る。
「見たことのない文字です」
アレンは黙って門を見上げていた。
その視線が、中央の剣の紋章で止まる。
右手の違和感が強くなった。
微かな震えと指先に走る熱。
アレンはゆっくりと手を伸ばした。
「アレン?」
レナが呼びかける。
アレンは答えなかった。
右手が、門の中央に刻まれた剣の紋章へ触れる。
――ドクン。
低い鼓動のような音が響いた。
門の表面に刻まれた古代文字が、一斉に青白く輝き始めた。
光は紋章から広がり、門全体を覆っていく。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
地面が震えた。
長い眠りから目覚めるように、門の奥で巨大な機構が動き始める。
黒い石壁に亀裂が走る。
やがて、中央に細い隙間が生まれた。
その隙間が、ゆっくりと左右へ広がっていく。
「開いた……!」
ミアが驚きの声を上げた。
レナはアレンを見る。
「あなたに反応したのね」
「ああ」
「この遺跡、あなたは知っているの?」
アレンは、開いていく門を見つめていた。
「……分からない」
それは、嘘ではなかった。
彼はこの島を知らないし、少なくとも、訪れた記憶はなかった。
それなのに、門は彼の手に反応した。
まるで、ずっと待っていたかのように。
やがて門が完全に開いた。
その奥には、暗い通路が伸びていた。
壁の両側に、青白い灯火が一つずつともる。
奥へ。
さらに奥へ。
どこまでも続いているように見えた。
アレンは右手を下ろした。
指先に残る微かな熱。
そして、胸の奥に生まれた、説明のつかない感覚。
「……行こう」
アレンが告げる。
ミアは頷き、杖を握り直した。
レナも槍を構える。
三人は、門の向こうへ足を踏み入れた。
背後で、巨大な門が静かに閉じ始めた。
遺跡の内部は、外から見た印象よりも遥かに広かった。
通路の壁は黒い石で造られ、ところどころに青白い光を放つ鉱石が埋め込まれている。
灯火の間隔は一定に配置されている。
まるで、今も誰かがここを管理しているかのように。
「……本当に、誰もいないんでしょうか」
ミアが周囲を見回す。
「気配はないわ」
レナは槍を構えたまま答えた。
「でも、何かが動いている感じがする」
「ああ」
アレンも頷いた。
この遺跡には、魔物の臭いも、獣の気配もない。
それなのに、完全な静寂とは違っていた。
壁の奥。
床の下。
見えないどこかで、何かが息を潜めている。
そんな感覚があった。
しばらく進むと、通路の壁に大きな壁画が現れた。
古代文字とともに、何枚もの絵が連なっている。
「これ……何でしょう?」
ミアが足を止めた。
壁画には、鎧を身につけた人間たちが描かれていた。
その前に立つのは、黒い外套をまとった一人の剣士。
剣を構え、巨大な怪物と対峙している。
「……戦いの記録かしら」
レナが壁画を見上げた。
「でも、何千年も前のものに見えるわね」
アレンは壁画の前に立った。
描かれた剣士の姿を見つめる。
黒い外套。
腰の剣。
そして、敵の攻撃を紙一重でかわす独特の構え。
見間違えるはずがなかった。
「……アレンさん?」
ミアが不安そうに呼ぶ。
アレンは答えなかった。
壁画の先へ目を向ける。
そこには、別の場面が描かれていた。
剣士が巨大な魔物を斬り伏せている。
次の壁画では、角を持つ魔族の戦士と刃を交えていた。
さらに先。
燃え上がる城。
崩れ落ちる塔。
黒い空の下で、無数の魔族が剣士を取り囲んでいる。
どの壁画にも、同じ剣士が描かれていた。
そして、どの戦いにも、彼の隣に仲間の姿はなかった。
「……一人で、戦っていたんですね」
ミアが呟く。
その声は、少しだけ寂しそうだった。
アレンは壁画を見つめたまま答えた。
「……ああ」
「ずっと一人だったように見えますね」
「そうだな」
短い返事だった。
レナがアレンを見る。
「あなたに似ているわね」
「……そうか?」
「ええ」
レナは壁画の剣士を指した。
「剣の構えも、立ち方も。まるであなたを描いたみたい」
アレンは何も言わなかった。
壁画に描かれた剣士は、五千年前の自分だった。
魔王の配下と戦い、各地の砦を落とし、幾度となく命を狙われた。
あの頃の彼には、前へ進む以外の選択肢がなかった。
立ち止まれば、誰かが死ぬ。
自分が倒れれば、世界が終わる。
だから、一人で戦った。
それが正しいと信じていた。
「……先へ進もう」
アレンは壁画から目を離した。
ミアは何かを聞きたそうにしていたが、口を閉じた。
レナも、それ以上は尋ねなかった。
三人は再び歩き始めた。
通路の先には、巨大な扉があった。
扉の中央には、剣を模した紋章。
その周囲には、古代文字が円を描くように刻まれている。
アレンが近づくと、文字の一部が青白く輝いた。
「また反応してる……」
ミアが呟く。
レナは扉の周囲を調べた。
「仕掛けがあるのかしら」
「いや」
アレンは中央の紋章を見つめていた。
「これは、鍵だ」
「鍵?」
「ああ」
彼は右手を伸ばし、剣の紋章へ触れた。
――ドクン。
先ほどと同じ鼓動が響く。
扉に刻まれた文字が一斉に輝き、床の下から重い駆動音が伝わってきた。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
巨大な扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうには、広い空間が広がっていた。
青白い光に照らされた石柱。
壁に刻まれた無数の紋様。
そして、遥か下へ続く階段。
「……何段あるんでしょう」
ミアが下を覗き込んだ。
「数えたいなら数えて良いぞ」
「遠慮しておきます」
「なら行くぞ」
「もう……」
ミアが小さく息を吐く。
レナはその後に続いた。
三人は階段を下りていく。
進むほどに、空気が冷たくなっていった。
壁の装飾は複雑になり、古代文字の数も増えていく。
その中には、明らかに文字ではないものまであった。
五千年前に存在した言語とは違う。
似ている部分は確かにある。
だが、明らかに別の体系だった。
「……おかしい」
アレンが足を止めた。
「どうしたの?」
レナが尋ねる。
「この文字だ」
アレンは壁に刻まれた文字を指した。
「俺が知っている古代文字とは違う」
「五千年前よりも古いってことですか?」
ミアが尋ねる。
「……分からない」
アレンは首を横に振った。
「だが、少なくとも俺が知っているものじゃない」
レナの表情が険しくなった。
「あなたでも知らない遺跡と文字……」
「そうなるな」
三人は顔を見合わせた。
この島は、ただの古代遺跡ではない。
アレンの過去に関わる何かが、ここに眠っているように感じる。それだけは確かだった。
階段を下りきった先に、最後の通路があった。
その両側にも、壁画が並んでいる。
だが、これまでのものとは違っていた。
描かれているのは、戦いの終わりだった。
黒い空。
崩れた大地。
巨大な影と対峙する一人の剣士。
その手には、黒い剣が握られている。
刃の縁には、青白い光が走っていた。
アレンは足を止めた。
「……」
壁画に描かれた剣を見つめる。
見間違えるはずがなかった。
五千年前。
魔王との最後の戦いで、彼が振るっていた剣。
自分の手に馴染み、幾度となく命を救ってくれた相棒。
最後の一撃を放った瞬間、手の中から消えた剣。
あの戦いのあと、どれだけ探しても見つからなかった。
だから、失われたのだと思っていた。
「……アレンさん?」
ミアが隣に立つ。
「どうしたんですか?」
「……いや」
アレンは壁画から目を離した。
「何でもない」
だが、その声はいつもより低かった。
レナは何も言わず、アレンの横顔を見ていた。
彼が何かを知っていることは分かる。
けれど、それを今すぐ話すつもりがないことも。
三人は最後の通路を進んだ。
やがて、前方に巨大な石扉が現れる。
これまでの扉よりもさらに大きい。
表面には無数の傷が刻まれ、中央には剣の紋章が浮かび上がっていた。
その紋章は、壁画に描かれた剣と同じ形をしていた。
アレンの右手が、かすかに震える。
指先に熱が集まっていく。
まるで、扉の向こうから何かが呼びかけているようだった。
「……ここだ」
アレンが呟いた。
「何があるんですか?」
ミアが尋ねる。
アレンは答えなかった。
ただ、石扉へ近づいていく。
そして、中央の紋章へ右手を触れた。
――ドクン。
鼓動が響く。
青白い光が紋章から広がり、扉全体を覆った。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
重い音とともに、石扉がゆっくりと左右へ開いていく。
その奥から、冷たい風が吹き抜けた。
三人は息を呑んだ。
扉の向こうには、巨大な広間が広がっていた。
天井は高く、壁には無数の古代文字が刻まれている。
床の中央には、円形の台座。
そして、その中心に――
一本の剣が突き刺さっていた。
黒い柄。
風化した鞘。
長い年月を経ても、なお折れることなく、そこに残されている。
アレンは、動かなかった。
目の前にある剣を、ただ見つめていた。
五千年前。
魔王との最後の戦いで、失ったと思っていた剣。
もう二度と、握ることはないと思っていた相棒。
それが今、目の前にある。
「……そんな……」
ミアが小さく呟いた。
レナも言葉を失っていた。
あれは、壁画に描かれていた剣そのものだ。
アレンは一歩、前へ進んだ。
右手が、かすかに震える。
今度は、熱ではなかった。
五千年もの間、忘れたことなど一度もなかった。
その重さも。
その感触も。
手の中にあった、あの確かな存在も。
アレンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……まだ、残っていたのか」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、目の前の剣に向けられた言葉だった。
アレンは、台座へ向かって歩き出す。
ミアも、レナも、その後に続くことは無かった。
二人には分かっていた。
今だけは、アレン一人で歩かせるべきなのだと。
五千年の時を越えて。
失われたはずの相棒が、再びアレンの前に姿を現した。
だが――
剣を取り戻すことが、これほど簡単に済むはずもなかった。




