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行こう

 

――五千年前。


朝。

幼いアレンは、いつものように目を覚ました。


木で作られた小さな家。

窓の隙間から、朝の光が差し込んでいる。

鳥の声。

遠くで鳴く家畜。

どこかの家から聞こえる薪を割る音。


「アレン、起きなさい」


母親の声がした。


「……うん」


少年は眠そうに目をこすった。

今のアレンからは想像できないほど、幼い声だった。


布団から起き上がる。

服を着る。

寝癖のついた髪を手で直す。


「早くしなさい。朝ご飯が冷めるわよ」

「分かった」


アレンは部屋を出た。

小さな家だった。


木の床。

簡素な机。

椅子が四つ。

壁には農具が掛けられている。


父親がすでに席についていた。


「おはよう」

「おはよう」


母親が朝食を並べる。


硬いパン。

薄いスープ。

少しの野菜。

それだけだった。


「今日は畑を手伝ってくれ」


父親が言う。


「うん」

「昼前には村長のところへ行くぞ」

「何かあるの?」

「村の仕事だ」

「分かった」


少年はパンをちぎった。


いつもの朝。

何も変わらない朝だった。


――そのはずだった。

朝食を終えたアレンは、食器を片付けようとして。


ふと、自分の腕を見た。


「……?」


そこに。

見たことのない紋様が浮かんでいた。


赤でもない。

青でもない。

金色でもない。

白とも黒ともつかない、不思議な光を帯びた紋章。


「……父さん」


父親が振り返る。


「どうした?」

「これ……」


アレンが右手を見せる。

父親の表情が変わった。


「……なんだ、それ」


母親も近づいてくる。


「どうしたの?」

「アレンの手に……」


母親が息を呑む。

紋章は消えなかった。

むしろ、朝の光を受けて淡く輝いている。


「痛くない?」

「うん」

「熱は?」

「ない」

「じゃあ、これは……」


父親が黙り込む。

村には、古い言い伝えがあった。


数百年に一度。

世界を救う者が選ばれる。

その者には、生まれつき、あるいは突然。

特別な紋章が現れる。


「……村長に見せよう」


父親が言った。


「うん」


少年アレンは頷いた。

自分の人生が。

この朝を境に、大きく変わることなど。

まだ知らなかった。






村長の家は、村の中央にあった。

小さな村だったが、そこだけは少し大きな建物になっている。

父親が扉を叩く。


「村長、いるか?」

「入れ」


中から老人の声がした。

アレンと両親が入る。


「どうした?仕事時間には早いと思うが」


村長が顔を上げる。

父親がアレンの手を見せた。


「これを」

「……」


村長の表情が変わった。

椅子からゆっくりと立ち上がる。

アレンの手を両手で持ち、紋章をじっと見る。


「間違いない」

「何がです?」


母親が尋ねる。


「勇者の紋章だ」


部屋の中が静かになった。


「勇者……」


アレンが呟く。


「そうだ」


村長は少年を見る。


「村の記録書にも、同じ紋章が描かれている」


「じゃあ……」


父親の声が震えた。


「この子が……?」

「そうだろう」


村長は深く息を吐いた。


「勇者として選ばれたのだ」


 アレンは自分の手を見る。


「……俺が?」

「ああ」

「勇者って、何をすればいいの?」


村長は少し困った顔をした。


「それは……」


答えられない。

村長も勇者を見たことがあるわけではない。

ただ、記録に書かれているだけ。


魔王が現れたとき。

勇者が立ち上がる。

世界を救う。

それだけだった。


だが。

この村は貧しかった。

王都から遠く離れた、名もない農村。

勇者を育てるための施設などない。


訓練する騎士もいない。

魔法を教える魔術師もいない。


だから。

村長は、できることだけをすることにした。


「王都へ行きなさい」

「王都?」

「ああ」


「そこで、王様に紋章を見せる」

「そうすれば?」

「本物の勇者かどうか、王国が調べてくれる」


アレンは黙って聞いていた。


「でも……」


母親が不安そうに口を開く。


「この子、一人で行くんですか?」

「王都までの道は危険だ」


村長も苦い顔をする。


「だが、ここで何もしないわけにはいかない」


父親が拳を握る。


「……俺が連れていく」


村長は首を横に振った。


「お前が村を離れたら、畑はどうする?」

「……」

「冬も近い」


父親は黙った。

村には余裕がない。


食料も。

金も。

人手も。


勇者が生まれたからといって、村が急に豊かになるわけではなかった。


村長は倉庫から一本の剣を持ってきた。

古びた銅の剣。


「これを持っていきなさい」


アレンが受け取る。

ずしりと重い。


「銅の剣だ」

「これで戦える?」

「……分からん」


村長は正直に答えた。


「だが、何も持たないよりはいい」


次に、小さな袋を渡す。


「薬草だ。傷を負ったときに使いなさい」


さらに、少しの硬貨。


「これで王都までの食料を買いなさい」

「……はい」


それだけだった。

勇者に与えられたのは。


銅の剣。

少しの薬草。

わずかな金。

そして、最低限の旅道具。


それが。

この村にできる精一杯だった。






翌朝。


村の入口。

アレンは小さな荷物を背負っていた。


腰には銅の剣。

薬草袋。

少しの食料。

それだけ。


母親が何度も荷物を確認する。


「薬草は?」

「ある」

「食べ物は?」

「ある」

「お金は?」

「ある」


「寒くなったら――」

「大丈夫だよ」


アレンは笑った。


けれど。

母親の目は赤かった。

父親は少し離れたところに立っている。

何か言おうとして。

結局、何も言えずにいる。


「父さん」

「……なんだ」

「行ってくる」

「ああ」


父親は少年の肩に手を置いた。


「無理するな」

「うん」

「勇者だからって、何でもできるわけじゃない」

「……分かった」


父親は少し黙った。

そして。


「帰ってこい」


短い言葉だった。

アレンは頷いた。


「うん」


母親が抱きしめる。


「ちゃんと帰ってきてね」

「うん」


アレンは二人から離れた。

村長も見送っている。


「王都へ行けば、きっと誰かが助けてくれる」

「はい」

「気をつけて」

「ありがとうございます」


アレンは歩き出した。


振り返る。

両親がいる。

村長がいる。

小さな家々が並んでいる。

畑がある。


いつもの村。

少年にとっての世界のすべてだった。

アレンは手を振った。


そして。

独りで初めて村を出た。






最初の町に着いた頃には、日が暮れていた。

アレンは疲れ切っていた。

王都までは、まだ遠い。


町の入口で足を止める。

冒険者らしき男たちが魔物の死体を運んでいた。


大きな剣。

立派な鎧。

見慣れない魔道具。


アレンは自分の腰を見る。

いつ壊れてもおかしくない銅の剣。


「……」


少しの羨望感を持ちつつも、今やることは一つ、宿を探す事だ。


けれど。

持っている金では、安い宿しか取れなかった。


部屋に入る。

小さなベッド。

硬い床。


アレンは荷物を置いた。

銅の剣を壁に立てかける。


そして、自分の右手を見る。

勇者の紋章とみんなは呼んでいた。


これがあれば。

本当に、自分は勇者なのだろうか。


その夜。

アレンは初めて。

少しだけ不安になった。






翌朝。

町を出ようとしたアレンは、街道脇で騒ぎ声を聞いた。


「誰か! 助けてくれ!」


振り返る。

荷馬車が倒れている。

その周囲に、小さな魔物が三体。


ゴブリンだった。

アレンは立ち止まった。

腰の銅の剣を見る。


助けなければ。

そう思った。

勇者なのだから。


アレンは剣を抜いた。

ゴブリンが振り返る。


「ギャッ!」


一体が棍棒を振り上げる。

アレンは剣を構えた。


だが。

重い。

銅の剣は、思っていたよりずっと重かった。


ゴブリンの棍棒を受け止めた瞬間。


「……っ!」


腕が痺れた。

押される。足が下がる。

もう一体が横から襲いかかってくる。


「くっ……!」


アレンは慌てて身体を捻った。

爪が肩をかすめる。


痛い。

初めて。

魔物に攻撃された。


怖かった。けれど。

逃げるわけにはいかなかった。


アレンは剣を握り直した。

そして。

力任せに振った。


ゴブリンの肩へ刃が食い込む。


「ギャアッ!」


ゴブリンが倒れる。

残った二体が襲ってくる。

アレンは後ろへ下がる。


剣を振る。

また振る。

何度も。

何度も。


ようやく最後の一体を倒した。


荒い息が漏れる。

手が震えている。

肩から血が流れている。


それでも。


「……勝った」


アレンは呟いた。

そのとき。

荷馬車の持ち主が駆け寄ってきた。


「ありがとう!」

「……うん」


アレンは笑った。

勇者の紋章があれば。

強いと思っていた。


違った。

自分は。


まだ弱い。

だから。

もっと強くならなければならない。


その日。

少年アレンは初めて。

勇者になるための一歩を踏み出した。






それから。

アレンは町を渡り歩いた。


魔物と戦った。

剣を振った。


何度も負けた。

何度も傷ついた。


それでも、少しずつ強くなっていった。


ある町では、老兵に剣を教わった。

ある町では、魔術師から魔物の習性を学んだ。

別の町では、旅人から世界の広さについて話を聞いた。


村しか知らなかった少年にとって。

見るものすべてが新しかった。


そして。

一年の長旅を経てようやく。


王都へ続く大きな街道が見えてきた。

少年は足を止める。


遠くに見える巨大な城壁。

その向こうに、王城がある。


勇者として。

自分が行くべき場所。

アレンは銅の剣を握った。


旅の間に、何度も修理した剣。

傷だらけになった。

それでも、まだ使える。


「……行こう」


少年は歩き出した。

この先で。

自分が本当の勇者になるのだと思っていた。






時は戻り現在


宿の窓から差し込む夕日が、アレンの顔を照らしていた。


「……」


アレンの昔話を

いつの間にか手を止めて聞いていた三人。


「寂しくなかったんですか……?」

「いきなり一人で旅に出なくちゃいけなくなって……」


ミアは悲しそうにアレンに書いた。

アレンは当時を思い出しながら、目を細めた。


「寂しかったさ。何度も村へ戻りたいって思った」

「でも、それをしたら勇者じゃ無くなってしまうから」

「だから、前に進み続けた」


レナとマリスは何も言わなかった。言えなかった。

勇者の御伽噺は小さい頃からよく聞かされていた。

期待と希望を宿して邁進し続ける勇者の物語。


だが、蓋を開けてみたらどうだ。

まともな準備も無く、いきなり旅に出なくてはいけなくなった。

たった一人の少年がだ。


「何度も負けて、やられて。死ぬ事は無かったけどそれでも死と隣り合わせの旅だった。

町で剣を買おうにも、そうすると宿に泊まる金が無くなる。王都に着くまでは金欠の旅だったな」


幼い頃の自分を懐かしみながら語るアレン。

どれだけ長い長い年月を生きていても、忘れる事のできない思い出の一つだ。


数分の沈黙。

時計の針は頂点を指そうとしている。


「もう夜も遅いんだ。眠気で体が重いのは響くぞ」


そう言いながらアレンは部屋から出て行った。

定例の見回りだろう。



三人は、彼が出て行った扉を眺める事しか出来なかった。


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