そんなはずはない
森の奥から現れた巨大な魔物が、四人を睨みつけていた。
黒灰色の皮膚。
四本の太い脚。
背中には鋭い突起が並び、頭部からは角が伸びている。
その巨体は、先ほどまで四人が相手にしていたグレートウルフとは比較にならなかった。
地面を踏みしめるだけで、周囲の土が震える。
ミアが息を呑んだ。
「……これが、大型魔物……」
レナは槍を構え直す。
「想像していたより大きいわね」
マリスは弓を引いたまま、魔物の胸元を見つめていた。
「気をつけて」
「何か分かったのか?」
アレンが尋ねる。
「こいつ、普通じゃない」
マリスの視線の先。
魔物の胸元に、薄紫色の光が浮かんでいる。
それは先ほど倒したグレートウルフたちに刻まれていたものと、よく似ていた。
「同じ印……」
ミアが呟く。
「ええ」
マリスは頷いた。
「でも、こいつの方がずっと濃い」
魔物が唸った。
次の瞬間。
地面を凄まじい勢いで蹴った。
「来る!」
レナが叫んだ。
巨体が一直線に突っ込んでくる。
木々が薙ぎ倒され、土が巻き上がった。
アレンが前へ出る。
「俺が止める」
「一人で?」
「時間を稼ぐだけだ」
アレンが剣を構えた。
魔物が目の前まで迫る。
巨大な角が突き出された。
アレンは身体を横へ滑らせる。
角が外套を掠めた。
そのまま懐へ入り込み、剣を振るう。
――ガキンッ!
刃が皮膚を斬り裂く。
だが、それだけで歯こぼれをを起こしてしまう。
「硬いな」
アレンが一歩下がる。
魔物が身体を反転させ、巨大な尾を振り回した。
アレンが跳んだ足元を尾が薙ぎ払う。
たったそれだけで木が数本まとめて折れた。
「アレンさん!」
「大丈夫だ」
空中で身体を捻り、着地する。
その隙に、レナが踏み込んだ。
「こっちよ!」
槍が閃く。
魔物の前脚を狙って、鋭い突きが連続して放たれる。
一撃。
二撃。
三撃。
魔物がレナへ意識を向けた。
「今!」
レナが叫ぶ。
ミアが杖を掲げた。
「大地よ!」
ミアの呪文で地面から数本の柱が盛り上がると
魔物の脚へ絡みつき、その動きを止めた。
巨体が地面を踏み砕こうとする。
だが、その隙をマリスは逃さない。
――ヒュッ。
矢は魔物の胸元へ突き刺さる。
「そこが弱点だ!」
マリスが叫んだ。
矢が刺さった場所。
薄紫色の印が、わずかに明滅している。
アレンの目が細くなる。
「……あれか」
「ええ」
マリスが次の矢を番える。
「グレートウルフにも同じものがあった。あれが力を流してる」
「外から?」
「たぶん」
魔物が咆哮した。
次の瞬間。
胸元の印から紫色の光が噴き出した。
傷口が急速に塞がっていく。
レナが目を見開く。
「再生した?」
「違う」
マリスが即座に否定した。
「傷を治してるんじゃない。魔力で身体そのものを強化してる」
アレンは魔物を見る。
「魔物自身の力じゃないな」
「そう」
マリスが頷いた。
「この魔物にそんな力はない」
彼女は目を細める。
「どこから来ている?」
マリスは一瞬だけ黙った。
そして。
「……東」
短く答えた。
「東から流れてきてる」
アレンが東の森へ視線を向ける。
ほんの一瞬。
何かを思い出しかけた。
古い風景。
崩れた石。
遠い昔に見たような――。
だが、すぐに意識を戻す。
「なら、先にこいつを倒す」
レナが槍を握り直した。
「そうね」
ミアも杖を構える。
「私もやります」
マリスが笑った。
「じゃあ、作戦を変えましょう」
四人が、それぞれの位置についた。
アレンが正面。
レナが右。
ミアが後方。
マリスが木々の間。
「まず、私が印を狙う」
マリスが弓を引く。
「レナ、動きを止められる?」
「任せて」
「ミアは足をお願い」
「分かりました」
「アレンは――」
「分かっている」
マリスが少しだけ笑う。
「話が早くて助かるわ」
魔物が再び彼らめがけて突進してくる。
「行くわよ!」
レナが正面から迎え撃つ。
槍が閃いた。
魔物の脚へ突き込む。
魔物が身体を捻った。
その瞬間。
ミアが杖を振る。
「大地よ、絡め!」
地面から岩の腕が伸びる。
魔物の後脚を掴んだ。
巨体がよろめく。
そこへマリスの矢が飛ぶ。
一本。
二本。
三本。
矢はすべて胸元の印を狙っていた。
魔物が身体を振り尾をマリスへと振り抜く。
「危ない!」
ミアが叫ぶ。
マリスは身を低くした。
が頭上を通り過ぎる。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
ミアが笑う。
その間に、レナが踏み込む。
「こっち!」
槍が魔物の肩を貫いた。
魔物が咆哮する。
身体が大きく揺れる。
アレンは、その瞬間を逃さなかった。
懐へと踏み込む。
一歩。
二歩。
三歩。
剣を振り上げる。
だが。
寸前で魔物が角を振った。
アレンは身体を捻ってかわす。
角が頬を掠める。
そのまま魔物の背後へ回った。
そして。
「ミア」
「はい!」
ミアが杖を振る。
地面が大きく隆起した。
魔物の後脚が持ち上がる。
巨体が崩れた。
「レナ!」
「分かってる!」
レナが槍を突き出す。
槍が魔物の肩を貫き、その動きを止める。
マリスが最後の矢を番えた。
「アレン!」
「ああ」
矢が放たれる。
一直線に飛んだ矢が、胸元の印へ突き刺さった。
紫色の光が大きく揺らぐ。
「今!」
アレンが踏み込んだ。
剣を振り下ろす。
刃が印へ食い込む。
――パキンッ。
何かが割れるような音がした。
紫色の光が弾ける。
魔物の身体から、力が抜けていく。
巨体が地面へ崩れ落ちた。
――ズン。
森が揺れた。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて。
ミアが小さく息を吐く。
「……終わった?」
レナが槍を下ろす。
「そのようね」
マリスは倒れた魔物へ近づいた。
胸元にあった印は消えている。
けれど。
その周囲に、薄紫色の光が残っていた。
「……まだ終わってない」
マリスが呟く。
「何?」
レナが尋ねる。
マリスは地面へ手を触れた。
紫色の光が、細い糸のように地面へ吸い込まれていく。
そして。
ゆっくりと東へ向かっていた。
「魔力が流れてる」
マリスが立ち上がる。
「こいつに力を与えていた何かが、まだ向こうにある」
アレンは東を見る。
「遺跡か?」
マリスが驚いたように振り返る。
「……どうしてそう思ったの?」
「この辺りには古い遺跡があるんだろう?」
「ある」
マリスは少し考えた。
「東の山の向こうに」
「行くのか?」
「もちろん」
即答だった。
「私はそのために、この国まで来たの」
ミアが首を傾げる。
「遺跡を調べていたんですか?」
「ええ」
マリスは弓を背負い直す。
「この地方には、今の人間たちが使っている魔法とは違う、古い魔法の痕跡が残っているの」
「古い魔法……」
アレンが呟く。
その言葉に、わずかに反応した。
マリスはそれを見た。
けれど、何も聞かなかった。
「東へ行きましょう」
マリスが言う。
「この魔力の流れを追えば、何か分かるはず」
レナがアレンを見る。
「どうする?」
アレンは少しだけ考えた。
そして。
「行こう」
短い答えだった。
四人は東へ向かった。
山道を進むにつれ、人の気配は少なくなっていった。
街道を外れ、獣道を越え、さらに奥へ進む。
やがて。
木々の向こうに巨大な岩壁が見えてきた。
「ここ」
マリスが足を止める。
山の一部が、まるで誰かに切り取られたように垂直に削られている。
その中央に。
巨大な石の門があった。
苔に覆われてところどころ崩れている。
それでも、長い時間を耐えたとは思えないほど、形を残していた。
ミアが門を見上げる。
「……これが、遺跡?」
「ええ」
マリスが答える。
「私が探していた場所よ」
レナが門の表面を見る。
そこには、見たことのない文字が刻まれていた。
「読める?」
「……少しだけ」
マリスが文字へ近づく。
指でなぞる。
「古い言葉ね」
「何と書いてある?」
「分からない」
レナが目を丸くする。
「分からないの?」
「古すぎるのよ」
マリスは苦笑した。
「文字の形は知ってる。でも、この時代の使い方とは少し違う」
アレンは黙って門を見ていた。
その瞬間。
右手が、わずかに震えた。
「……」
同じ感覚を知っている。
封印の直前。
世界中の魔力が一点へ集まった、あの瞬間と似ている。
けれど。
ここにあるのは、もっと古い。
もっと深い。
まるで、自分が生まれるより前から存在していたもののようだった。
アレンは右手を握りしめた。
「アレン?」
マリスが振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
アレンは門を見つめる。
「触らない方がいい」
マリスが門へ伸ばしていた手を止めた。
「どうして?」
「分からない」
「分からないのに?」
「ああ」
マリスが少しだけ眉を寄せる。
その瞬間だった。
門の中央に刻まれた紋様が、淡く光った。
「……!」
四人が身構える。
光は、ゆっくりと広がっていく。
文字が一つ。
また一つ。
次々と輝き始める。
そして。
アレンの右手に、焼けるような熱が走った。
「……っ」
思わず手を押さえる。
マリスが目を見開いた。
「今、あなたの手……」
「何でもない」
「でも――」
その言葉を遮るように。
門の奥から音が響いた。
――ゴゴゴゴゴ。
巨大な石門が、ゆっくりと動き始める。
「勝手に……?」
ミアが後ずさる。
「違う」
マリスが呟いた。
「これは……」
彼女は門を見つめる。
「誰かが開けてるんじゃない」
「じゃあ、何が?」
レナが尋ねる。
マリスは答えなかった。
ただ。
アレンを見た。
門の光が、彼の右手と同じように脈動していた。
――ドクン。
アレンの目がわずかに見開かれる。
門の表面に刻まれた文字が、一瞬だけ別の形へ変わった。
読めない。
マリスにも。
レナにも。
ミアにも。
けれど。
アレンだけは。
その意味を知っていた。
一度だけ見たことがある。
「……そんなはずはない」
アレンの口から、初めて明確な動揺が漏れた。
ミアが振り返る。
「アレンさん?」
アレンは答えない。
門が開いていく。
その向こうには、ただ暗闇があるだけだった。
そして暗闇の奥から。
風が吹いた。
冷たい風だった。
地上の風ではない。
長い年月、誰にも触れられていなかった空気。
その風が、四人の間を通り抜けていく。
マリスが小さく呟いた。
「……中に、何かいる」
レナが槍を構える。
「分かるの?」
「分からない」
マリスは弓を握り直した。
「でも、何かがある」
アレンは開いた門の奥を見つめた。
自分はこの場所を知らなかった。知らなかったはずだった。
なのに。
なぜ、この門は自分を知っている?
なぜ、あの文字がここにある?
そして。
なぜ今になって、開いた?
「……行くぞ」
アレンが歩き出した。
「待ってください!」
ミアが追いかける。
レナも続く。
「一人で先に行かないで」
マリスは最後まで門を見ていた。
そして。
意を決して、その中へ入る。
四人の姿が、暗闇に消えた。
その瞬間だった。
――ゴゴン。
背後で石門が閉じた。
「……え?」
ミアが振り返る。
完全な闇。
来た道は、もうない。
「閉じ込められた?」
レナが門へ近づく。
槍の石突きを当てる。
――カン。
硬い音が響いた。
動かない。
「開かないわ」
マリスが周囲を見回す。
壁。
床。
天井。
どこにも出口はない。
ただ。
正面に一本の道だけが伸びている。
その先に、巨大な石の扉があった。
扉の中央には。
あの時と同じ紋様。
そのうち一つが、淡く赤く光っている。
アレンが足を止めた。
「……」
見覚えがあった。
とある城の地下。
最後の戦いへ向かう直前。
同じ紋様を見た。
ただし。
あのときは、四つだった。
今は。
五つ。
「アレンさん?」
ミアの声が響く。
アレンは答えなかった。
そのとき。
――ドクン。
遺跡全体が揺れた。
壁の奥から。
巨大な何かが脈打っている。
――ドクン。
今度は、もっと近い。
石の扉の向こうから。
そして。
暗闇の中で。
何かが、ゆっくりと目を開いた。




