第17話 婚前契約
ルーカスは、嘘をついている。――彼の話を聞いて最初にライナーが思ったのはそれだった。
ルーカスは、ライナーの父がルーカスを投資に誘ったと言うが、逆のはずだ。それどころか、ルーカスが詐欺師に繋がっていたのではないかとライナーは疑っている。
ライナーは、ルーカスの話を聞いて気分が悪くなり、婚前契約の話は次の機会にすることにした。
ルーカスの執務室を退出し、ドアが閉まった途端、ライナーは表情を繕っていられなくなり、フラフラとして廊下の壁に手をついた。
「ライナー、大丈夫ですか?」
後ろから心配げな声がした。振り返らなくても声だけでライナーはアレクサンドラだと分かった。振り返ってしまえば、ひどい顔をしているのが見られてしまうから、ライナーはそのままの姿勢で答えた。
「気分が悪くなってしまったから、今日はこれで失礼するよ。すまない」
「まさか父が何かひどいことを言いましたか?」
「そんなことはないんだ。ただ、亡き父のことを教えてもらっただけだ。君の父上のせいではないよ。私がまだ父の死を乗り越えられないだけなんだ」
「父が余計なことを言ってすみません」
「いや、私が聞きたいと言って頼んだんだ。君の父上は悪くない」
「それならいいですが……」
「じゃあ、これで失礼するよ」
ライナーは、アレクサンドラの視線を背中に感じながら、少しふらつきながらも去って行った。
◇ ◇ ◇
翌日、ライナーは気分を一掃して再びブラバント伯爵家を訪れ、アレクサンドラの婚前契約についてルーカスと話を詰めた。
貴族やブルジョアでも恋愛結婚が増えつつある昨今、婚前契約は必須ではないが、見合い結婚ではまだまだ一般的だ。特に相手がブラバント伯爵家のように裕福な家の者なら、アレクサンドラの兄ヨハネスのように恋愛結婚だとしても、婚前契約を結ぶのが当然だろう。
アレクサンドラの持参金は、ライナーが吹っ掛ける必要もなく、潤沢に持たせてくれることになったが、それはライナーが自由にできる金ではない。だがルーカスは娘の結婚にあたって別の資金を用意し、ツヴェルガー公爵家が背負った巨額の借金の返済のめどをつけると提案してくれた。
「君達の結婚に際して借金の3分の2を我が家が一気に肩代わりしよう。残りの3分の1も我が家がとりあえず代わりに分割で返すが、結婚6年目から公爵家からその分を返済してもらう」
そこでライナーは、ルーカスの視線を感じた。未来の義父は、ライナーがどう出るか、自信のなさそうな目をしていた。
「ゴホン……全額うちが肩代わりしないことに不満ではないかな? 本当はそうしたいのは山々だったんだが、うちにとっても巨額なうえに、ヨハネスが強硬に反対してな……こういう結論になったのだよ」
「構いません。援助いただけるのに贅沢は言えません」
ライナーは、知らず知らずのうちに下唇を噛んでいた。金策に駆けずり回るようになってから、大分慣れたと言っても、ライナーにとって援助を乞いたり、してもらったりするのはいつも屈辱だった。ましてや父親の仇だ。
「それから毎月、アレックスの品質維持費も含めた仕送りをすることも婚前契約に入れたかったのだが、それにもヨハネスに強硬に反対されてしまってね。私個人の予算からの支出にすることにしたが、婚前契約には盛り込めないことになった。そっちは私との契約書を作って盛り込もう。いいだろうか?」
「それも構いません」
そう言ったライナーは、ルーカスとの契約書草案を見てピタッと動きを止めた。
「これは……」
契約書草案には、アレクサンドラの品質維持費の他、彼女が実家から連れて来た使用人の給料はルーカスが払うと書かれていた。それはもちろん、ライナーにはありがたい。
契約期間は、とりあえず結婚後5年間で、その後のことは契約終了半年前までに決めるとある。
だがライナーが目を止めたのは、そこではなかった。草案には、ルーカスが契約期間中に亡くなった場合はこの契約は無効になると書かれている。
ライナーの視線の先に気づいたルーカスは、急いでこう付け加えた。
「ああ、それが気になったかい? 私はまだまだ若いつもりだし、健康だからね。アレクサンドラが結婚して5年以内に死ぬつもりはないよ。ただ、ヨハネスがそれにも口を出してきて仕方なく入れたんだ」
「……そうですか。分かりました」
目の前のルーカスは、50歳を過ぎたばかりでまだまだ壮健に見える。彼が契約期間中に亡くなる可能性はそれほど高くないだろうとライナーは判断した。
「ハァー、了承してもらえてよかったよ」
ルーカスは、心底ホッとしたように深呼吸して、もう1度別のことを提案した。
「若い2人のことだから、心配ないとは思うんだが……白い結婚が5年続いたら、肩代わりした3分の2の借金も我が家に返済してもらう。いいかな?」
「ブッ……」
「すまないね。ヨハネスがどうしてもこの条項も入れろと言ってきて聴かなかったんだよ」
「ゴホゴホゴホ」
「大丈夫かね?」
紅茶のカップを口につけていたライナーは、誤飲しそうになってせき込んだ。
「だ、大丈夫です」
「それから……」
「まだ条件があるのですか?」
「ああ、子供のことだよ。うちのヨハネスは結婚してもう5年になるが、子供がいない。これからも多分できないだろう。君達に子供が2人以上できたら、女の子でもヨハネスの養子にしてやってほしい」
「もし1人しかできなかったら? 2人できたとしても、1人目が女の子で2人目が男の子だったら? どうするつもりですか?!」
「1人しかできなかったら、諦めて親戚から養子をもらうよ。もし男女1人ずつ子供がいたら、うちは女の子でいい」
「……女の子でいい?」
「ああ、すまない。気を悪くしたかね。うちとしては、ブラバント伯爵家の血を受け継ぐ子なら、男の子でも女の子でもどちらでもいいから養子にもらいたいんだ」
「それも婚前契約に盛り込むのですか?」
「ああ、そうできればいいと思っているが、どうかね?」
「いや、それは……」
ライナーが渋ると、ルーカスは毎月の援助を増やすと提案し、ライナーは結局呑んだ。
「やぁ、やっと肩の荷が下りたよ。ありがとう」
ルーカスは、心底ホッとした様子だったが、すぐにまた真顔になった。
「それから……うちの娘を頼むよ。あの子は世間知らずで夢見がちな子なんだが、いい子なんだ。幸せにしてやってくれ」
ルーカスは、目を潤ませて頭を下げた。そのつむじをライナーは冷めた目で見た。だが、その冷たい表情はルーカスが頭を上げた時にはすっかり消え、彼の顔は照れたような微笑みをたたえていた。
「頭を上げてください。そんなお願いをしていただかくても、もちろん大切にします。ご安心ください」
「ああ、ありがとう! それじゃあ、さっそく再来週の夜会でアレクサンドラをエスコートしてくれないか」
「そうしたいのは山々なのですが……」
ライナーは、元々、ヒームにそんなに長く滞在するつもりはなかった。母と妹が別荘でのんびりしている間に王都へ戻って王都の屋敷の売却先を決めなければならないし、領地に戻って領地経営の金策も考えなければならない。やることが山積みなのだ。




