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第98話 風雅の君の決意

 白檀びゃくだん雪柊せっしゅうは戦場と化した九条邸の中へ足を踏み入れた。

 目の前では巨大な獅子と月華つきはなが交戦しており、辺りには御形ごぎょうの高笑いが響く。

 雨足の強まる中、戦況は厳しさを増しているように見えた。

「雪柊。私は百合ゆりを探しますのであなたは月華のところへ行ってくれませんか」

「何をおっしゃいますか。確かに苦戦しているように見えますが、だからとて白椎はくすい様のもとを離れるわけにはいきません」

「御形の目につかなければ、私は大丈夫です。あの者の目的は百合の異能でしょうから、その前にかいの術を発動させなければなりません。ここで別れましょう」

「ですが——」

「雪柊、これは命令です。私に付き従ってくれるというのなら、今は月華のもとへ行きなさい」

 日頃、相手に命じることなどないが白檀は敢えて命令という言葉を使うことで雪柊を従わせることにした。

 そう言えば彼が断れないことはわかっていた。

 命令だと言った言葉には絶大な効果があったようで、雪柊は渋々頭を下げると獣と交戦する月華のもとへ駆けていった。

 名残惜しそうに何度も振り返る雪柊と視線が合う。

(まるで雛を守る親鳥だな)

 雪柊が言うことを聞いてくれた安堵なのか、この状況に対する疲労感なのか……白檀は誰にともなくため息をつく。

 ふと顔を上げると前方に項垂れる弟の姿が急に目に飛び込んできた。

 言葉にならなかった。

 内裏にいるはずの榛紀しんきがなぜこんなところにいるのか。

 なぜ支えを必要としているのか。

 御形の狙いは百合ではなく榛紀だったのか。

 様々な憶測が錯綜する中、白檀は声を搾り出した。

「榛紀っ!」

 思わず声を上げてしまい、御形に気づかれたのではないかと肝を冷やしたが、幸い術者の男は月華と対峙することに集中しておりこちらの動きは気にも留めていないようだった。

 白檀はすぐさま榛紀を目指した。

 辺りには破壊された門の破片が散らばり、九条家の家臣や女中と思しき者たちが数人、横たわり微動だにしなかった。

 衝撃の強さを思い知り、不安に押しつぶされそうになりながら白檀は足を動かした。

 そばに駆け寄ろうにも雨でぬかるんだ地面に足元を掬われる。

 たったひとりの兄弟である榛紀がいなくなることなど考えもしなかった。

 帝となった榛紀は多くの者に支えられて政をしながら安寧の日々を過ごしていなければならない。

 彼にそんな日々を送らせるために自分は言われるがままみやこを離れたのだ。

 榛紀の座を脅かすような存在はそばにいない方がいい、そう思ってのことだったはずである。

 こんなところで弟の身に何かが起こることは絶対に認めることができない。

 泥が着物の裾に跳ねるのも気にせず何とか榛紀のところへ辿り着いた白檀は声をかけても反応しない弟の姿に絶句した。

「なぜ榛紀がこのようなことにっ!」

 不安を通り越して怒りさえ感じる。

 顔を上げると片腕を支える悠蘭ゆうらんがたじろいだ。

「い、いや、これは……」

 するともう片方を支えていた人物に腕を強く掴まれる。

「風雅の君っ。なぜここにいるのですか!」

 よく見るとそれは長年、備中びっちゅう妹尾せのお家でともに生活してきた見慣れた男の姿だった。

「……萩尾はぎお? あなたこそ、なぜここにいるのですか」

「それはこちらが訊いていることですっ。ある日、忽然と姿を消したかと思えばどうして京になぞ、舞い戻られたのか!」

「姿を消したわけではなく、用があったから外に出たまでのこと。私がどこで何をしていようとあなたには関係ないでしょう。そんなことより、榛紀は? 榛紀は無事なのですか!?」

 白檀は萩尾の腕に縋った。

 萩尾のことはよく知らない。

 かつては朝廷の官吏だったらしいが、白檀が宮中で暮らしていた頃は見かけたことがなかったからである。

 妹尾せのお家で三公と呼ばれ、なぜか妹尾菱盛せのおひしもりや御形から信頼されていた。

 重鎮と言うべき彼が九条邸にいるのはあまりにも不自然だ。

 だが今はそんなことを追求している場合ではない。

「榛紀様はただ気を失っておられるだけです」

 萩尾の言葉に白檀はそっと胸を撫で下ろした。

「……なぜこのようなことに?」

「榛紀様は御形に自らのお命を差し出すことでみなを守ろうとなさったのです」

「守る? 何の武力も持たない榛紀があの御形にどうやって立ち向かうというのですか」

「御形が狙っているのは帝と風雅の君のお命なので……」

「御形は私と榛紀の命を欲していると言うのか」

 萩尾は黙って頷いた。

「本人がそう申しておりました。ですから御身の安全のためにも今はここを離れませんと」

 これまで見たこともない萩尾の真剣な眼差しに白檀は瞠目した。

 目の前には妹尾家にいた萩尾とは別人がいる。

 本気で身を案じてくれているのが伝わってきた。

「……ちょっと待ってください。萩尾、今、御形は帝と私の命を狙っていると言いましたか」

 心配のあまり思わず弟の名を叫んでしまったが、榛紀は自らの姿を官吏たちに晒していないから、弾正尹だんじょういんの職に就いていられると言ったことを白檀はふと思い出した。

 榛紀が帝であることは多くの者が知らないはずなのに、まるで周知の事実のような物言いではないか。

「はい、申しました」

「……それはこの子の正体を知っているということですか」

 萩尾は答えなかった。

 悠蘭に至っては顔を背けた。

 彼らは榛紀が帝であることを知っている。

 知っているどころか、受け入れているようだ。

 白檀は頭を抱えた。

 なぜ榛紀がここにいるのか、なぜ彼が帝であることが知られてしまったのか。

 目を離している隙にあまりにも不都合なことが起こり過ぎている、白檀はそう思った。

 だがどんなに不満を抱えようとも起きてしまったことをなかったことにはできない。

 今は一刻も早くこの危機を取り除くしかないのだ。

「萩尾、榛紀を頼みます。気持ちはありがたいが私はあなたたちとは一緒に行けません」

「何をおっしゃって——」

「私にはまだやるべきことがある」

 白檀がそう言った時、近くで負傷した九条家の家臣たちを介抱する手伝いをしていたかえでが駆け寄ってきた。

「萩尾殿、悠蘭殿!」

 全身泥だらけになりながら現れた楓は暗い影を落としていた。

 菊夏きっかが手当てをしているものの、手遅れの者も多いという。

 楓は項垂れる榛紀に目を止めるなり言った。

「弾正尹様はいかがされたのだ!? ん? 白檀殿まで? 一体どうなっているのだ」

「楓、話は後です。とにかくあなたたちは榛紀を連れて奥へ行きなさい。九条家の家臣たちも動ける者は何とか連れて行くのです。手遅れの者は置いていくしかない」

 白檀は早口で伝えた。

 ときは一刻を争う。

「御形はただの術者ではない。2代前の帝が全幅の信頼を置いていた稀代の術者、容易には太刀打ちできない。今は遠くへ逃げるより他、術はない。あなたたちもこんなところで大事な帝を失いたくないでしょう?」

 帝という言葉に反応したのか、全員が固唾を呑んだ。

 正体を隠して弾正尹の任についていると榛紀本人が言っていたが、この様子ではすでに萩尾や悠蘭だけでなく楓にも正体が知られているのは必定だ。

 全てが済んだら榛紀は自らの正体を官吏たちに明かすことになるだろう。

 だがそれは今後の政のためには必要なことだ。

 帝がいつまでも正体を隠して朝廷内に潜伏しているものではない。

「……当然、あなたも一緒にいらっしゃるのですよね?」

 悠蘭は不安な眼差しを白檀に向けた。

 先刻、萩尾に一緒に行けないと言ったことの真偽を確認しようとしているのだろう。

「先刻も言ったが私は一緒には行けません。やらねばならないことがあるのです」

「こんな危険な状態で一体何をしようと言うんですか」

「百合の異能を消さねばなりません。御形はこれまでも彼女の異能に異常な執着を示していた。だが元となる異能そのものがなくなれば、御形はもう百合に執着することはないはずです。それに月華とも約束した。百合の異能を必ず消す、と」

 白檀が彼らにそう伝えた時、御形と交戦している月華の叫び声が聞こえた。

 振り返ると獣の前足によるひと掻きで飛ばされた月華の体を駆けつけた雪柊が受け止めているところだった。

 その場の全員が息を呑んだ。

 あの獣を操る術者を相手にするなど誰が見ても勝機があるとは思えなかった。

 今はまだ何とか持ち堪えているが、御形は余裕の笑みを浮かべ一方的な暴力を楽しんでいるようにさえ見える。

 このままではただの消耗戦になるだけだろう。

「悠蘭、百合はどこにいるかわかりますか」

「え……?」

 榛紀の右肩を支える悠蘭は突拍子もない白檀の問いに呆然としていた。

「だから百合はどこにいるのかと訊いているのです! 月華が九条邸ここに戻ってきたのだから百合も戻っているのでしょう!?」

「あ、義姉上あねうえですか? 義姉上ならたぶん兄上が華蘭庵からんあんから連れ出したはずですが……いや、それにしては兄上がこちらへ戻ってきたのは早過ぎたな」

 すると悠蘭の疑問に答えるように楓が言った。

時華ときはな様に預けたのではないか」

「父上に?」

「私と菊夏殿が寝殿から出る前に時華様の方が先に出られたのにこちらではお見かけしなかった。別のところへ向かったとするなら華蘭庵に向かわれたのかもしれぬ」

 白檀は辺りを見回した。

 池の中島に立つ建物が目に入る。

 以前に1度、九条邸を訪れたことがある。

 その時に華蘭庵の存在は認識していた。

 目的地が定まった白檀は、

「あなたたちは奥へ。急いでください」

 と、彼らの背中を力いっぱい押し出した。

 自らが動けば御形に見つかる可能性は高くなる。

 あからさまに帝と風雅の君の命を狙っていると公言するくらいなのだから、見つかればあの獣たちの餌食になることから逃れることはできないだろう。

 だが白檀には見つからない自信があった。

 月華には悪いが、御形の関心が彼に向いている間はおそらく周りのことなど気にしないだろう。

 御形は今、圧倒的な力を持って攻めているのだ。

 ひとりずつなぶり殺すように相手をしているうちは他の獲物になど目もくれないはずである。

 その間に百合の異能を消す。

 それまで月華には何とか持ち堪えてもらうしかない。

 白檀は脇目も触れずに雨の中を華蘭庵に向けて駆け出した。

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