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第96話 守るために散る覚悟

 九条邸の裏口から大路に出た李桜は(りおう)は邸の周りに集まる野次馬の波を泳いだ。

 雨も降り始めたというのに集まった民は引く気配がなかった。

(これだけの騒ぎだから当然だよね)

 外側から見た邸の門は中から見ていた景色以上に衝撃的だった。

 これまで九条邸がこのように破壊されている様を見たことがない。

 門扉はなく、邸の中が丸見えになっている。

 中で右往左往する九条家の家臣たちに加え、巨大な獣の姿まであからさまになっているのだ。

 李桜は野次馬をかき分けて助けを求めるべく六波羅ろくはら御所へ急ぎ向うことにした。

 六波羅探題の任にある武将はまだ備中国びっちゅうのくにから戻っていないに違いない。

 幕府に助けを求めることを受け入れない公家も多く、本来であれば幕府の者が公家を助けるなどあり得ないのかもしれないが、幸い九条家当主は朝廷きっての親幕派である。

 状況を説明すれば北条鬼灯ほうじょうきとうの部下のうち何人かは助けに来てくれるだろう。

 そんなことを考えながら早く先へと急いでいると誰かと肩がぶつかった。

「失礼」

「…………」

 相手は長い前髪で顔の右半分を隠した男だった。

 前髪の隙間からちらりと見えた瞳はまるで針のように鋭い。

 市井の一般人には見えなかった。

 一瞬、固唾を呑んだ李桜は触らぬ神に祟りなしとばかりに視線を逸らすと1歩踏み出す。

 今は厄介ごとに首を突っ込んでいる場合ではない。

 すると今度は人混みから伸びてきた手に腕を掴まれた。

 何ごとかと周囲を見回すと長い前髪の男の前方からひとりの男が現れた。

 それはここにいるはずのない、李桜の宿敵とも言える男の姿だった。

「あんた、何でここに……」

 眉根を寄せた李桜が思わず心の声を呟いた。

「それはこちらが訊きたいことです。背中から李桜の声が聞こえたかと思えば、本物なので驚きました。あなたこそ、ここで何をしているのですか」

 宿敵——白檀びゃくだんを目の当たりにして盛大に毒を吐きたくなるのをぐっと堪えた李桜は、目前の彼を無視してその場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待ちなさい、李桜」

「何だよ。僕はあんたと話すことなんかない。今、それどころじゃないんだ。急いで六波羅に行かないと——」

 白檀の腕を振り払って避けるように肩を引くと今度はその肩を掴まれた。

「だからあんたの相手をしてる場合じゃないって何度言えば——」

「李桜、六波羅に向かってるのかい?」

 てっきりしつこく白檀が迫っているのだと思っていたが、肩を掴んだのは紅蓮時ぐれんじの住職で紫苑しおんの叔父である雪柊せっしゅうだった。

「雪柊様……」

 なぜか鬼灯きとうと同じくらい、この人には安堵感を覚える。

 何の根拠もなく助けが来た、そう感じた。

 李桜は雪柊の求めに応じて、九条邸で何が起こっているかを見た限りのままに語った。

 弾正尹だんじょういんを追って九条邸に来たこと、謎の侵入者によって門が破壊され中は騒然としていること、巨大な2頭の獣に僅かな戦力で立ち向かおうとしていること。

 なぜか最初にぶつかった長い前髪の男も立ち止まり耳を傾けていたが、風雅の君である白檀を守る雪柊がその場にいることを許しているのだから、見た目ほど危険ではないのかもしれない。

 ひと通り話し終えると雪柊が白檀に向かって言った。

白椎はくすい様、急ぎましょうか」

「そうですね、雪柊。事態は一刻を争います。李桜はこのまま六波羅へ行ってください。鷹司杏弥たかつかさきょうやを御所へ向かわせたということですが、六衛府の戦力など知れていますから当てにはできないでしょう」

「ま、まさか中に入るつもり!?」

「ええ、そうですよ。そのために備中びっちゅうから戻って来たのですから。ここでただ指を咥えて見ているだけなら戻る必要なんてなかったではありませんか」

 白檀の視線は獣を従える男に向けられている。

 何の戦闘力も持たない彼が混乱の九条邸に入っていったところで何の役にも立たないように思えたが雪柊は大真面目に白檀とともに中に入ろうとしている。

 白檀は長い前髪の人相の悪い男に向かって睨み効かせて言った。

湖薄こはく。あなたの出る幕はありません。引っ込んでいなさい」

 それだけ言い終えて白檀は李桜が止めるのも効かず門があった場所を跨いでいった。

 雪柊の残した不気味な笑みだけが脳裏に焼きつく。

 一瞬、呆然としていた李桜がはっと我に帰ると湖薄と呼ばれた男が白檀の後を追おうとしていた。

「ちょっと……」

 李桜は無意識に湖薄の腕を掴んでいた。

 白檀の味方をするつもりも、手助けをするつもりもない。

 自分でもどうしてこの見知らぬ男を引き止めたのかわからなかった。

 だが何か嫌な予感がして、体の奥から悪寒がするのは確かだった。

 この男をこのまま行かせてはいけないような気がする。

「…………」

 湖薄は無言で李桜の腕を解くとそのまま白檀と雪柊の背中を追っていった。

(あの獣を連れた男とあの人たち、何か関係あるって言うの!?)

 数々の疑問符が浮かぶ。

 それでも今は他にやるべきことがある。

 李桜は人混みを掻き分けて走り出した。



 妻と愛娘を父に預けた月華つきはなは最初に松島たちを発見した回廊に向かった。

 残っていた全員を寝殿に向かわせるためだ。

 御形ごぎょうが操る獣たちが土御門皐英つちみかどこうえいのものと同じ類のものだとすれば、術者が命じればすぐに暴れ出すに違いない。

 圧倒的な力で破壊し、相手をねじ伏せるつもりでなければ正面から堂々と侵入するはずはないのだ。

 これ以上、邸が破壊された時の2次被害を防ぐためにも周りには誰もいない方が都合がいい。

 降り出した雨は次第に強さを増し、本降りになってきた。

 ぬかるむ庭を抜け回廊に戻ってくると、かえでに支えられながら足を引き摺る松島と、家臣の手当てをする菊夏きっかの姿が見えた。

「楓殿っ、無事か!?」

「月華殿」

「月華様」

 楓と松島は同時に声を発した。

 月華はふたりの前に駆け寄った。

「楓殿、他の者はどうした?」

鷹司杏弥たかつかさきょうや殿は六衛府を呼んで来るよう御所に向かわせた。李桜は今、六波羅へ向かっている」

「そうか。今や邸の外に出た方が安全かもしれないな。他はどうしたのだ?」

「それが——」

 楓が答えようとするのを松島が遮って言った。

「月華様、お急ぎくださいっ。榛紀しんき様が危険でございますっ」

 いつも冷静な松島には珍しく早口だった。

しんが? どこへ行った?」

「あ、あの獣の元でございますっ。悠蘭ゆうらん様が後を追っていかれました。それから久我様くがも……」

「揃いも揃って死にたいのかっ!」

 吐き捨てた月華だったが、ふと寝殿で萩尾はぎおが言っていたことを思い返した。

 ——焼き討ちとも言える事件から生き残ったその陰陽師は復讐を心に誓ってしまったのですよ。

 何らかの理由で執拗に百合ゆりの異能を欲しているのは事実だろうが、九条邸ここへ来たのは他にも目的があるのかもしれない。

「とにかくみな寝殿へ行け。ここは危険だ。いいな?」

 考えたところで何かが変わるわけではない。

 敵は目の前にいるのだ。

 それだけ言うと月華は破壊された門まで一直線に瓦礫が散乱する回廊を駆け抜けた。



 萩尾や松島の静止も聞かず、榛紀は獣を従える男と向き合うことにした。

 何とかして男の愚行を止めなければならない。

 頭の中にはそれしかなかった。

「御形とやら。かつて風雅の君がみやこを追われることになった園遊会で、茶人の風早橄欖かざはやかんらんを利用し時の帝を弑虐しようとしたのはそなただったのか?」

 雨が降り出す中、榛紀は前進しながら言った。

 夏の暑い空気を冷やすかのように本降りになる。

 雨音が周りの音を消してしまうから、まるでこの場には榛紀と御形しかいないのではないかと錯覚するほどだった。

 図書寮ずしょりょうの書庫からこっそり禁書の『橄欖園遊録かんらんえんゆうろく』を持ち出して目を通した時からずっと疑問に思っていた。

 一体誰が何のために兄の白椎を陥れようとしたのか、と。

「だとしたら何だというのかな」

「……なぜあんなことをしたのか、理由を知りたかった」

「理由? そんなこと、決まっている。全ては憎き凌霄りょうしょうを苦しめるため。友の策略により、我が子の手で命を落とすとなれば傑作だろうと思ったまで」

「茶人や風雅の君を憎むのはなぜだ」

「橄欖は凌霄と親しすぎた。毎夜、茶を点てさせるために清涼殿に呼んでいたというのは有名な話だった。あの頃の公家はみな橄欖に嫉妬していたことだろう。あの男が失脚して同情した者などいなかったのではないか?」

 御形は嘲笑した。

 そんな御形を前にしても榛紀は顔色ひとつ変えることなく冷静だった。

 覚悟はできている。

 暁の蛍火を兄と見た幼いあの日。

 あの時はまだ兄と別れる時が来るなど考えもしなかった。

 変わらない日常は永遠に続いていくとさえ思っていたあの頃。

 父が亡くなりひとりになった時から、榛紀はあの日見た蛍と同じになった。

 たったひとり。

 仲間もなく、家族もなく孤独に生きてきた。

 自分の意思で御所から出ることは許されず、こんな自分はいてもいなくても変わらないのではないかとさえ思ってきた。

 だからこの命はあの蛍のように最期の光を放って散りたい。

 せっかく再会できた兄を殺させるわけにはいかないし、唯一の友である月華の邸をこれ以上破壊させたくない。

 榛紀は御形の目の前まで来ると足を止めた。

 彼の後ろには2頭の獣が控えている。

 今にも襲いかかってくるのではないかと思うほど荒々しい唸り声を出していた。

「風雅の君と帝を殺せばとりあえずの目的は達成できる、というのは誠か?」

「…………?」

「風雅の君の命はやらぬが帝の命ならそなたにやろうではないか。だからそれで積年の恨みの矛を収めてはくれぬか」

「……何を言っているのかわからぬ」

「私がそなたが探している帝だ」

 榛紀は命を差し出さんとばかりに御形の前で両手を広げた。

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