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第95話 官吏の戦い方

 今出川楓いまでがわかえでは先に出た時華ときはなを追いかけるように菊夏きっかとともに寝殿を出た。

 橘萩尾たちばなはぎおや九条家の兄弟が爆音のした方へ向かった後のこと。

 楓と菊夏、時華が残された寝殿の中で間もなくして主の時華が立ち上がった。

 見たこともない鬼の形相をしている。

 楓は息を呑んだ。

 いつもは冷静沈着な右大臣も家では違う顔を見せるらしい。

時華ときはな様、どちらへ行かれるおつもりですか」

 楓が問いかけた時にはすでに彼は寝殿から出ようとしていた。

「そなたらはここに残れ」

「そ、そんなわけには……」

「外の様子を見てくるだけだ」

「…………」

 その場の誰もが大事が起こっていることに気がついている。

 様子を見るも何も、危険が迫っているのは承知のはずなのに、わざわざその渦中に出向こうというのだろうか。

「ここは1番奥まっておるから幾分、安全だ。よいか、ここから出るなよ」

 そう言った時華は四十路を過ぎたとは思えない機敏さで駆け出していったのだった。

 居ても立ってもいられずすぐに時華の後を追った。

 騒然とする邸内を尻目に足早に進むと、後を追ってきた菊夏が並んだ。

 楓は回廊を歩きながら菊夏に言った。

「菊夏殿。そなたは時華様の言いつけを守った方がよいのではないか」

「もう出てきてしまいましたので手遅れです」

 真顔で答える菊夏に楓は頭を抱えた。

 彼女が天真爛漫で1度言ったらきかないことを失念していた。

 こうなっては楓の手には負えない。

 止められるのは夫の悠蘭ゆうらんくらいのものだろう。

「……それに、何かあったのなら誰か怪我をしている方もいるかもしれません。ただ黙って座っているより現場に行った方が役に立てるはずですから」

 確かに菊夏の言葉の通りだ。

 有事の際には文官など何の役にも立たないことは楓自身が1番よくわからっている。

「確かに……そなたは天才薬師であったな」

 微笑み返す彼女の顔が、楓にはどうにも眩しかった。

 ふたりは回廊を途中まで進んだところで言葉を失うことになった。

 座り込んだまま動かない松島、棒立ちになる西園寺李桜さいおんじりおうたち、その向こうに巨大な獣が見える。

 先に出たはずの月華つきはなたちやそれを追ったはずの時華の姿はなかった。

 駆け出した菊夏を追って彼らに近づく。

 荒れ果てた周辺の様子に楓は開いた口が塞がらなかった。

「李桜様っ」

 菊夏の声に振り返った李桜は、口をあんぐりと開けていた。

 彼女の肩を掴んだ李桜は珍しく厳しい口調で詰め寄った。

「菊夏殿、ここで何をしてるの! 危険だから君は奥にいなきゃだめだよ」

 李桜の叱責で萎縮してしまった菊夏に助け舟を出すべく楓がふたりの間に割って入った。

 菊夏が言っていたとおり、今のこの光景を見れば彼女の出番があるに違いないことは明白だったからだ。

「李桜、一体何が起こっている? 月華殿はどうしたのだ」

「楓、あんた寝不足で早退したくせに何でこんなところにいるの!? いや、そんなことよりあんたたちは無事みたいだね」

 李桜が言った。

 こんな非常事態でもいつもと変わらない李桜に内心、安堵した。

「いろいろあったのだ。今はそんなことを説明している場合ではない」

「月華なら百合ゆり殿のところへ行ったよ。すぐに戻ってくると思うけど」

「では時華様もそちらへ合流したのかもしれぬな。して、そなたらはなぜここにいるのだ?」

「僕たちは弾正尹だんじょういん様を追って九条邸に来たんだ。それが気がついたらこんなことに……」

 松島にしかり、鷹司杏弥たかつかさきょうやしかり、周りにはよく見知った人物が集合しているが弾正尹の姿は見えない。

「その弾正尹様はどこだ」

 李桜は首を振るだけで答えなかった。

 楓が菊夏と顔を見合わせているとそれまで静観していた杏弥が口を開いた。

「あの方は曲者のところへ行った。悠蘭も久我紫苑くがしおんもそれを追って行ったところだ」

「紫苑殿も来ているのか」

「命知らずな奴らだ、全く」

 吐き捨てるように言う杏弥が謎の巨大な獣たちを指す。

「あれに立ち向かうなど……正気の沙汰ではないな」

 人の背丈を遥かに超える大きさの獣が2頭。

 そしてそれを従えているかのような怪しい男がひとり。

 周辺の惨状が彼らによってもたらされたのだとしたら、到底太刀打ちできるものではない。

 楓が固唾を呑んで口を噤むとその足元に松島が縋ってきた。

 何度か訪れたことがある九条家ではいつも毅然として気遣いの行き届いた彼が取り乱しているのを見るのは初めてだった。

「今出川様、どうかあの方をお救いください……っ」

 時華や悠蘭のことを案じているのだろうか。

 悠蘭は武術の修行をしているとはいえ、紫苑の足元にも及んでいないのだ。

 獣2頭ですら相手にできないに違いない。

 案じる気持ちはよくわかる。

 何かこの状況をら打開できる手立てはないか。

 そう考えていた楓にひとつの閃きが光明となって脳裏に差し込んできた。

「松島殿、この邸に裏口はあるな?」

「普段は使っておりませぬが、ございます」

 松島から聞いて裏口へ続く廊下を確認すると楓は冷静に集まる彼らの前で自分の考えを述べた。

 この危機的状況で震え上がっているはずなのに妙に頭の中が澄み渡っていることが自分でも不思議だった。

「あの怪しい侵入者が何を求めているかはわからぬが今の我々の戦力で太刀打ちするのは無理がある。だから応援が必要だ」

「応援って?」

 楓は杏弥を指して言った。

「まずは刑部少輔ぎょうぶしょうゆう。そなたが御所へ走り、六衛府ろくえふを動かすのだ」

「な、なぜ俺がっ」

「右大臣様がここにいる以上、御所の中で最も官吏を動かせる立場にあるのは内大臣であるそなたの父上ではないのか」

「だ、だが、だからと言ってなぜ俺が九条家の助けなど——」

 杏弥が強烈な拒否感を見せる中、楓は嘲笑を交えて杏弥に近づき耳元で囁いた。

「名誉挽回するいい機会ではないのか」

「何だと?」

「九条家の嫁を攫わせるようなことをして月華殿の逆鱗に触れたことを忘れたのか? ここで活躍すれば、もしかしたらお咎めなしとなるかもしれぬぞ」

「た、たとえ鷹司家の権力があったとしてもそんなに簡単に六衛府を動かすなど……」

 六衛府は御所の警護の要。

 組織全てを動員することは難しいだろうが、たった数人でもいないよりはいい。

 楓の提案を受けて李桜が目を光らせた。

 そこには事態に動揺する姿はすでになく、朝廷一切れ者と称される敏腕官吏が堂々と腕を組んで立っていた。

「あんたの父上は左右大臣の座を狙ってたんじゃないの? 今ここであの弾正尹様を助けて九条家の再興に手を貸せば、望みのものが手に入るんじゃないかな」

「な……!」

「でももしここで何もしなかったら左右大臣になるどころか、現場にいながら何もしなかったことを罪に問われるかもね。その上、百合殿を拐かした罪も加算されると思うよ。刑部省には優秀な官吏がたくさんいるし、ましてや自部門の少輔に関する醜聞はみんな興味があるだろうね」

「…………」

「あんたのことだから自分の部下にもその我がままぶりを存分に発揮して権力を振り翳してるんでしょ? これまで謂れもなく怒鳴られるような目に合ってきた彼らがあんたの味方になってくれるとは到底思えないよね」

「…………」

「まあ、お家の取り潰しは免れないんじゃないの?」

 どこまでも冷たく追い込む李桜に楓は身震いした。

 情状酌量の余地もなく、相手が受け入れるまで攻める彼は情に流されることがない。

 だからこそ李桜に睨まれたら朝廷にはいられないと噂されるのかもしれない。

 問い詰められ、とうとう杏弥は腹の底から湧き出る唸り声を抑え込むように頷いた。

「ぬぅぅ……わかった。やってみよう」

 ひとりの年老いた男を従えて去っていく杏弥の背中を眺めながら楓は呟いた。

「あの年老いた御仁は誰だ」

 李桜は冷笑しながら言った。

「ああ、あれは鷹司家の家臣らしいよ。御所から九条邸へ来る途中で、杏弥を追いかけてきたんだ。いい監視役になるんじゃない?」

「そうか。後は彼らに託すしかないな」

「ところで楓、もうひとつ応援の当てがあるよね?」

 李桜が突然、そんなことを言い出した。

 それは楓も可能性を考えていたものに違いない。

 長年連れ添う夫婦のように互いの考えていることがわかるのはありがたいことだ。

 楓は大きく頷いた。

鬼灯きとう様は備中びっちゅうに行っていてご不在だけど、六波羅ろくはらには彼の部下が何人かいる。彼らの助けを得られれば少しは何とかなると思うんだよね」

「だが、六波羅の御仁も紫苑殿も当てにできないのに助太刀の交渉できるのか」

「僕はこれまで何度も六波羅に行ってる。顔と身分は知られてるはずだから、六波羅へは僕が行くよ」

 そう言って李桜はすぐに六波羅へ向かった。

 あっという間にその場に勢揃いしていた者たちは半分に減った。

「さて、菊夏殿。我々は我々の仕事をしようか」

 楓はその場に膝をつくと足元にうずくまる松島に声をかけた。

「松島殿。どれだけ戦力が集まるかはわからぬが今打てる手は全て打った。後は天命を待つしかあるまい。そなた、動けるのか」

「走れはしませぬが歩く程度なら何とか」

「そうか、それはよかった。菊夏殿、彼の手当てを頼む。私は周辺の怪我人を確認してくるとしよう」

 早速しゃがみ込んで松島を診始めた菊夏がぽつりと呟いた。

「楓様、どうしてそんなに冷静でいられるのですか」

「冷静?」

「だってそうではありませんか。李桜様だって動揺していたように見えたのに」

「それは……そう見えているだけだろう。これでも十分、動揺している」

 その場を菊夏に任せた楓は周辺を確認するために1歩踏み出した。

 その足は僅かに震えている。

 冷静なわけはない。

 未曾有の危機に、先刻から心の臓は早鐘を打ちっぱなしだし、背中や首筋に流れる汗は止まらない。

 何もしなければただ全員死ぬと思って今できることをしているだけだ。

 武力を持っていなくとも戦い方はある。

 すべきことを全てやってもどうにもならなかったのなら、その時は現実を受け入れるしかないが、最期の時まで知略を尽くのが官吏の戦い方だ、と楓は震える自分に言い聞かせていた。

 気がつくとぽつぽつと雨が降り始めていた。

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