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第94話 温もりと不安と

 悠蘭ゆうらんと別れた月華つきはなは回廊から中庭に飛び出すと華蘭庵からんあんへ向かった。

 くだんの建物は庭にある池の中島に建てられている。

 九条家に戻った月華はかつて暮らしていた東対ひがしのたいに住むことを拒み、茶室として建てられたそこを住まいとしていた。

 もともと百合ゆりを連れて鎌倉へ行くつもりだった彼が仮住まいとして使い始めたのだが、娘が生まれ動くに動けなくなかったまま居着いてしまったのだった。

 門は侵入者によって破壊されたが幸い華蘭庵までは距離があり、まだ被害が及んでいない。

 この時ばかりは無駄に広い邸に感謝した。

 空を見上げると今にも降り出しそうなどんよりとした分厚い雲に覆われている。

 それがこれからの自分たちの命運を暗示しているようで月華は不安に駆られた。

 備中国びっちゅうのくにから連れ戻した妻は身の内に抱える異能のせいで日々弱っている。

 一刻も早くその異能を消し去りたいと思っていたが、それどころではなくなった。

 それよりも危険な存在が彼らに迫っているからである。

 池にかかる橋を渡り、華蘭庵の足元まで来た時、ふとその麓に建てられた慰霊碑が目に入った。

 慰霊碑は昨年なくなった前の陰陽頭おんみょうのかみ土御門皐英つちみかどこうえいの御霊を祀るものである。

 何度か夢枕に立った皐英の顔が脳裏に浮かぶ。

 先刻、乱入してきた男に寄り添っていた2頭の獣には見覚えがあった。

 かつて、皐英も同じものを操っていたことを思い出す。

 あの男はお前と関係があるのか……?

 月華は心の中で慰霊碑に向かって問いかけたが、当然答えが返ってくるわけはなかった。

 何はともあれ、妻子をより安全な場所へ連れ出すために月華は華蘭庵へ駆け込んだ。

 扉の前に立つと赤子の鳴き声が戸の外にまで漏れ聞こえている。

 そして百合の叫び声が聞こえた。

「待って!」

 戸を挟んでいてもその言葉ははっきりとわかった。

 月華は勢いよく戸を開けた。

「百合!」

 中に飛び込むと天井に手をかざした百合が目を見開いていた。

 何かを掴もうとしているようにも見えるが、現実ではないどこかにいるかのように焦点は合っていない。

 月華は膝をついて伸ばされた手を慌てて掴んだ。

 すると焦点の合わない百合の瞳はすぐに正気を取り戻した。

「……月華様?」

 月華は掴んだ百合の手を引いて彼女の体を起こした。

 ただでさえ体調の悪い彼女に何かあったのではないかと焦りだけが前に出る。

「何があった!?」

 半身を起こした百合は面食らっていた。

「……な、何もありません」

「……は?」

「夢を、見ていたようです。月華様、そんなに慌てて何かあったのですか」

 備中から戻ってくる道中でも目を落とした彼女はよく夢を見ていたようだったが、この時ばかりは月華も呆気にとられた。

 邸の一部が破壊されるほどの爆音がしていたのにそれには気がついていなかったようである。

 とりあえず無事であることに安堵した月華は崩れ落ちそうになりながら、百合の肩を抱き寄せた。

「脅かさないでくれ。何かあったのかと思った」

「も、申し訳ありません。急に大きな声を出してしまって。突然、懐かしい方が夢の中に現れたので動揺してしまいました」

「懐かしい方?」

「皐英様です」

「…………」

 月華は二の句を継ぐことができなかった。

 つい先刻、月華も慰霊碑を見ながら皐英のことを思い出していたからである。

 とても偶然とは思えなかった。

「……あいつは何か言ったのか」

「あの方を救ってほしい、とおっしゃっていました。でも私には誰のことなのかわからないのです。それで皐英様を追いかけようとして……」

「目を覚ました、と?」

 百合は頷いた。

 皐英が言うあの方という相手に心当たりがなくもない。

 それは、皐英を唯一の友だといい、その友のためにわざわざいい思い出のないみやこ備中国びっちゅうのくにから出向いてきた人物——白檀びゃくだんを指しているのだろうと月華は思う。

 他に思いつかない。

 それにしても救ってほしいとはどういう意味なのだろう。

 白檀といい皐英といい、大事なことをはっきりと説明しないのは彼らが似たもの同士だから、ということなのだろうか。

 自分とは考え方が違う彼らとは一生交えることはないような気がする。

 考えを巡らせていると急に花織かおるの鳴き声が鮮明に耳に入った。

 気がつくといつの間にか百合が花織に手を伸ばしている。

 そこで月華は我に返った。

 故人の呟きに思いを馳せている場合ではない。

 今差し迫っている危機を先ず何とかしなければならないのだ。

 月華は百合よりも先に花織を抱き上げた。

「百合、動けるか」

「はい、休みましたので大丈夫です」

「ではすぐにここを出よう」

「何か、あったのですか」

「俺にもよくわからない。だがこんな危機はおそらくこの九条家始まって以来のことだろうな」

 疑問符を浮かべる百合をよそに月華は片手に赤子を抱え、妻の手を引いて華蘭庵を出た。



 月華に手を引かれ華蘭庵を出るとそこにはありえない景色が広がっていた。

 門が破壊され、砕けた破片がそこら中に散乱する様は想像すらしたことがないものだった。

 巨大な獣を従えた見知らぬ男が堂々と邸内に入り込んでいることに恐怖を感じた百合は思わず月華の手を強く握った。

 同じものではなさそうだが、似たような獣を過去に見たことがある。

 百合はぽつりと呟いた。

「あの獣……」

「百合も覚えているか」

「はい。以前、皐英様が同じようなものを操っていましたよね」

「ああ。同じものかどうかはわからないが、俺も同じ類のものだと思う。百合、危険だから離れるな」

 握り返された手に僅かな安堵を感じながら、百合は月華の導きで中島を抜けた。

 池にかかる橋を渡るふたりの足音は騒然とする周囲の雑音にかき消される。

 それほどに九条邸の中は危機的な状況にあった。

 幸い月華の腕に抱かれる愛娘は大人しくしてくれていた。

 このどこを見ても危険しかないような邸内でどこに向かっているのかと問いただそうとした時、声が聞こえた。

「月華!」

 駆け寄ってきたのは月華の父、時華ときはなだった。

 いつもはどっしりと構えている九条家当主も未曾有の状況に狼狽えていた。

「父上っ。なぜここに?」

「あれだけの物音だったのだ。黙って座っておられるわけがなかろうが。ところで月華、あの物騒なものは何なのだ」

 時華が指差す先には2頭の獣がいた。

 そしてその獣たちを従えているひとりの男がいる。

「そんなこと、俺にもわかりませぬ。ですが九条邸ここがもはや安全ではなくなったことだけは確かです」

「…………!」

 口をきつく結び唸る時華の気持ちはよくわかる。

 しょっちゅう狙われる百合を置いておくのにここより安全な場所はないと月華がよく豪語していたほど、九条邸の守りは固かったのだ。

 当主としてはやりきれない思いを抱えていることだろうと百合は思った。

「父上、百合と花織をお願いできますか」

 そう言うと月華は腕の中の赤子を時華に預けた。

 月華は百合と繋がれていた手も離し、時華に向けて百合の背を押す。

「父上はお戻りを。寝殿の方が幾分、安全です」

「このような状況で安全な場所などあるはずがなかろう」

「俺があれを食い止めます」

「月華、正気なのか」

「獣を従えるあの男は萩尾殿が言っていた陰陽師かもしれませぬ。もしそうなら、かつて稀代の陰陽師と言われたくらいの輩ですから俺ひとりでは荷が重いかもしれませぬが」

「であればなおさら——」

「父上。あれだけの爆音が2度も響いたのですから音は御所へも聞こえているはずです。六衛府の者たちが駆けつけてくれるかもしれぬし、それに鬼灯きとう様は不在でも六波羅ろくはらには頼もしい者たちが多数おりますから、応援を待ちましょう」

「いや、やはり行かせられぬ。私は蘭子らんこの墓前にお前たち息子を必ず守ると誓った。あのような得体の知れぬものの前にお前を差し出すことなどできぬ」

 百合を掴む時華の腕は震えていた。

 公家の世界を飛び出し、武士の世界へと足を踏み入れた月華を陰ながら見守っていた話は聞いたことがある。

 旧友だったという北条鬼灯ほうじょうきとうに預けることで、月華の安全を確保できると思ったのだろう。

 それは皇家の血を引くからというだけでなく、父としての息子に対する愛情だったに違いない。

 娘を持つ今ならその気持ちがよくわかる、百合はそう思った。

「大丈夫です、父上。俺はそう簡単に死ぬわけにはいきませぬ。こうして妻を娶り娘を授かったのですから」

「だが——」

 食い下がる父に月華は声を潜めて言った。

「お忘れですか、父上。俺は官吏ではなく武士なのです。戦場なら何度も経験しています。それにあれは百合を狙って備中国から来たのかもしれませぬ。そんな輩の前に百合の姿を晒しておくなどできるわけがないでしょう?」

「………っ」

 月華の言葉に父としては何も言えなかったらしく、時華はそれ以上、何も言わなかった。

 口をきつく結んでいる。

 月華は百合の頬に手を当てると名残惜しそうに目を細めた。

 まるでこれが今生の別れであるかのようだ。

 もちろんそんなつもりは月華にもないはずだろうが、頬に当てられた彼の手のひらからなぜか全身に不安が染み込んでいくような感覚がする。

「必ず守る」

 それだけ言い残して月華は踵を返した。

 駆け出していく彼の背中を見つめながら、百合は思った。

 この異能さえなければこんなことにはならなかったのかもしれないのに、と。

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