第93話 曼珠沙華の庭での再会
松島が叫んだところで、危険な不審人物に向かっていく榛紀を引き止めることは叶わなかった。
その場にいた全員の中に困惑した空気が漂う。
「ねえ、今のどういうこと?」
鋭い西園寺李桜の視線が刺さった。
こんなところで主の許しもなしに榛紀の正体を明かすつもりはなかったが彼の身に危機が迫っているこの非常事態に叫ばずにはいられなかった。
謎の爆風から榛紀を守るように身を盾にした松島は、全身を木片に打ち付けられて思うように体を動かすことができずにいた。
咄嗟の動きに足も捻ってしまったようで立ち上がろうにも力が入らない。
若い頃はこんな醜態を人前で晒すことなどなかったというのに、どんなに鍛えた過去があったとしても老いには逆らえないらしい。
「お願いいたします! どなたかあの方をお止めくださいませっ」
松島はあえて李桜の疑問に答えなかった。
朝廷の官吏である彼らなら顔は知らなくとも名を聞けばそれは誰を指しているのかわかるはずである。
今さら答えるまでもない。
「おい、榛紀様ってまさかや——」
青ざめた久我紫苑が松島に問いかける。
「あの方が帝なのか!?」
松島は答えなかった。
答えたところで何の意味もない。
ここにいる全員はもうすでに彼が帝であることを確信している。
榛紀は自ら弾正尹という職に就いているために、その素顔を限られた側近にしか明かさなかったという。
月華の話によれば、榛と名乗り、本名を明かさなかったらしい。
「くそっ。何てこった。帝に何かあったらどうするんだよっ」
吐き捨てるように言った紫苑は、丸腰のまま侵入者と対峙する萩尾の元へ向かった榛紀の背中を追った。
追っていったところで、紫苑も丸腰なのに一体何ができるというのか。
そう思う者もいるかもしれないが、体が思うように動けば松島も迷いなく紫苑と同じことをしたに違いない。
「あ、ちょっと、紫苑さん!」
悠蘭が声をかけるも紫苑が足を止めることはなかった。
悠蘭の顔を見て松島はふと思った。
自分でどうすることもできないのなら、誰かの手を借りるしかない。
帝をあのまま火の中に放り込んだままというわけにはいかないのだ。
松島は悠蘭に向かって懇願した。
「悠蘭様、月華様にお戻りいただくわけには参りませぬかっ。この状況では月華様に頼るしか方法がありませぬ」
主である月華に縋るのは不本意ではある。
本来なら九条家に降りかかる火の粉を払うのは自分の役目であるからだ。
時華に拾われたあの日、松島はそう自分に誓った。
だが今は他に方法がない。
恥を忍んで主に縋るしかないのである。
「兄上は義姉上と花織を助けに華蘭庵へ行かれたから今は無理だ」
「…………っ」
悠蘭の答えに松島ははっと我に返った。
月華が妻子を第一に考えるのは当然のことだ。
この危機的状況の中でそうしない方がおかしい。
「それより松島。あの人——弾正尹様には本当に俺たちと同じ血が流れているのか。お前も全て知っていたのだろう?」
悠蘭の指摘に松島は息を呑んだ。
彼の問いは榛紀が帝なのかというだけでなく、自身にも皇家の血が流れているのか、ということを含んでいるように聞こえる。
その事実はこれまで時華の希望で九条家の兄弟には長年伏せられてきたことだった。
最近になって月華には知られてしまったが、いくら進言しても時華は亡き蘭子の意思だとして悠蘭に真実を伝えようとしなかったのに、どこで知られてしまったのだろうか。
絶句して答えられずにいる松島に痺れを切らした悠蘭は小さくため息をついた。
「まぁいい。今はお前を責めても仕方がないしな。とにかくあの人を何とかしないと」
「悠蘭様……?」
「兄上が来てくださるまであの人を死なせるわけにはいかないだろう? あの人、兄上の友人らしいからな」
悠蘭が背を向けたので松島は慌てて彼を止めた。
「お待ちください、悠蘭様。あの獣に素手で立ち向かうなど、無謀すぎます!」
「だからと言ってあれをあのままにしておくわけにはいかないだろう? 紫苑さんだけに負担を課すわけにはいかない」
そう言って悠蘭は榛紀と紫苑の後を追っていった。
引き止めようと伸ばした松島の手は届かなかった。
一面に広がる曼珠沙華の花畑。
曼珠沙華が満開になるにはまだ早い。
季節外れの花畑はどこまでも広く続いていた。
空はどこまでも青く、風はない。
百合は気がつくとなぜかその花畑にいた。
紅い花畑を掻き分け少し歩くと川が流れている。
川は百合のいるこちら側と向こう岸を完全に分断するようにどこまでも境界線は続いている。
そして流れはあるのに川のせせらぎは聞こえない。
花畑を歩きながら百合は考えていた。
夢の中に出てきた芙蓉という人のことを。
あの夢は一体何なのだろう。
1度ならず何度も夢の続きを見るのには何か意味があるのだろうか。
芙蓉はこの川に入って誰かを助けていた。
あれは何だったのだろう。
誰かの記憶のように随分と鮮明だったように思う。
数々の疑問を抱えながら百合は川の淵までたどり着くと手を入れて流れを確かめてみようとした。
が、自分の意思に反して手は何度も弾かれてしまった。
まるで目の前に透明な壁があるかのようだった。
ここは常世と現世の間。
やはり術を使わなければ向こう岸に渡れないどころか、川に入ることすらできないらしい。
川の向こうは死者の魂が住む世界であることは薄々わかっていたが、受け継いだ異能が向こうの世界から魂を引き戻すこともできることを百合は知らなかった。
百合が夢に見てきた様々な映像はこの異能が記録する過去の異能者たちの記憶なのだろう。
桐江や芙蓉、彼女たちは人を助けるために何度も自分たちの命を削ってきた。
百合に異能を受け継いだ僧侶はそれを憂いで業解きの術と呼ばれるものの使い方しか教えてくれなかったのだろうか。
樹光に初めて遭った日、百合は彼に対してならず者に襲われて亡くなった者や瀕死の家臣たちを助けたいと願った。
だが懇願した百合に樹光は死にゆく者を助けることはできない、と言ったのだ。
今思えば、樹光が他の術を教えなかった理由がよくわかる。
あの幼い頃にそれらを教えられていたらきっと見境なく術を使い命を削っていったことだろう。
常世から魂を戻す術には回数に制限があることも知らずに。
あれは樹光の温情だったに違いない。
百合がふと顔を上げると、向こう岸に人影が見えた。
こちらをじっと見ている。
よく目を凝らしてみるとそれは懐かしい人物だとわかった。
「皐英様……?」
川の向こうに立っているのは土御門皐英だった。
百合の声はよく通った。
川のせせらぎが聞こえないこの空間では発する音が響く。
以前、月華が言っていたことがある。
皐英が夢の中に出てきて諫言された、と。
彼は何か言いたいことがあって現れたのだろうか。
「あなたはもうここに来てはいけない」
皐英はそう言った。
青白い顔をした皐英は亡くなった時のままだ。
この曼珠沙華の庭で皐英の魂を縛る鎖を外したのは他でもない、百合である。
向こう岸に渡って何のしがらみもなく気楽に暮らしているものと思っていたが、そうは見えなかった。
「……どういうこと、でしょうか」
「あなたの体はもう異能を使うことに耐えられぬ」
「それは……」
それは自分でも薄々感じていることだった。
謎の体調不良に悩まされているのは病というよりもこの異能のせいではないのか、そう疑い始めたのは夢の中に出てきた芙蓉の心の言葉だ。
——『業解き』に回数制限はないが、使えば使うほど寿命が削られる。
彼女の言うことが真実で、百合が受け継いだ異能が同じものだったとしたら、百合はこれまで数え切れないほどの業解きを行ってきた。
その数ほど自分の寿命が縮まっているとしたら、謎の体調不良にも納得がいく。
かつてはこの異能に悩まされて何度も自ら命を断とうとしたがそれは叶わなかった。
今はあの頃が嘘のように、生きていたいと願っている自分がいる。
最愛の夫と愛娘を置いて自分だけこの苦しみから解放されたいとは思わない。
「その異能、なければよかったと思うか?」
なければよかったと思うか。
確かになければ雷に怯えるような経験をせずに済んだし、もっと心穏やかな生活をしていたかもしれない。
だが雪柊や月華には出逢えなかった。
この異能がなければ、奥州が征伐された時に討たれていたかもしれないし、雪柊に拾われて近江に行くこともなかった。
公家の世界を飛び出して武士の世界に飛び込んだ月華は長年、京はおろか古巣の山寺にも寄り付かなかったという。
月華は異能を持った百合がいたからこそ、遠ざかっていた近江に来たのだ。
全てはこの異能が繋いでくれた縁だった。
が、今はもう必要ない。
この異能があるからこそ、百合を取り巻く周囲の人々が危険に巻き込まれていることを知っているからだ。
なければもう誰も傷つかなくて済む。
真っ直ぐに射抜く皐英の視線に怯むことなく百合は答えた。
「なければよかったとは思いません。この異能が私をたくさんの方と繋いでくれたから。ですが今はもう、不要なものだと思います。こんなものが存在するから争いが起こるのですから」
「ではあなたの中からその異能を消すことができるとしたらそうしたいか?」
「そんな方法があるのですか」
「あるには、ある」
「どうやって……!?」
「それは、あなたが目を覚ました時にわかるだろう」
皐英はそれだけ言い残すと踵を返した。
「お待ちくださいっ、皐英様」
追いかけようとしても、今の百合には川向こうへ渡ることはできない。
ここはただの夢の中。
本当の曼珠沙華の庭ではないのだ。
「皐英様!」
すると百合の叫びに足を止めた皐英が振り返った。
その表情はどこか寂しそうに見えた。
「百合殿。ひとつ頼みたいことがあるのだが」
「頼みたいこと?」
「できることならあの方を救っていただきたい。私の唯一の友であったあの方を」
深々と頭を下げる皐英の姿に百合は言葉を失った。
生前の彼は人に頭を下げるようなことはなかった。
いつも自信満々に全てを掌握しているかのようでもあった。
その彼でも他人に懇願しなければ思い通りにならないことらしい。
「あの方とはどなたのことですか」
皐英は答えなかった。
それどころかそのまま再び背を向けてしまったのだ。
「待って! 救うとはどういう意味なのですか!?」
立ち去った皐英が振り向くことも戻ってくることもなかった。
百合の叫びは静寂の空間に虚しく響くだけだった。




