第92話 亡き友の面影
昔取った杵柄とはよく言ったものだと御形は思った。
京で暮らしていたのはもう随分と前のことだし、離れている間に町の様子も変わったというのに、目的地には迷うことなく辿り着いた。
かつて帝の命で夜な夜な公家の邸に出入りしていたために、どの大路にどの家が面しているかは頭の中に入っている。
中に入ることはなかったが、あの頃から変わらず御所近くの広大な敷地に居を構える九条邸は以前よりも強固な門構えになっているように見えた。
御形が京に舞い戻った目的はふたつある。
ひとつは輪廻の華の異能を使って桐江を取り戻すことだ。
常世へ渡ってしまった桐江を現世に呼び戻す。
そうしなければこれまでしてきたこと全てが浮かばれない、御形はそう思っていた。
もうひとつは憎き凌霄の子たちを始末し、朝廷そのものを破壊することだ。
安住の地であった里を焼き払った凌霄はもうこの世にいない。
直接、苦しむ顔を見ることができないのは残念だが、凌霄が大事にしてきた子どもたちと改革を進めていたという朝廷の全てを破壊しなければ気が済まない。
そのためにこの命を使い切る覚悟である。
せっかく妹尾敦盛が輪廻の華を連れてきたというのに九条月華にみすみす奪われたと知った時ははらわたが煮え繰り返る思いだった。
しかし奪われたというのなら奪い返せばいい。
そのために京へ舞い戻ったのだから。
人の背丈の2倍はあろうかという高さの塀や門扉は普通であれば破壊どころか乗り越えることすらままならないものだが、御形が操る式神たちは巨大な虎と獅子に化けるとその大きな手足でいとも簡単に塀と門を破壊した。
破壊した門の木片が辺りに舞い砂煙が充満する中、御形は堂々と表から中に入ったのだった。
中では家臣や女中たちが右往左往していた。
だがさすがは九条家。
突然の襲撃に動揺しながらも駆け回る彼らは統制の取れた動きをしており、よく教育されている。
感心しながら辺りを見回していると数人の若者が倒れているのが目に入った。
人数は4、5人といったところか。
風体からしてどうやら官吏のようである。
どれも見知らぬ顔だったが、現役右大臣の邸なのだから官吏のひとりやふたり出入りしているところで何ら不思議はない。
早いところ輪廻の華を探そう。
御形がそう思っていたところ、砂が煙る向こうから視線を感じた。
2匹の式神たちも警戒しているのか、虎は尾を振り回し、獅子は前足で何度も地面を蹴っている。
目を凝らしていると思いがけない人物が現れた。
それはここにいるはずのない男だった。
「御形さん、こんなところで会うなんて奇遇ですね」
男は妹尾家から忽然と姿を消した橘萩尾だった。
妹尾菱盛とともに邸中を探したが見つからなかった男が今、目の前にいる。
萩尾の部屋で風早橄欖の茶道具を見つけた時から、もう妹尾家には戻ってこないであろうことは想像していた。
だがよもやこんなところで出くわそうとは想像もしていなかったのである。
「萩尾……なぜこんなところに——」
「愚問だな。それはあなたにも言えることではないか」
「…………」
萩尾は別人のようになっていた。
これまでの彼は三公でありながら、いつも御形や菱盛に遠慮しているようなきらいがあった。
特に御形が式神を使って家臣を始末する様子には苦言を呈してきたものだ。
視線はいつも俯きがちで他人と視線を合わせることを避けているようにも思っていた。
それが今はどうだろう。
その瞳は真っ直ぐにこちら見ているし、怯えるどころか口調まで堂々としている。
「お前は……誰だ」
「誰だ、とは失礼な。私は橘萩尾だ。曲がりなりにも長年、同じ邸で暮らしてきた者のことを忘れたのか?」
御形は萩尾をじっと見つめた。
そもそもなぜあの男はここにいるのだろう。
ここは右大臣の邸である。
官吏でもなく、親族であるはずもない萩尾が平然と邸の中にいるのはあまりにも不自然ではないか。
そこで御形はふと倒れていた官吏の若者たちのことを思い出した。
官吏ならば出入りしていることに不思議はない。
萩尾はかつては朝廷の官吏だったと本人も言っていた。
では今は……。
「……お前、やはり朝廷の間者だったのか」
御形は半信半疑だったが、それしか当てはまる答えがなかった。
だが、もし間者だったとするなら一体何を探っていたのかがわからない。
萩尾は御形が妹尾家に世話になる前から居候していた。
そのうちに宮中を追われた風雅の君がやって来て、その彼も今は成人している。
それほど長い刻を息を殺して生息していたことが信じられない。
「間者? そんなわけはない。私は御形さんがあの邸に来る前からいたのだからな」
「確かにそうだが——」
そう言いながら御形は思った。
仮に萩尾が間者だったとしてそれが何だというのだ。
もうすでに御形自身が備中に帰るつもりもなく、目的を全て果たして華々しく散ろうと思っているのだから、萩尾が何者であろうと関係ない。
邪魔であれば排除すればいい。
「いや。お前が何者であってもどうでもよいことだ。もし橄欖と風雅の君を使って凌霄を殺そうとしたことに何らかの思いがあるのなら手遅れだったな。凌霄も橄欖もすでに死んだ。あとは風雅の君と帝を殺せばとりあえずの目的は達成できるのだから」
御形は不敵に笑った。
萩尾は口を一文字に結んだ。
もともと交渉したところで話を聞くような輩ではないことは分かっていたが、だからと言って何もせずにこのまま九条邸を破壊させたくはなかった。
九条時華に助けを求めたのは友であった凌霄の子どもたちを守るためだった。
凌霄の役に立とうと官吏を辞して備中に潜伏していた萩尾は結局家族を持つことはなかった。
だから凌霄が残した子どもたちを我が子のように大切に思っている。
手元に置いていた風雅の君だけでなく、まだ見ぬ帝もまた萩尾にとっては家族のように大切な存在なのだ。
御形は稀代の陰陽師で式神を操る術者である。
最も近くにいた萩尾も長年、危険人物とわかっていながらどうすることもできなかった。
大人しくしていた御形の周りで状況が動き始めたのは、輪廻の華が近江の山寺にいるらしいという情報を得た時からだった。
輪廻の華は奥州の戦線からある日突然姿を消し、菱盛と御形がその後を血眼になって探させていた。
だが紅蓮寺の住職が結界の中に閉じ込めていたせいでその存在はしばらく明るみに出ることはなかった。
それが輪廻の華が寺の敷地から時折出てくるようになったことで本格的に調査を始めたのが、皐英だった。
皐英が飛ばす蝶が輪廻の華の存在を確認したところから、再び運命の輪が回り始めてしまったのだ。
御形は執拗に輪廻の華を求めるようになり、菱盛は近衛柿人を使い、朝廷を掌握しようとした。
全ては萩尾が望まないことだった。
彼らの暴走をもう止めることはできない、そう思った萩尾は時華を頼るしかなかった。
時華が幕府と親密にしていることは朝廷に残る官吏仲間であった山科槐珠や鳶尾誠からの文で知っていた。
御形に対抗できる術者を探すことは難しいが数多の武力なら対抗できるかもしれない。
最後の砦は幕府の武力に期待するしかないと思った。
だがこんなにも早く御形が、しかも九条邸に攻め入ることは萩尾も想定していなかった。
あの時、輪廻の華さえ見つからなければ。
彼女の持つ異能さえ存在しなければ。
御形を目の前にしてそんな悔しい想いを抱えていると、ひとりの若者が萩尾の隣に並び立った。
凛として真っ直ぐに前を見ている。
先刻、走り去った月華と話していた若者とは違う青年だった。
「あの男が言っているのは本当なのだろうか」
「…………は?」
「橄欖と風雅の君を使って先帝であった凌霄陛下を弑逆しようとした、というのは『橄欖園遊録』にあった例の茶会のことだと思うのだが、それを企てたのはあの男だということだな?」
事件が起こった時にはすでに朝廷を去っていた萩尾は、青年の言う『橄欖園遊録』なるものがあることは聞いているが読んだことはない。
だが橄欖が風雅の君を使って凌霄を殺そうとした事件を記録したものが件の書であることは伝え聞いている。
はっきりと返答せずにいると、青年はさらに言った。
「本気なのだろうか」
「…………は?」
「『風雅の君と帝を殺せばとりあえずの目的は達成できる』と言っているが?」
御形は焼き討ちをした凌霄に相当な恨みを持っている。
凌霄の血を引く子どもたちを始末するまで暴走は取らないだろう。
「本気なのは間違いないが、そんなことを確認してどうするのだ?」
萩尾は彼が言わんとしていることが理解できず青年の顔を見た。
その横顔はどこか見たことのあるような気がした。
振り向いた青年は言った。
「そうか。では私が交渉してみるとしよう。これ以上、九条邸を壊されては敵わぬ」
1歩踏み出した青年を萩尾は慌てて引き留めた。
「ま、待て。そなたが行ったところで何にもならぬ。あの男の式神はあの2体だけではない。何の戦力もなしに行けばただの犬死にだ」
すると青年は萩尾の手を軽く振り解いた。
「犬死になるかどうかはやってみなければわからぬ」
「やってみるってどうやって——」
「あの男は私の命を欲している。これと引き換えにみなを守れるなら悪くない。兄上がご無事なら、私がいなくとも朝廷は揺るがぬ」
「あ、兄上……? どういう意味だ」
「風雅の君のことだ。だが兄上の命はやれぬ」
「一体何を言っている!?」
「風雅の君は私の唯一の兄だ」
微笑する顔が懐かしい友と重なり、萩尾は一瞬我を忘れてしまった。
遠い過去、まだ互いに若かった頃に見た凌霄のそれにそっくりだった。
走馬灯となって凌霄との想い出が駆け巡り、正妻との間に生まれたふたり目の子の名を、京から備中に送られてきた文で見た時のことを思い出す。
その名は——。
「榛紀様っ!」
九条家家臣の松島の叫び声で我に返った萩尾は、声がする方を振り返った。
見ると負傷しているのか、松島はうずくまったまま前を見ている。
声は歩き出した青年の背中にかけられていた。




