第100話 他がために
雨が降り始めた中、鷹司杏弥は必死になって走った。
異常を嗅ぎつけた人だかりは数を増し、ますます増えてきていたが、その人の波を杏弥は乱暴に掻き分け、何とか朱雀門まで辿り着いた。
呼吸を整える間もなく父、鷹司棕櫚の元を訪ねることにした。
門を潜ると目の前には朝堂院がある。
見慣れた光景のはずなのにことの重大さのあまり、一瞬、初めて来た場所のように感じた。
世界がぐるぐると回り、ここがどこなのかわからなくなる。
京で1番人気の甘味処に出入りしていた茶人が風雅の君だっただけでも卒倒するほどの驚きだったのに、帝が弾正尹に化けていたなど前代未聞のことである。
取り入るどころか、これまで最も近くで監察されていたかと思うと吐き気がするほどだった。
昔から帝が朝議に顔を出さないことは周知の事実だった。
誰もそれを咎めようとしなかったのは左右大臣がそれを容認してきたからだ。
先の左大臣は朝廷を我がものにしようと画策していたから帝が政に興味がないのはかえって都合がよかったのかもしれない。
だが右大臣は帝が弾正尹に化けていることを知っていたのではないだろうか。
長きに渡って行方不明とされてきた先帝の妹姫が九条家に嫁ぎ、月華と悠蘭を現右大臣たる九条家当主との間に授かったとしたら、九条兄弟と帝は従兄弟ということになる。
叔父である右大臣が知らないはずはない。
これまでずっと鷹司家が摂家で上位の立ち位置になれるよう画策してきたが、全ては九条家の手のひらで踊らされてきたということか。
そもそもいくら立ち回ろうと皇家と血の繋がりを持つ九条家には最初から勝てなかったのだ。
杏弥は足を止めて拳を強く握りしめた。
爪が食い込むほどに。
だがすぐにその手を緩めた。
今は怒りをぶつけている場合ではない。
今出川楓が言ったとおり、帝にもしものことがあれば本当に家を取り潰されかねない。
それだけは何としても避けなければならなかった。
棕櫚のいる太政官は中務省の隣にある。
建物の前まで辿り着くと、杏弥は戸に手をかけたまま動きを止めた。
「杏弥様、いかがなさいました?」
杏弥の後をついてきた家臣の桂田が訝しげな視線を向けた。
「……父上は俺の話をまともに聞いてくださるだろうか」
「それは話してみなければわかりますまい」
「だが今回ばかりは必ず説得せねばならぬ」
「若君——」
「若君と呼ぶなっ。俺はもう子どもではない」
「いいえ、若君。あえて、そうお呼びしましょう」
「……お前、俺の話を聞いていたか」
杏弥は呆れた。
桂田は杏弥が生まれる前から鷹司家の家臣としてずっとそばにいるのが当たり前の存在だった。
互いが阿吽の呼吸で理解し合っているものと思っていたが、この時ばかりは彼が何を考えているのか杏弥にはわからなかった。
「ええ、聞いておりました。若君は棕櫚様を説得できるのか不安になって怖気付いているのでございましょう?」
「お、俺は怖気付いてなど……!」
「若君。あなた様はあなた様なりに鷹司家のことを想っていらっしゃる。それはこの桂田がよく存じております」
「桂田……」
「今は鷹司家最大の危機。誰よりも家のことを案じていらっしゃる棕櫚様のことですから、誠心誠意ご説明すればよろしいのです。それでもご理解いただけなかった時は——」
「その時はどうする」
「その時はこの桂田が命を賭けて棕櫚様を説得いたしまする」
……これではまるで武士ではないか。
杏弥はあんぐりと口を開けたまま、何も言えなかった。
桂田が大真面目に胸を張っているのを見ると、ふざけているのかと思わなくもないが、本人は至って本気なのだろう。
一家臣がいくらその命を賭けたところで、主人の思惑と一致しなければ何の意味もないことだ。
家臣に従う主人などいないのである。
だが杏弥には桂田が言いたいことが何となくわかった気がした。
彼はこう言いたかったのだ。
当主の棕櫚を説得できるのは嫡子の杏弥だけなのだと。
だから説得するしかないのだと。
この役目は他の者にはできない。
自分がやるしかない。
そう覚悟を決めた時、杏弥の肩からは自然と力が抜けていた。
御形に立ち向かう九条月華と久我紫苑、そこに新たに別の男が加わり苛烈を増す戦況を萩尾は呆然と眺めていた。
雨音に消されることなく月華の刀が対する獣の牙と打ち合う音が辺りに響き、倒れた九条家家臣たちの上に容赦なく雨が降る。
御形のあの様子では全てを破壊し尽くすまで続けることだろう。
そして凌霄への復讐を果たすために彼の息子たちを殺そうというのだ。
輪廻の華の異能を消すと言って離れていった風雅の君。
萩尾の傍には意識のない帝。
確実に御形の望む形に近づいている。
こんなはずではなかった——萩尾はそう思った。
こうならないために、朝廷を離れ長きに渡って備中に潜入してきたはずだった。
凌霄が大切にしてきたものを守るために九条時華に助けを求めたはずなのに……。
すると榛紀のもう一方の肩を支える九条家の次男が言った。
「……奥へ急ぎましょう。ここは危険です」
萩尾は瞠目して反論した。
「風雅の君をあのまま置いていくと言うのか」
「仕方がありません。あの人自身が望んだことです。言っていたではないですか、輪廻の華の異能を消すって。我々にはどうしようもありませんよ」
「だからと言って——」
易々とそれを認めることはできない。
榛紀同様、白椎も萩尾にとっては守らなければならない対象なのだ。
凌霄の忘れ形見をひとりとして失うようなことは認められない。
「では、帝にこれ以上危険が及んでもいいのですか!?」
「そうは言っていない」
悠蘭が正しいのはわかっている。
この状況ではまず榛紀を避難させるのが優先だと言っているのだろう。
だが榛紀を奥へ移しているうちに白椎に万が一のことがあってはと思うと大人しく悠蘭の提案に従うことはできなかった。
萩尾が苦虫を噛み潰したように顔を歪めていると、そばにいた今出川楓が言った。
「……本当に百合殿の異能を消す方法などあるのだろうか」
「どう言う意味ですか、楓殿」
悠蘭の問いに楓は首を捻った。
「昨晩、紫苑殿たちと禁書を読み漁っていた時にあの異能について書かれたものを目にしたが、5つある術のうち最後の『解』という術については詳細が書かれていなかった」
「書かれていなかった?」
「ああ。正確に言えば頁が白紙だった。あれが異能を消す方法なのだろうと思うが……もしかしたら図書寮の書庫にあったのは写しで、原本は白檀殿が持っているのかもしれぬ」
「どういうことですか」
「異能について書かれた禁書は『常闇日記』という書名だったが、著者は白檀殿の母君であった芙蓉様だった。彼が亡き母君の書を形見とて手元に残すために写しを用意した可能性もある。もしそうなら原本には異能を消す方法が書かれているのやもしれぬな」
萩尾はますます不安になった。
楓の推察どおりだったとしたら、異能を消す方法は風雅の君しか知らないということになる。
「確かに、楓殿の言うとおりかもしれません。兄上が言っていました。白檀殿は異能を消す方法を決して教えてくれなかった、と。何か、明かせない理由があるのかもしれませんね」
明かせない理由とは何だ!?
萩尾は背中に冷たいものが流れる感覚に焦りを感じ始めていた。
備中に来てから、萩尾は長年白椎のことを陰ながら見守ってきた。
備中に来てすぐ、彼は白檀と名乗るようになり本当の名も身分も隠すようになった。
妹尾家の者たちはみな彼のことを風雅の君と呼んでそれ相応に扱ったが、本人はまるで生まれ変わったかのようにただの茶人として振る舞っていた。
だが時々、必要な時には身分をかさに自分の思いどおりにことを運んでいた。
しかしそれは自分のためではない。
彼はいつも誰かのために密かに戦っていた。
山吹と紅葉の兄妹を引き取った時もそうだった。
非があるのは自分であり、自らのわがままで行っていることを強調して、自分が犠牲になることも厭わなかったように思う。
そんな彼がここ一番というこの局面で何をしようとしているのだろうか。
それも御形が異常な執着を見せる異能を消滅させたことが知られれば、発狂した御形が襲いかかってくることもあり得るのだ。
彼が何をしようとしているのか、誰も知らない。
だからこそ余計に放っておくことができない。
「今出川楓殿、頼みがある」
萩尾はそれまで支えていた榛紀の体から離れ、それをそのまま楓に向かって差し出した。
慌てて榛紀の片腕を受け取る楓の驚愕した瞳が萩尾を刺す。
「萩尾殿、何をなさる!? 危ないではないか」
「悪いがこの方を頼む。そなたは悠蘭殿と奥へ行かれよ」
「あなたはどうされるのだ」
「私は風雅の君の元へ向かう。あの方もまた私にとっては帝と同じくらいの大事なのだ」
風雅の君を放っておくなどできない。
何をするかわからないことをやきもきしているくらいなら、むしろ危険だとしてもそばにいた方がまだましである。
「だがそれは白檀殿の意思に反するのでは?」
「別に邪魔をするつもりはない。ただ、何をするとしてもあのような御形の視界に入る場所でなくともよいはずだ。輪廻の華とまとめて奥へ連れて行く。すぐに追いかける。だからそなたたちは先に行け」
言い終わるか終わらないかのうちに萩尾はその場を離れた。




