巨乳弁護士と私(2)
去年退職した大先輩事務員の中川さんから、管野先生が十年程前、気まぐれで司法修習生を二人受け入れたと聞いたことがある。その一人が黒城だったのだと、私は今初めて知った。
そして不可能案件なので先生のアドバイスを受けたいという黒城の発言には、激しく同意である。先生はポカも相当やらかすが(そして、その苦情窓口は私なのだが)、時々あり得ないミラクルを起こす。国選でついた刑事事件で無罪を勝ち取ったり、ヤクザ相手に損害賠償金をふんだくったり。
黒城はそういった先生の今の仕事っぷりを、全て知っているわけではあるまい。つまり先生は、十年前からちっとも変わっていないのだなと、私は何故か安心した。
「今、有罪判決を覆すって言ったけど、刑事事件の再審請求ってことね?」
先生は雑な動作でカップを取り、飲み残しのローズヒップティーを一口飲んで、雑にソーサーに戻した。一つ一つの動作が、常に適当である。興味があること以外には、本当に神経が行き届かない。お化粧に二時間かけている労力を、普段の所作や接遇に活かせないものだろうか。
「はい」
「やめときなさい。日本は精密司法のお国なのよ? どんな事案だか知らないけど、まず勝ち目はないわね。再審請求なんて、百害あって一利なしよ」
先生は詳細を聞きもしないで、一刀両断した。面倒くさいのだ。お金の匂いもしない。
珍しく、黒城は食い下がった。
「でも、冤罪なんです。執行猶予がついているから、彼女は服役しているわけではないですが、やってもいない罪の汚名を着るなんて、そんなことが許されるはずがない」
彼女(、、)という言葉を聞いて、私はピンときた。そういえば、さっきの会話で黒城は刑事事件の再審請求の依頼を受けた相手に、恋をしたのだと言っていたではないか。そうだ、この闇を抱えた孤独な男を、優しい気持ちに変えた女性が苦しんでいるのだ。
「そうですよ、先生! 冤罪の泣き寝入りなんて、絶対許されません。その人は黒城先生を頼りにしているんだから、是非とも力を貸してあげてください!」
突然私が割り込んだために、先生はすごく嫌そうな顔をした。
「なによ、この子は。急にテンション上げちゃって」
「だって素敵じゃないですか。窮地に立たされた無辜の女性を救うなんて、正義のヒーローじゃないですか。王子様じゃないですか」
私がお盆を胸に抱えたまま熱く訴えかけると、先生は顔をしかめて鼻を鳴らした。黒城が、先ほどとは違ったタイプの苦笑いをする。
「そこまで持ち上げられると、逆に萎縮しそうですが……。とにかく、再審請求はもうすることに決めました。だけど一度刀を抜いた以上は、負けるわけにはいきません」
「詳細と、材料は?」
先生は、しぶしぶ聞いた。本意ではないアピールとして、わかりやすく唇を尖らせている。
「去年判決のあった、覚醒剤取締法違反の自白事件です。懲役一年、執行猶予三年の有罪判決が出ました。控訴はせずに、一審で確定しています。だけど有罪の決め手になった自白は、任意にされたものではないと疑うに足りる証拠があるんです」
「刑事訴訟法三一九条二項、被告人は、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない――。自白だけに頼った有罪判決なんてないわよ。そこをひっくり返したって、逆転無罪を勝ち取れるとは限らない。余計な労力と費用が掛かるだけじゃないかしら? 私にアドバイスを求めたって、諦めろと言うだけかもしれないわよ?」
「そうかもしれない。でも諦めるわけにはいかないんです。僕だって、生半可な気持ちで依頼を受けたわけじゃない。ましてや、判決を言い渡したのは、僕の同期で幼なじみです」
先生は黙った。
ソファーの上で軽く背を逸らすと、一つ大きく息をする。それから前屈みになって、下から黒城の目を覗き込んだ。あんこ玉の目が、黒城のマットな質感のダークブラウンの瞳を捉える。
黒城の瞳には、感情が見えない。乾いているのか、なんの光も反射しない無機質な目。数分前までは、私はその目が苦手だった。何を考えているか分からないのだ。でも今は、恋する男の眼差しに見えるから不思議だ。先生の威圧感にも、前屈みになったことで強調された大きな胸にも動じない。
もっとも、相手の属性に動じないという点では、先生についても同様だった。バラバラ殺人の過去を持つ黒城に、管野先生はまったく畏怖することはなかった。司法修習生時代に面倒を見たということだけが、その理由ではないだろう。
「いいわ、相談に乗ってあげる」
たっぷり三十秒は溜めてから、先生は意外にも承諾した。
「ありがとうございます」
黒城はほっとしたように息をついて、礼を言った。先生は前屈みの身体をソファーに戻し、その勢いのままふんぞり返った。
「ただし、私の意見には絶対的に従ってもらう。反論、不平、質問は不可」
そして、すがすがしいほどにマウントをとった。
「承知しました。修習時代を思い出します」
黒城は頭を下げて、服従を示した。先生はまた片眉を上げ、溜息交じりに言う。
「それから、今日はもう帰ること。あなたの話は、もうお腹いっぱいよ。明日以降、私のスケジュールが空いているときにアポをとって来てちょうだい。雅ちゃん、空いてる時間をあとで教えてあげて」
「今週は、あさっての午後の尋問と、明明後日の午前中の法律相談以外は、概ね空いてます。いつでも大丈夫ですね」
暇な事務所で良かった。私が明るい声で晴れ晴れと言うと、先生が小さく舌打ちした。仕事が少ないことをイジられることを、先生は最も嫌う。
先生に急かされてパーテーションを後にした黒城は、事務所を出る際、もう一度深々と礼をした。私は手を振って彼を送り出す。二時間前には、考えられない行動だった。




