元触法少年と私(2)
「大丈夫ですか?」
「ひっ!」
背後から声をかけられ、今度は茶筒を落とす。茶葉が派手に散らばったことより、変な声を出してしまったことに動揺して、私は口元を押さえた。
「す、すいません」
慌てて振り返り、シンクに背中を預ける。給湯スペースが猫の額ほどの広さしかないので、思いのほか近くに黒城がいた。身体が密着しそうだ。年上の男前弁護士との濃厚接触。少女漫画だったら、萌シチュエーションかもしれないが……。
「茶葉を集めますので、ちょっとどいてもらえませんか? セクハラみたいになっちゃうから」
黒城は軽く首をかしげながら言った。私の足下を指さしている。
「ご、ごめんなさい。私がやります。黒城先生はお客さまなので、ソファーにかけていてください」
「じゃあ、一緒にやりましょう」
黒城は優しく笑い、身体一つ分私から距離をとって、しゃがみ込んで茶葉を集め始めた。私も布巾を手に取ると、隣にしゃがんで手伝う。箒で掃くか掃除機で吸い取った方が効率的なのだが、黒城を押しのけて掃除用ロッカーに向かうのが、心理的にはばかられた。
黙々と二人で茶葉を集めていると、黒城がふっと小さく笑った。
「そんなに緊張しなくても、取って食いはしませんよ」
黒城は集めた茶葉を手に立ち上がると、私を見下ろした。私は視線だけでそれを追いかけ、黒城の表情の消えた顔とぶつかる。下から見上げると、温和な草食動物ではなく、獲物を狙うネコ科の肉食動物のように見えた。光を反射しないダークブラウンの乾いた瞳には、何の感情も読み取れない。
私は慌てて立ち上がる。
「そ、そりゃそうですよね。私、食べて美味しそうなタイプじゃないし」
私は戯けて笑ってみせる。黒城は私の捨て身のボケに対してではなく、困ったような顔をして笑った。それが癖なのか、少し首をかしげてじっと私を見つめると、茶葉を三角コーナーに捨てて手を洗う。
「今は良い時代ですよね、守永さん」
「はい。え? なんでしたっけ?」
会話が噛み合わない。そもそも私と黒城は、頭脳レベルが違いすぎて同じ次元の思考回路を持っていないのだ。その上、この緊張状態である。会話のキャッチボールをしろというのが、どだい無理な話であった。
自分は黒城をさぞイライラさせているだろうなと自覚すると、私は落ち着かない気分になった。心の中では、「早く来て、管野先生!」と、リトル雅が叫んでいる。
黒城は洗った両手をハンカチで拭き、その手をじっと見つめながら言った。
「インターネットで検索すれば、個人の過去なんて簡単に手に入る。ましてや僕たちみたいに自分の名前で仕事をしている人間なら、なおさらです。僕の事務所に来る人も、大抵は僕の過去を知っています」
なんと返事をすれば正解なのか分からないので、私は黙った。慌てると余計なことを言ってしまうのが、私の悪しき属性だ。黒城は自らの両手から外した視線を、私の顔に送ってくる。
「逆に何も知らずに来た人に、僕は自分の過去を話すようにしています。僕の過去を話した上で、それでも依頼するか聞いている。弁護士とクライアントの間には、信頼関係が必要ですからね。それで断られるならそれでいい。別に自虐でも何でも無くて、後々トラブルにならないように、僕はそれをルールにしています」
黒城は返事のしようのない話を続ける。私は試されているのかもしれなかった。会話のキャッチボールでいったら、黒城はとんでもない変化球を次々に投げてきていた。私はそれを受け止めきれず、足下の転がったボールを呆然と見つめている。管野先生だったらこんな時、なんと言葉を返すのだろうか? きっととんでもなく奇抜なことを言って、黒城のことを煙に巻くに違いない。
黒城は何も答えない私から視線を外すと、ふと中空を見た。壁と天井の間あたり。何もないはずの、ただの無機質な白のコントラスト。
それから黒城は、口元に力を込めて自嘲した。
「先日僕は、そのルールを破りました。刑事事件の再審請求の依頼人でした。彼女は、僕の過去を知らなかった。少し知的障害があって、だけどとても純粋な人でした。おそらく僕の秘密を明かしても、嫌悪したり色眼鏡で見たりはしないはずです。だけど、どうしても言えなかった。彼女は僕を信じ切っていて、その真っ白な信頼に、少しでも汚れをつけたくなかったんです」
少なくとも五秒間、私は黒城の台詞の意味を理解できなかった。黒城をまじまじと見つめてしまった私は、さぞ間の抜けた顔をしていたことだろう。
しかし六秒目にその言葉の意味を理解した瞬間、そのほんの一瞬で、私の目の前から偏見のフィルターがあっさりと外れた。
瞬き一つで、目の前の野獣が優しい王子様に変わる。本当に人間とは、ちょっと視点をずらしただけで、まったく別の景色を見られる生き物のようだ。
「それは、恋ですか?」
精神年齢が一気に十五歳くらい後退してしまった私は、英語の直訳のような質問をしてしまった。Is it Love? 私の声は、ワンオクターブくらい上がっていたかもしれない。
「おかしいでしょう? こんなおじさんが」
目の前の地球人は、はにかんだように笑った。理解不能の得体の知れなかった生物に、急に親近感と微笑ましさを感じる。恋、素敵。恋、素晴らしい。私は腹の底から、黒城の恋を応援したくなった。
「いいじゃないですか。どんな方ですか? 可愛らしい感じ? 何歳ですか?いいなあ。お食事とか誘ってみましたか?」
「いやあ、依頼人なのでね」
「いいじゃないですか。出会いは出会いですよ。次いつ会うんですか? 上手くいくといいですね。頑張ってください」
急に馴れ馴れしくなった私に、黒城は照れてみせる。私はもう黒城に、少しも恐怖を感じなかった。今まで何を緊張していたのだろう? 目の前に佇む人間は、ただの恋に不器用な愛すべき三十六歳の男なのだ。
黒城と私が頭を寄せ合ってはしゃいでいたら、応接スペースからゴホンゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。注意の引き方が昭和の女、管野先生が出勤していたのだ。まったく気づいていなかった。
「あ、先生。おはようございます」
さっきまであんなに待ち焦がれていた人物なのに、今はまったく必要なくなったので適当に挨拶する。案の定先生はむっとした。
「なによ、その気の抜けた挨拶は。二人でコソコソ密談しちゃって。黒城くん、早く和解案見せなさい。雅ちゃん、お茶。私はローズヒップね」
管野先生は、威丈高に命令した。




