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元触法少年と私(1)

「あすこには私の友だちの墓があるんです」

「お友だちのお墓へ毎月お参りをなさるんですか」

「そうです」

 先生はその日これ以外を語らなかった。

                      ――――夏目漱石「こゝろ」

*

 東京の法律事務所で働いていると言うと、地元の友達に羨ましがられる。きっとみんなのイメージでは、こんな感じ。

二十階建のビルの十六階と十七階すべてをオフィスフロアにした、大きな総合法律事務所。十人くらいの敏腕弁護士が、ガラスの壁で仕切られた個室で深夜まで働いている。事務員(パラリーガルと呼ばれているらしい)と秘書は合わせて二十人くらい。みんな広々とした机を与えられていて、一階のカフェで買ったコーヒーとオーガニックサンドイッチを片手に、パソコンやタブレットと格闘している。夜はバーで仕事の話とお洒落の話。高級腕時計とブランドスーツに身を包んだイケメン弁護士に見初められ、キャリアと恋を天秤にかけて悩む――。

 みんな、ドラマの見過ぎなのだ。しかもそれは、きっと海外ドラマの焼き直しだ。海外のフィクションが、日本の日常にぴったりとはまるはずがないのだ。そんな浮かれた日常は、妄想の中にしか存在しない。

 事務所中の机――三つしか無い――をふきんで拭きながら、現実とイメージのあまりのギャップに、私こと守永(もりなが)雅(みやび)は溜息をついた。

残念ながら私は大手総合法律事務所で働いていないし、金持ちでイケメンの弁護士ともほとんど遭遇したことがない。最寄りの地下鉄の駅から徒歩で二十分もかかる、築四十年の三階建てのビルの二階のオフィスで、四十代の女弁護士と、たった二人で慎ましやかに働いていた。弁護士の商売が下手なので、事務所はまるで儲かっていない。ゆえに、お給料も安い。東京は弁護士が飽和状態なので、イケメンはともかく、弁護士だからといってお金を持っているとは限らなかった。

 私は、背もたれの異様に高い革張りの椅子もついでに拭いた。威圧感のある先生にふさわしい、仰々しいアイテムだ。私の目下のボスである管野(かんの)恭(きょう)香(か)先生は、この王侯貴族が座りそうなゴージャスな椅子の、十倍くらいインパクトのある存在だった。

 物思いにふけっていた私が拭き清掃を終えたとき、出入口のドアが開いた。ドアベルが掛かっているので、カランカランと音がする。私は慌てて振り返る。カウンターの向こう側には、漆黒のスーツに身を包んだ、背の高い男性が立っていた。


 先ほど弁護士にイケメンはいないようなことを言ったが、もちろんそんなことはない。一定程度顔面偏差値の高い男性はいるし、お育ちが良い人間が多い分、身なりはこざっぱりとしている事が多かった。今目の前で軽く会釈をしている中堅弁護士も、十分イケメンの部類に入っていた。三十代半ばなので、イケメンというより男前か。

 面長で鼻の高い顔は、色白の彼の外見を男性的に見せていた。奥二重の目は目尻が少したれていて、左の眉毛がハの字の形に下がっている。口角が微笑しているように微かに上がっているので、全体的に優しい顔の作りをしていた。草食動物に似た、優しい顔立ち。それでもどこか暗い陰を感じてしまうのは、私の目に偏見のフィルターが掛かっているせいかもしれない。乾いた黒髪に混じった白いものと、今時の三十代には珍しい無精髭が、どこか疲れた印象を与えた。

「黒城(くろき)先生、おはようございます。失礼いたしました」

 私は慌てて腕時計を見る。九時五十分。どうでもいい事をぼんやり考えていたら、もうそんな時間になっていたらしい。

「こちらへどうぞ。管野の方がまだですので、かけてお待ちください」

 出入口の真正面にはカウンターががあって、その左手にはパーテーションで区切っただけの応接スペース兼書籍スペースがある。私はそこに黒城を案内した。管野先生との約束は十時ちょうどだったはずだ。常識的には招き入れる側も在席している時間帯だが、黒城を招いた件(くだん)の弁護士は、来る気配すらなかった。管野先生の遅刻は日常茶飯事で、着ていく服が決まらなかったという理由で法廷を二十分遅刻したこともあるくらいだ。今日も十時には現れないかもしれない。

(ということは、今この事務所には、私と黒城先生二人きり……)

 私は応接スペースのさらに奥の、給湯室に向かった。今日は四月初旬とは思えない陽気で、外は上着を着ていては汗ばむほどだ。だからペットボトルの麦茶をグラスに注げば良いだけなのだが、私は急須でお茶を入れることにする。机を拭いていたふきんをゆっくりと濯いでから、湯沸かしポットの再沸騰ボタンを押し、お湯が沸くまでしばし待った。

我ながら時間稼ぎをしているなと思いつつも、私はぐずぐずと非効率な作業を続ける。馬鹿みたいに緊張している。普段なら決して思わないが、管野先生に早く来て欲しいとさえ思っていた。

 私の緊張には理由がある。今二メートル先のソファーに座っている男前には、他人に緊張を強いる過去があった。

ーー人を殺したことがあるのだという。

 人殺しが弁護士になれるのかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれないが、なれる。前科があっても、司法試験にさえ合格できれば、弁護士にはなれるのだ。それに彼が人を殺したのは、十三歳の時だった。刑事未成年。十四歳未満の者は刑法上責任能力がないものとして扱われる。前科にもならないし、少年法が改正される前の犯行なので、黒城は少年院にすら行っていない。

彼が殺したのは、実の父親だった。やむにやまれぬ事情があったのだという。現在のモラルではどうかと思うが、父親が有名な資産家であったため、黒城の母親のインタヴュー映像が当時頻繁にテレビで放映されていたらしい。私はその時幼稚園児だったので、もちろん記憶には残っていない。しかし今でもネットで検索すれば、映像の一部を見ることができた。

 母親いわく、黒城には軽度の知的障害を持つ姉がいて、できのいい黒城と比べて、父親がたびたび言葉の暴力で虐待していたそうだ。お嬢様育ちの母親は、暴君のような夫から、娘をかばうことができなかった。黒城はそんな姉を守るために、父親に手をかけたのだと彼女は涙ながらに語った。

 その部分だけ抜き出せば、美談のように聞こえる。有名な監督で映画化でもしたら、涙を誘う不憫な少年の物語ができたかもしれない。しかし現実には、決して美談にできない続きがあった。

黒城は父親の遺体をバラバラにして、自宅の広大な庭の七カ所に埋めていた。頭部と、両手足、胴体の上半分と下半分。姉を庇って衝動的に父を殺したというシナリオには、絶対に相容れない常軌を逸した行動だった。その事実を聞いた時、背筋に悪寒が走ったことを私は今でも覚えている。優しく接しやすい仕事関係者の、あまりにも凄惨な過去だった。人間誰しも、長く生きていれば秘密の一つや二つ、黒歴史の一つや二つはあるものだ。多少のことには目をつぶれるくらいには、私も大人である。その前提に立ってみても、彼のそれは強烈すぎた。猟奇殺人、サイコパスという言葉が浮かんだ。黒城の優しい笑顔が、悪魔の素顔を隠す仮面に見えた。そして私は黒城に恐れを抱いた。顔を合わせるたび、足が震えそうになるのを押さえられなかった。偏見で人を差別するような人間にはなるまいと心に誓っていたのに、いわば生理現象のようなそれを、私は抑えることができなかった。できることなら、係わりたくない。

思考の奥深くまで沈んでいた私は、お湯が沸いた合図の軽快なメロディーに、驚いて急須を落としてしまった。



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