棄権させるのは私
競技場まで、あと十五分。
道端にしゃがみ込んでいるカイを見つけて、リゼは足を止めた。
大きな黒い装具箱が片側だけ石畳へ沈んでいる。底の車輪が一つ、軸の根元からきれいに割れていた。
「何してんの」
カイが顔を上げる。
「見れば分かるでしょ」
「箱に負けてる」
「まだ負けてない」
割れた車輪を外し、カイは箱の端を持ち上げた。反対側が石畳を低く擦り、嫌な音を立てる。
「それで行く気?」
「行くよ」
「招集まで?」
「四十分」
ここから普通に歩けば十五分。
箱を引きずればもっとかかる。間に合ったとしても、試合前に腕と肩を使う。
それでもカイは行くだろう。負けても箱のせいにはしない。
リゼは時計を見た。
「私の練習、二十分後なんだけど」
「じゃあ行けば」
「かなり減る」
「だから――」
最後まで聞かず、反対側の取っ手を掴んだ。
カイの眉が動く。
「君の練習は」
「聞こえてたでしょ」
「聞こえてたから言ってる」
「一人でこれ引きずって試合前に腕潰す方が迷惑」
「誰に」
「私に」
持ち上げる。
重さが両腕へ一気に落ちてきた。思ったより重い。
リゼは何も言わず握り直す。
カイも反対側を持ち直した。
「行くよ」
箱が石畳から浮いた。
二人なら運べる。
楽ではない。
最初の角を曲がるころには、取っ手の細い縁が掌へ食い込んでいた。
「左、段差」
「見えてる」
箱が傾く。リゼが歩幅を詰めると、カイも無言で高さを合わせた。
「壊したら弁償してね」
「もう壊れてるでしょ」
「中身」
「じゃあ落とさないで」
「そっちもね」
屋根の向こうに競技場の尖塔が見える。
まだ遠い。
二つ目の角で鐘が鳴った。
「今ので何分」
「僕の招集まで二十分」
リゼは時計を見る。
自分の練習時間は、今ので始まった。
カイが言う。
「ここからなら一人でも運べる」
「そのあと腕ぶらぶらさせて試合出るの?」
「そこまでじゃない」
ちょうどそのとき、カイの側が少し下がった。
リゼは箱を持ち上げ直す。
「説得力ない」
「重いだけ」
「知ってる」
それ以上は話さず歩いた。
大通りへ出ると、競技場前の掲示塔が見えた。
一番上にはセラ・ノーグ。
今日、本当なら少しでも自分の動きを詰めたかった。セラに道を削られたとき、最初の一歩をどこへ逃がすか。そのために取った練習面は、もう削れ始めている。
順位だけなら、カイが今日一つ消えるのは自分に悪くない。
リゼは掲示塔から目を戻し、掌の痛い位置だけ握り直した。
「後で負けても僕のせいにしないで」
カイが言う。
「しない」
「早いね」
「私が負けたら私のせい」
「そこは同意する」
箱が揺れた。
二人で同時に持ち直す。
競技場まで、あと一つの橋。
「本当に最後まで持つの?」
「ここまで来て離す方が腹立つ」
「練習、だいぶ削ったけど」
リゼは少し黙った。
「去年だけで十分だから」
「何が」
「運の話」
去年の王冠には事故が絡んだ。
それだけでカイが勝ったわけではない。分かっていて、一年間ずっとそこを突いてきた。
「今季まで車輪の話が残るの、嫌」
「今日一試合出られないだけで王冠まで決まらないよ」
「一個でもいらない」
橋の向こうに競技場の門が見える。
「私が二つ目を取ったとき、あんたが車輪で一戦落とした上の二対一なんて要らない」
「もう取る前提なんだ」
「当然」
「僕が取るけど」
「取らせない」
取っ手越しに腕が震え始めている。
リゼはそれごと笑った。
「車輪に棄権させられるくらいなら、私が棄権させる」
「君にそんな権限ないけど」
「じゃあ三対ゼロで帰らせる」
「それなら分かる」
「でしょ」
「やらせないけど」
「それも分かってる」
風が橋を抜ける。
箱はまだ重い。
足は止まらなかった。
競技場の門をくぐったところで、カイが時計を見る。
「十二分」
「足りる?」
「十一分で足りる」
「じゃあ一分余る」
二人で装具箱を下ろした。
腕から重さが消えた瞬間、リゼの指がじんと痺れる。
カイはもう留め具を開け、中の固定具を確認していた。一つ、二つ。視線が完全に試合の方へ戻っている。
それでいい。
「今日、取りこぼさないでよ」
「言われなくても」
カイは固定具を手に取る。
「君も走った方がいいんじゃない」
リゼは返事の代わりに背を向けた。
遅れた練習場まで、今度は本当に走る。
背後で次の公式戦を知らせる鐘が鳴った。




