悪い日は二人分
開幕節が終わった翌日、リゼは泥水をかぶった。
「……は?」
通り過ぎた荷車の車輪が、石畳の窪みを踏んだらしい。跳ねた水が右袖から腰までを見事に茶色く染め、冷たさだけが一拍遅れて服の内側へ染みてくる。
荷車はもう角の向こうだ。
怒鳴る相手すらいない。
今日は公式戦がない。昼から練習場を一時間だけ借りて、昨日セラに潰された進路の抜け方を試すつもりだった。その前に昼を買いに出ただけで、もう着替えが必要になった。
濡れた袖をつまんで歩きながら、リゼは呟く。
「カイにも何か起きてればいいのに」
言ってから手首を見る。
金色の線は、何も教えてくれない。
向こうにも何か起きているのかもしれない。
それを考えた時点で、もう面倒だった。
昼食を買った店では、紙袋の底が抜けた。
「あ」
店員と声が重なる。
焼きたての肉包みは石畳の上で一回転し、よりによって具の側から着地した。
「す、すみません! 袋が――」
「いい。落としたの私だから」
「でも底が」
「……じゃあ半分だけそっちのせい」
新しいものを包み直してもらい、今度は両腕で抱えて店を出る。
怒るほどではない。
泥水も、昼食も、一つずつなら。
だから次の角で練習場の別棟が見え、巻き上げ式の扉が途中で止まっているのを見たとき、リゼはまだ受付へ向かった。
係員が二人がかりで紐を引いている。扉はびくともしない。
「オルディア選手?」
受付の女性が申し訳なさそうな顔をした。
「その顔やめて。私、予約してるんだけど」
「しています」
「開かない?」
「開きません」
即答だった。
内部の安全確認が必要で、少なくとも今日の個人枠は使えないらしい。
返金を受け取り、リゼはもう一度手首を見る。
競技者印の縁に金色が静かに残っている。
見ても向こうの事情は分からない。
分からないくせに、カイの顔だけは浮かぶ。
宿舎へ戻ると、その本人がロビーの長椅子にいた。
机いっぱいに広げた紙は何枚か端が波打ち、薄い茶色の染みが広がっている。
リゼは足を止めた。
「何それ」
カイは紙から顔を上げ、次にリゼの袖を見る。
「そっちは?」
「荷車」
「こっちは茶」
向かいの椅子へ座る。
「こぼしたの?」
「蓋が外れた」
「雑に閉めたんじゃないの」
「店員が閉めたのを受け取っただけ」
「じゃあ運」
「たぶんね」
カイが染みた紙を一枚持ち上げる。
「試合記録?」
「三年分」
紙の端から茶が一滴、机へ落ちた。
リゼは笑いかけて、泥の乾き始めた袖を見た。
「……それはきつい」
「乾けば読める」
「強がってる?」
「事実」
会話が切れる。
カイは紙同士が貼りつかないよう、一枚ずつ離していった。湿った紙の音だけが小さく続く。
「部屋の鍵も折れた」
しばらくして、カイが言った。
「中で?」
「外から差した瞬間」
今度こそ吹き出しかけた。
「笑えば」
「今の私が笑うと負けた感じする」
「何に」
「今日に」
カイの口元が少し緩んだ。
「そっちは泥だけ?」
「まさか」
紙袋の底と、開かなかった練習場の扉を話す。カイは途中で口を挟まず、全部聞いてから茶色くなった記録へ目を落とした。
「……やっぱりそっちもか」
「そっちもね」
それだけだった。
昨日までなら、自分の予定が崩れている間にカイが何をしていたかなんて知らなかった。知る理由もなかった。
今は、悪い日になるたび向こうの一日まで勝手に視界へ入ってくる。
カイが濡れた紙の端を押さえる。
「練習、できなかったんだ」
「明日に回す」
「ノーグ対策?」
「対策って言い方嫌い」
「じゃあ、負けたところの修正」
リゼは椅子から立った。
「そっちの方が嫌」
「でもやるんでしょ」
「当然」
カイはそれ以上言わず、また紙を裏返した。
「じゃあね。全部くっつけばいいのに」
「君の扉も明日まで開かなければいい」
「性格悪」
「お互いに」
二階へ上がる途中で、窓から風が吹き込んだ。
壁に仮留めされていた案内紙が一枚はがれ、まっすぐリゼの顔へ張りつく。
「……」
紙を剥がす。
誰も見ていない。
ぐしゃりと丸めかけた手が止まった。
下のロビーからは、紙をめくる乾いた音がかすかに聞こえる。
リゼは案内紙を折って、脇の回収箱へ押し込んだ。




