同じ嵐
雨が降り始めたのは、昼を少し過ぎたころだった。
最初は窓に細い筋がつく程度で、リゼは気にしなかった。次の開催地までは乗合馬車で半日。夕方には着くつもりで、膝の上に試合記録を広げている。
町を二つ越えたころ、紙をめくる音より雨粒の方がうるさくなった。
窓の外が白い。道の端が見えにくくなり、御者が速度を落とす。
リゼは手首を見た。
競技者印の縁にある金色は、いつも通り薄く光っている。
「……雨くらい普通に降るし」
誰に言うでもなく記録へ視線を戻す。
十分後、馬車が止まった。
前の橋そのものは無事だが、手前を倒木が塞いでいるらしい。今の雨では動かせない。
近くの中継所まで戻ることになった。
次の便は、早くて明朝。
予定だけが、雨の向こうへきれいに消えた。
中継所は同じように足止めされた旅行者で埋まっていた。
濡れた外套の匂い。床へ落ちる水。退屈した子どもの声。窓を叩き続ける雨。
「東便は明朝まで運休です。西からの連絡便も――」
係員が何度目か分からない説明を繰り返している。
リゼは空席を探し、奥の四人掛けの机を見つけた。
二席空いている。
向かいの席には、カイがいた。
「……は?」
本から顔を上げる。
「その反応、失礼じゃない?」
「何でいるの」
「こっちの台詞だけど」
二人とも、ほとんど同時に手首を見た。
「何があった?」
「渡し舟が戻った。乗る直前に雷が落ちて、桟橋の巻き上げが壊れた」
「怪我は?」
「誰もしてない。君は?」
「倒木。橋の手前」
「同じ道?」
「違う。私、北から」
「僕は西」
また金色を見る。
何も答えない。
片方の移動が止まり、もう片方も別の理由で止まる。たぶん、いつものやつだ。
リゼは空いている椅子を引いた。
「座るんだ」
「空いてるから」
カイが少し離れた長椅子を指す。荷物を抱えた老人の横に、一人分だけ隙間がある。
「狭い」
「そう」
それで話は終わった。
一時間後。
雨はまだ窓を叩いている。
リゼは持ってきた記録を読み終え、カイは同じ本を読み続けていた。
「何それ」
「本」
「見れば分かる。何の本」
表紙を見せられる。旅商人が消えた金貨を追う推理小説らしい。
「面白い?」
「まだ犯人分からないから」
「分かったら面白くなくなるの?」
「読み返すときは別」
「面倒な読み方」
「君に言われたくない」
「私、本に突っ込まないし」
「試合記録には三回」
リゼは膝の紙を見る。
「声出てた?」
「一回目は『そこ行く?』」
「再現しなくていい!」
向かいにいた親子が笑った。
リゼは口を閉じる。
カイは何事もなかったように本へ戻った。
夕方前、売店が温かい飲み物を出し始めた。
リゼは蜂蜜茶。カイは黒い珈琲。
同じ机へ戻る。
「苦くない?」
「苦いよ」
「何で飲むの」
「好きだから。君のは?」
「蜂蜜茶」
「甘そう」
「甘いよ」
「何で飲むの」
「好きだから」
一秒遅れて、自分で気づく。
「今のなし」
「同じだけど」
「なし」
「はい」
カイは笑わなかった。
リゼは茶を飲む。熱さのあとに甘さが残る。
雨音は少しも変わらない。
そこから、長いこと何も話さなかった。
カイは本を読む。
リゼは窓の雨を見る。
奥では誰かが寝息を立て、子どもが床へ積み木を並べている。係員が何度も濡れた床を拭く。時計の針が進む。
話すことがない。
なのに、別の席へ移る理由も見つからなかった。
普段なら、カイと同じ場所にいれば試合か順位の話になる。去年のこと、セラのこと、相手の癖。何でも勝ち負けへ繋がる。
今は、ページをめくる音と雨だけだった。
それでも時間は妙に長くなかった。
「ねえ」
リゼが言った。
「何」
「前から聞こうと思ってた。何で勝ったあと、すぐ帰るの」
「どこから?」
「競技場。客席に手振ったりしないじゃん」
「ああ」
カイは少し考える。
「落ち着かないから」
「何が」
「勝ったあと、知らない人が大勢こっち見て叫んでる時間」
「最高じゃん」
「君はね」
「勝ったって感じするでしょ」
「鐘で分かる」
「そういう話じゃない」
リゼは蜂蜜茶の底に残った薄い甘さを見る。
「……取ったものは、取ったってちゃんと喜んだ方が得」
「得?」
「せっかく勝ったのに、無表情で帰ったら一回分損してる」
「勝ちは減らないけど」
「気分が増える」
カイが少しだけ目を細めた。
「君らしいね」
「馬鹿にしてる?」
「してない」
「じゃあ何」
「そのままの意味」
カイは本へ視線を戻した。
褒められたわけでも、否定されたわけでもない。
リゼは返す言葉を探して、結局見つけなかった。
「……そっちは地味」
「知ってる」
「もうちょっと悔しがって」
「事実だから」
いつもの調子へ戻った。
リゼは残りの茶を飲んだ。
夜になっても雨は残った。
東行きと北行きは、明朝同じ時間に出る。そこから先は別れるらしい。
待合室の奥に男女別の簡易休憩室が開き、旅行者が少しずつ荷物を持って立ち上がる。
「じゃあ朝」
カイが本を閉じた。
「何時」
「六時半にここ」
「何で集合するの」
「便、同じでしょ」
「席まで一緒とは限らないけど」
「そうだね。じゃあ、別に集合じゃなくていい」
リゼは鞄を肩へ掛けた。
「……六時半」
「集合するんだ」
「寝坊したら置いてくから」
「君が?」
「するわけない」
「僕もしない」
窓の外で雨が道路を白くしている。
「おやすみ」
カイが言った。
「明日寝坊したら笑う」
「しないよ」
「じゃあ、おやすみ」
リゼは先に休憩室へ向かった。
手首にはまだ金色がある。
六時半を決めたときは、一度も見なかった。




