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弁慶が去った後、どうしたら彼が安全に暮らせるかを私たちは考えていた。
「弁慶、大変なものを授かっちゃったね。時間を巻き戻す力……か」
愛菜は、小さくなったコロに寄りかかって、スナックを食べながらプロメテウスと話している。
「あれ、エロスはどこへ行った? さっきまでここにいたのに」
《弁慶にこっそり着いていったぞ》
「もしかして、護衛のつもり?」
《そのようだ。弁慶が落ち込んでいたので、心配になったのだろう》
エロスが着いているのなら安心だ。
ああ見えてエロスは、力ある愛の神様なのだから――でも、戦えた?
「でも先輩。実際何が危険だって思ってるの弁慶は。私だったら、力を使いまくって、大儲けするのになぁ」
「愛菜ったら。どうやって儲けるつもり?」
「怪我で不自由になった人を元に戻してやったり、老朽化や焼失した文化財を元に戻したり……かな」
「それは弁慶ならできるでしょうけど。彼は一人しかいないのよ。人が押し寄せてきたら対応しきれないわ。それに、悪用するために彼を捕らえようとする人が出てくるでしょうね」
「……それは問題だね」
今はまだいい。私たちの存在を知る者は、ごく限られている。
だが、いずれロンゴンが観光地として一般に開放されれば、龍の加護の噂は必ず広まるだろう。
野崎さんが情報を伏せようとしても、人の口に戸は立てられない。尾ひれがつき、話は真実以上に大きくなっていく。
――時間を巻き戻せる人間がいる。
そんな噂が世界中に広まれば、弁慶を利用しようとする者が現れないはずがなかった。
「プロメテウスも、時間を巻き戻せたわね。ここでもできる?」
愛菜に言われて、プロメテウスは手のひらに青い炎を灯した。
だが、炎はすぐにかき消え、彼は静かに首を振る。
《アルケディアの物質ならば可能であった。しかし、この世界の物質には作用せぬ。何か根本となる理が欠けておるようだ》
「ふーん……同じ神様でも、世界が違えば力の影響も違う。そういうことなのね」
《……そういうことなのであろう。世界の理が異なれば、われの炎も届かぬ。力及ばず、申し訳ない》
***
野崎は、海岸沿いを巡回する海上保安庁の監視船を見つめていた。
この島は、本土から千キロ離れた父島よりさらに南に位置している。
ディメンションリンク事業部をこの島へ移設したことは、今となっては英断だった。
小さな島ゆえの不便さはある。だが、人や物の出入りを厳しく管理できるため、機密を守るには最適な場所でもある。
当初、日本政府はこの島を会社から取り上げ、国の管理下へ置こうとした。
しかし野崎は粘り強く交渉を続け、会社の所有権を守り抜いた。
その結果、政府は島の警備を担い、その対価として会社から利益の一部を受け取る――そんな均衡の上に、現在の関係は成り立っている。
だが、ロンゴンという新たな異世界の力まで明らかになればどうなる。
見過ごすことはできない――政府がそう判断すれば、天秤の上に辛うじて保たれている今の関係も、崩れてしまうのではないか。
野崎の心配は尽きなかった。
――明日は、本社へ行かなければならないだろうな。
異次元ドアエンタープライズ社の社長に就任して以来、野崎の仕事は以前にも増して多くなっていた。
本社の経営に目を配りながら、異世界事業の陣頭指揮も執らなければならない。体が二つ欲しいと、冗談ではなく思うほどだった。
「会長に、もう一度社長へ復帰してもらえないだろうか……」
野崎は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
会長の松風公平は、野崎の母の兄にあたる。そして前社長の松風公夫は、公平の息子――野崎にとっては従兄だった。
公夫は野崎より五歳年上で、二人は幼い頃から何かにつけて比べられて育った。
子どもの頃は、公夫もそれほど気にしていなかったように思う。
だが、野崎が高校を優秀な成績で卒業した頃から、その態度は変わり始めた。
親戚たちが野崎を褒めるたび、公夫の表情は険しくなった。やがて彼は、従弟である野崎を、自分の立場を脅かす存在として警戒するようになったのだ。
異次元ドアエンタープライズ社は、会長・松風公平が立ち上げた会社だった。
当時は誰も見向きもしなかった異次元ドアの権利を買い取り、細々と事業を続ける零細企業にすぎなかった。
だが、世間の異次元ドアに対する評価は、少しずつ変わっていく。
会社も順調に成長し、野崎がディメンションリンク事業部のCEOに抜擢された。
そして、その直後だった。
榊原モナミが、異次元ドアの歴史を塗り替える発案をする。
不安定だった異次元ドアの移動を、安全かつ実用的な技術へと変えてしまったのだ。
その結果、ディメンションリンク事業部は、わずか数年で急成長を遂げた。
今では本社は、工場の管理や営業を担う組織となっていた。
会社の成長を支える中核事業は、すでにディメンションリンク事業部へ移っている。
異次元ドアそのものを製造する企業は世界中に存在する。だが、その運用技術や改良、安全性の向上という分野では、日本のディメンションリンク事業部が世界をリードしていると言っても過言ではなかった。
榊原モナミという社員は、どうにもつかみどころのない女性だった。
自ら発見した異世界への接続方法を、会社に相談もせず論文にして発表してしまう。誰かに尋ねられれば、重要な情報であっても、ためらうことなく教えてしまう。
会社にとっては、実に扱いの難しい社員だった。
誰かが彼女に取り入り、アルケディアへ接続するための座標まで聞き出してしまうのではないか。
そう危惧した野崎は、榊原を新たに発見された異世界の調査へ向かわせた。
彼女が不在の間に、本社との揉め事を片づけ、政府との折衝を進める。異世界に関する情報の管理体制も、早急に整えなければならなかった。
ところが、ようやく一つ問題を片づけたと思った矢先、榊原は新たな異世界で、またしても神と騒動を起こした。
「我が社の金の卵は、問題ばかり起こす……」
野崎は深いため息をついたそのとき、ポケットの中で携帯電話が震える。
ディスプレイには、『弁慶』の文字が表示されていた。
「どうした、弁慶。榊原君に、また何かあったのか?」
思わず声が上ずった自覚があり、野崎は軽く咳払いをした。
『いえ……野崎CEO。お話があります。今からお邪魔してもよろしいでしょうか?』
野崎の居住スペースは広かった。
寝室や書斎は一般的な広さだったが、普段過ごすリビングだけは四十畳近い広さがある。
社内の打ち合わせができるほど開放的な空間で、来客を迎えることも少なくなかった。
弁慶はテーブルとソファーが置かれた一角へ案内されて腰を下ろした。
きょろきょろと室内を見回し、何度も視線を入口へ向ける。
「どうした?」
「なんだか……誰かに見張られているような気がして」
弁慶は照れ笑いを浮かべた。
「……気のせいでした」
いつものお気楽な弁慶とはまるで違う。
どこか怯えるように肩をすぼめ、落ち着かない様子だった。
その後、ようやく落ち着きを取り戻した弁慶から意外な言葉が飛び出した。
「あたい、会社を辞めます。これ辞表です」
余りに意外な申し出に、野崎はやや焦り気味に言葉を紡いだ。
「突然何を言い出す。君の力のことはまだ部外へは知られていない。だからしばらく様子を見たらどうだ。その内事態が好転してくるかもしれないだろう?」
弁慶は力なく首を振り、ぼそりとこぼす。
「いえ、直ぐに知られてしまう。そしてここに世界中からスパイや政府関係者が来ちゃいます。そうなれば、会社にも迷惑が掛かるし、あたいが力を使って……ひ、人をあやめてしまうかもしれません」
野崎はビクリとして、改めて弁慶を見た。
言動は女性的だが、弁慶は筋肉質だった。その上闇の力を得て、怪力となっている。更には知の加護、そして時間まで操れるようになった。
弁慶は、また周りを見まわす。彼の異常な警戒心を見て、野崎は心を痛めた。
「ここは盗聴防止もきちんとされている。心配には及ばない」
野崎は立ち上がって、ワインセラーから瓶を取り出し、グラスに注ぎ入れて弁慶に差し出す。
「これはうまいぞ。どうだ?」
「はい。美味しいですね、スパークリングワイン?」
「はは、まあそんなものだ」
クラブなら一本で何十万円もする高級シャンパンだが、弁慶にとっては「おいしいスパークリングワイン」でしかないらしい。
野崎は思わず苦笑した。
「弁慶。ここを辞めてどうする。君が危惧していることは、世界中どこへ行ってもついて回る問題だ。我が社に迷惑が掛かるという心配もしなくて良い。だから考え直さないか?」
弁慶はグラスを置き、野崎の目をまっすぐ見て言った。
「あたい、アルケディアで暮らします。あそこなら、あたいの力で危害を加えられる存在はいないでしょう。それに、日本との連絡も取れます。野崎CEO。どうか、あたいの願いを聞き入れてください」
弁慶がそう言った瞬間、野崎の目の前にエロスが現れた。
《弁慶! やっと決心したんだね。みんなでアルケディアへ行こう!》
「エロス! 君、ずっとあたいを見張ってた?」
《そうだよ。心配だったからね。でも、ビクビクしている弁慶、面白かった!》




